寛文二年(一六六二)九月二十二日、津軽信英が弘前城内で死去した。遣領は、長子の信敏(のぶとし)(一六四八~一六八三)が継いだ。しかし、このとき、弟の信純(のぶずみ)(一六五〇~一六七五)に黒石領飛内(とびない)村など五〇〇石、上野国赤堀村など五〇〇石、計一〇〇〇石を分知し、ここに黒石津軽家も二家に分かれた。ともに、幕府旗本として、信敏は小普請組に配され、信純は書院番に列した。信英の死去によって後見政治の時代は終わる。
後見政治の終焉後、延宝年間にかけては、信政が自己の藩主権力を強化していく時代であり、その藩主権力を行政・軍事両面から支えていく「役方(やくかた)」(藩の行政執行機関)、「番方(ばんかた)」(藩の軍事機構)が徐々に確立していった時期である(福井敏隆「津軽藩における支配機構の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」長谷川成一編『北奥地域史の研究』)。
まず番方の機構では、寛文六年(一六六六)二月十六日、騎馬侍の組が四組作られ、頭に選ばれた津軽政朝(まさとも)・大道寺為久(ためひさ)・津軽為節(ためとき)・杉山吉成(よしなり)の四人に、それぞれ騎馬五〇騎が預けられた。頭の四人はいずれも藩主信政の親族に当たる人々であり(政朝は津軽信隆の養子で信政の同母弟、為久と為節は信政の叔父、吉成は信政の義理の大叔父)、一門による騎馬侍の掌握が図られたといってよい。彼ら四人は「大頭」と呼ばれ、その下に二人宛ての組頭が置かれていた。一方、翌寛文七年十月二十九日には、唐牛三左衛門・溝江半右衛門が、二〇〇石以上の藩士で、「御手廻」の「御本参」、すなわち藩成立当初からの譜代の人々の小頭とされ、これに該当する七〇人のうち四五人が両名の支配となっている。
寛文九年に発生した寛文蝦夷蜂起は、津軽弘前藩の番方組織にも大きな影響を与えた。蝦夷蜂起の鎮圧後の寛文十年十一月十五日、大頭の一人大道寺為久が青森支配を命じられ、翌年には青森に居所を構え引っ越すよう申し渡された(「国日記」寛文十年十二月十五日条)。いわゆる青森城代の創設である。その任務は、蝦夷地への物資集散地というだけではなく、最前線基地という役割を担うこととなった青森にあって、その軍事的指揮に当たることになったと考えられる。一方、先に騎馬侍で構成された四組は、以後一〇組に増加していたが、寛文十二年(一六七二)十二月十八日、一番から四番組を構成する組士に限定された。また同日新参者で構成される新組が一一番から一三番まで編成され、五番から一三組までで組を編成するよう命じられている。このような組の再編・整備も蝦夷蜂起が契機となったと考えられている。
延宝二年(一六七四)十月には、各組の大頭の移動が行われ、家老たちが組支配に携わるようになった。このことは、藩政の役方と番方の組織分離がまだ不十分であることを示している。
延宝七年(一六七九)正月十一日、それまでの御本参・新参を改組し、手廻組五組・馬廻組七組を置き、また留守居組二組を創設し、それぞれにその組を支配する組頭とそのもとに置かれる番頭の任命がなされた。手廻組頭には津軽政朝・津軽為玄(ためもと)・梶川政順(まさより)という藩主信政の弟たちが命じられ、馬廻組頭は家老・重臣層が務めている。また組によって本参のみ、新参のみという制限がなくなり、各組を構成する藩士は入り交じっている。一方で、組頭の人事から、依然として一門・重臣層による軍事組織の掌握が図られていることや、また家老と組頭の兼任がみられることは、実質的な組織分離には至っていないことを示すと考えられる。
さらに延宝八年十二月六日には足軽組(あしがるぐみ)が再編された。津軽家でも足軽そのものが古くから存在したことはいうまでもないが、延宝元年に一二組の諸手足軽組が、また翌年十月には二組の御先手組と御手弓足軽が設置され、また延宝三年春には郷足軽(ごうあしがる)が制度化され、在地の小知行士に対して足軽勤務が義務づけられるなど、着々と整備が進んでいた。足軽組再編によって、足軽組の編成は、大組足軽組(おおぐみあしがるぐみ)(御先手組、三組)・御持筒足軽組(おもちづつあしがるぐみ)(御鉄炮足軽組、三組)・御旗足軽組(おはたあしがるぐみ)(二組)・諸手足軽組(もろてあしがるぐみ)(一二組)・御持鑓足軽組(おもちやりあしがるぐみ)(三組。のち持鑓中間(もちやりちゅうげん)によって編成)・御長柄足軽組(おながえあしがるぐみ)(三組)・御城附足軽組(おしろつきあしがるぐみ)(三組)となり、それぞれの頭には上級藩士が命じられた。ただし、手廻・馬廻・留守居三組の頭が「組頭」と呼ばれるのに対して、足軽組はたとえば「大組足軽頭」というように、「組頭」とは呼ばれなかった。郷足軽は別に郷足軽組が編成されたが、ほとんどが諸手足軽頭支配とされた(山上笙介『津軽の武士 1』一九八二年 北方新社刊)。
一方、役方における重要な動きとしては、延宝七年十一月十一日、用人職が設置され、田村幸則(たむらゆきのり)(生没年不詳)が任じられた。用人は家老に次ぐ役方の重職で、その支配対象は広範囲にわたり、使役・船奉行・寺社奉行・町奉行・勘定奉行から中間支配頭にまで及び、金銀の出納面では銀一貫目・金一〇両未満については独自の決裁ができた(資料近世1No.七八二)。次いで、十二月には間宮勝守・堀利盛・木村明矩が、翌年四月には唐牛甚右衛門嘉治が任じられている。用人に任じられた四人の共通点として、江戸詰が長く、藩主信政に近侍する役だったことなどから、信政が自己の側近を重職に抜擢(ばってき)したといえよう。
すでに寛文六年(一六六六)二月二十六日、進藤正次・一町田八郎右衛門が、御鷹方・御馬方・御茶道方同朋共・御台所方・御殺生方の支配を下命されている(「進藤庄兵衛・一町田八郎右衛門被仰付御用方之覚」国立史料館編『史料館叢書三 津軽家御定書』一九八一年 東京大学出版会刊)。この支配割り当ては、後に用人の支配職分に含まれることから、この時点に用人職の萌芽を見いだすことができる。さらに延宝三年(一六七五)二月十日、北村内記と棟方清久(きよひさ)に、御馬方・御鷹方・御殺生方・御台所方・御医者・御茶道方・御扶持切米之者・御役者の管掌を命じ、翌日には支配方の心得が両人宛てに出されている。その内容は、進藤・一町田に出された支配割り当てよりも御用向が増しており、支配方についても上意下達がはっきりしてきた。北村・棟方の職掌は、用人へさらに一歩近づいたものといえよう。
このような過程を経た用人職創設のねらいはどこにあったのであろうか。延宝七年十二月十三日に間宮・堀・木村の三人に出した「覚」(「江戸日記」延宝七年十二月十三日条)によれば、藩主へ直接上申する権利を認めており、用人の支配する事柄について、直接藩主の決裁が下りる道を開いたともいえる。従来は、何事も家老を経由した上意下達のシステムがしかれていたと思われるが、それが一部崩され、家老の職務権限が弱められたといえる。
なお、これ以降の家老就任者と用人就任者を比べると、家老は門閥・譜代重臣層が登用されるのに対して、用人職には、家老就任前のこれらのものが登用されるケースのほか、行政能力に優れた実務派官僚的家臣が任用されることも多い。