箱館の町勢

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 この時代の箱館市中の状況を、弘化2(1845)年松浦武四郎の『蝦夷日誌』によって見ると以下に記すようなたたずまいになる。「亀田から入ると街の入口に桝形があり、ここに一軒の茶屋があって酒肴などをあきない、市人の送り迎えなどをはじめ、また夕涼みや春の汐干など遊山する人びとの休所となっていた。その風景は実に住の江の岸にもまさり、諸国の船々の出入れを臥して眺めるさまは、まことにいう言葉もないくらいであった」という。
地蔵町」 この桝形を入れば地蔵町で、町並みはおよそ5丁ばかりで、小商人、場所出稼人、漁師、職人などが住み、1丁ばかり行って龍神社があり、八大龍王を祀る。ここから左うしろへ1丁ばかり入ると、高田屋の屋敷跡があり、東西50間余南北80間家作はみな取払われたが、泉水築山などとともに四囲の土塀が存在し、近来この屋敷内に非常用の備米蔵が建てられている。また、この町名の起こりである地蔵堂がある。これは高龍寺の末庵で、この境内には仙台の俳人松窓乙二の門人で、箱館の人、雁k来舎の「葉すくなの松よりさひし我姿 雁来舎」と刻まれた姿塚が建てられている。この地蔵堂から1丁ばかり先に、栄国橋という板橋があり、これを渡ってすぐ右に50間に60間の築島があり、「高田屋の築島」といって、いまに船大工、碇鍛冶など数十戸が居住して造船に従事している。
 さて、ここから1丁ばかり行って道は左り山手にわかれて大工町があり。馬追いや日雇い、場所稼ぎの人びとが住み、その下の方に牢屋があって、かつてロシア人ゴロウニンもここに入れられたといい、この町から尻沢辺に至る道筋には南部家の陣屋跡がある。
内澗町」 地蔵町に続き本通り大町役所下の坂まで、およそ3丁の間を内澗町といい、ここには場所請負人の和賀屋、福島屋、浜田屋をはじめとし問屋小宿、小商人などが多く軒をならべ、その裏庭小路には「風呂敷」といわれる私娼妓があり、人目をはばかり風呂敷をかぶるところからこの名があるという。八幡社はこの内澗町から上り、石の華表(かひょう、鳥居)を建て美事な社境をなし、当地の産神として春秋2回の例祭が行われた。
会所町」 八幡社から西、役所の下までをいい、小役人、足軽、請負人小林屋などが住み、内澗町の上の山の端にあり、幕領時代に出来た町でこの町の上に観音堂があって、船玉様ともいい、十一面観音が本尊として祀られている。
 御役所の坂 一般にいい習わされたもので、この坂は内澗町大町の境から御役所にのぼる坂で、ここを登れば役所の正面両側に松並木があり、役所の裏山は薬師山(箱館山ともいう)を負い、前は北面して内澗町、大工町にのぞみ、東は観音堂、西は愛宕道にへだてる。これは寛政年間亀田村の館所をここに移したものである。
大町」 御役所の坂から沖ノ口門までをいい、問屋小宿、諸商人などの家作が美々しく、長崎屋といって長崎俵物会所ならびに俵物蔵があり、毎年江戸から普請役1人、長崎俵物方1人が出役して、東部産物を皆ここで改めて移出された。裏庭小路には小商人や私娼妓などが住んでいた。
 東の坂 町年寄白鳥新十郎宅の傍から登る坂で、御役所の御長屋下に出た。中の坂 この坂は浄玄寺にのぼる坂である。
 青龍山浄玄寺 浄土真宗東本願寺派松前専念寺の末寺であり、宗判の印形は専念寺の印形を用いている。境内はひろく、茶屋などがある。
 西の坂 これは亀屋武右衛門宅の傍からのぼる坂で、上に称名寺がある。
 護念山称名寺 法華寺の東、浄玄寺の西うしろ天神町寄りにあり、浄土宗松前光善寺の末寺で、山門、庫裏、本堂ともに美々しく立並び、もっとも庭中泉水築山が見事である。境内に年番鐘、観音堂があり、33所の観音仏像を安置する。この33所の観音というのは、文政の末ごろ当所町人蛯子長兵衛なるもの両3人の同行を伴い、この山に33所の石像を建立、天保3年ごろにようやく成就し、おわってこの境内に一宇を建て33体の木像を安置して、ここを濃州谷汲寺と表して参詣の者の浄衣をここに納めさせた。
 沖ノ口役所 ここは四つ角になっており、西は仲町、東は大町、北は沖ノ口の門通りである。海中へ少し築出し柵を結び、前に打貫門を建て、常灯明がある。文化8(1811)年5月に再建されたといい、日々目付1人、下代3人(徒士格御先手席の者)、足軽4人が勤務していた。
横町」 沖ノ口門の四つ角から南に入る。この町は家数およそ20軒ばかりで、髪結床、風呂屋ならびに小宿などがあり、この裏に煮売肴屋などもある。横町坂は横町から山の上に登る坂。法華寺坂は法華寺に上る坂である。
 経王山実行寺 東は称名寺 西は芝居坂の通りをへだてる。鐘や三十番神堂などがあって、毎月縁日には群集で賑わった。松前法華寺の末寺で、一般市民は法華寺といった。
裏町」 ここから地獄坂の下までをいい、小商人、小宿、煮売商、茶屋および私娼妓屋などがある。ここに3つの坂があり、芝居坂、糀屋坂、地獄坂という。
仲町」 沖ノ口門前四つ角から西の万の町をいい、いまこの町の半ばから西を弁天といっているが、古来から港の入口の岬に船の守り神弁天が祭ってあったためと思われる。また、弁天町はわずか弁天の前の1丁ばかりをいったものかとも思われる。旧図を見ると四つ角から高龍寺の前あたりまでを仲町と唱え、それより西を皆弁天といっている。けれどもいまではあの辺を弁天町といって仲町というものがない。それで高龍寺門前から鰪澗の海岸までをいっているのではないかと思われる。
 国下山高龍寺 禅宗曹洞派、本尊釈迦三尊で、境内ひろく、門の傍に金毘羅の社があり、庭中に泉水築山があって見事である。
弁天町」 いまこの高龍寺門前から西をいっているが、しかしはっきりしていない。請負人山田屋ならびに小商人、漁師、小宿などがあり、船は多くこの下へつなぐために一番繁華なところである。またここには「車櫂」(くるまがい)といわれる私娼妓がおり、この車櫂というのは南部北郡および津軽三厩辺で小船に用いる櫂で、両手で両舷に櫂をたてて漕ぐもので、彼女らは小舟にこれをたてて入津の船に至るため、いつかこれらを「車櫂」と呼ぶようになった。
 弁天社 石橋を渡った所にあり、ここは海中にさし出て矢不来岬に対峙している。かたわらに砲台があり、500目1挺、300目1挺を備えてある。
神明町」 高龍寺の西から鰪澗町に至る弁天町裏町である。縦町1すじ横町1すじになっている。ここをのぼれば神明社がある。
 神明社 神明町の上で、東は山ノ上町、後ろは壁穴、西は山背泊町にへだてる。樹木陰森として神寂たる所で、年2季の祭礼がある。
鰪澗町」 弁天社から南海岸片側の町で、漁師ならびに水主、車櫂などが住み、弁天町名主の支配である。また、ここに津軽陣屋跡がある。
山ノ上町」 東は法華寺、北は裏町の坂、西は神明社に限り、この間に横町3筋、縦町3筋あって山ノ上はここの総称である。青楼(遊女屋)が古来から18軒あり、その他小宿、煮売屋、酒屋などがある。青楼はいずれも見事で他国の人を驚かせる。芝居小屋もこの山ノ上町にあり、幕領時代に大石某が免許を得て建てたもので、いまも夏期に興行がある。
天神町」 愛宕山下から山ノ上町までにかかり、芸人や小宿などが居住する。
 天神社 この町にあり、この社のかたわらから3丁ほどのぼると愛宕山で、八幡社宮司持の社が美しく建ち、また港中を一望してよろしき所である。
 七面山 愛宕山にならび、麓から4丁ばかり登る。法華寺の支配で見事な堂舎の七面宮を安置する。またそばには茶屋などもあって、春秋のころには他国から入津する船頭や水主などが、妓を伴って酒宴をはるところである。
 薬師山 箱館山の頂上で峰つづきの少し東の方に薬師堂があり、市中で眼病を患う者がここにこもるという。
山背泊」 ここにはヤマセ風のとき船がかりするによい澗があり、人家15、6軒、みな漁師である。海辺に呑江楼という家があって楼作りで客を饗応する。
「サブカワ」 ここは1番札所のうしろの方に当り、岩澗に清水があって少しの砂原がある。ここにぬるい硫黄の温泉があるが、何の施設もなかった。
 尾嚊岬は薬師山の南面にあって南部の佐井岬に対峙する。この岬は岩石峨(が)々として海中にのぞみ、岩根には海鼠・鮑・海草などが多い。
 立待はこれまた岩岬で、砲台がこの上にあり、遠見番所があって足軽1人が在勤し、50目銃1挺、100目銃1挺、300目銃1挺が備えてある。南東は大洋にのぞみ、当所第1の要害とされ、南部尻屋岬と対して風光明美のところである。
尻沢辺村」 箱館山の東面で、うしろは山、谷地頭寄りである。南は立待岬で小石浜の平磯で、人家54軒、漁師のみである。
谷地頭」 尻沢辺から2丁ばかり上の方に谷地があり、そのためこの名がある。またむかしここに八ツの頭の大蛇が棲(す)んだのでこの地名となったという伝説もある。ここは植込みで茶屋などがあり、池には蓮を植え、藤を架し、葡萄をかけ、その他花菖蒲などもあって夏秋の眺望は名状しがたいという。
 以上が往時の箱館の姿で、箱館港内は四時船舶が絶えず、多いときは300余艘にも至り、冬期でも20艘から60艘位の船は入っていたと伝える。