寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩

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寛文蝦夷蜂起に際して、奥羽諸藩は、幕府から軍役発動を命じられたり、兵糧・武器の援助を松前藩に対して行ったり、また情報収集を行うなど、密接にかかわっていることが、らかにされている(菊池前掲書、長谷川前掲『近世国家東北大名』、浪川健治「藩政の展開と国家意識の形成―津軽藩における異民族支配と『北犾の押へ』論―」『日本史研究』二三七、浪川前掲書、福井前掲「支配機の一考察―寛文・延宝期を中心として―」、榎森前掲書および「シャクシャインの戦い」『白い国の詩』五一五、浅倉有子『北方史と近世社会』一九九九年 清文堂出版刊)。その中でも津軽弘前藩の役割は、軍役の遂行と、蝦夷地の動向を調査し幕府にその情報を提供することであった(長谷川前掲『近世国家東北大名』)。
 さて、蝦夷蜂起における幕府の軍役動員は、幕府の定めた基本原則に添って行われた。寛永十二年(一六三五)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正で、在国中の大名はなにがあっても、幕府の下知がなければ動くことができないという条項が付け加えられた。島原の乱でこの規定が厳密に解釈されてしまい、近隣諸大名が出兵せず、戦況が拡大してしまったことへの反省から、幕府は寛永十五年(一六三八)五月に条文の解釈を発表し、この条項の運用に変更を加えた。すなわち、将軍権力に対する反逆が生じた際には、幕府の許可を待たずに近接の諸大名が申し合わせて鎮圧するよう命じたのである(朝尾直弘『日本の歴史 一七 鎖国』一九七五年 小学館刊)。寛文三年(一六六三)改訂の武家諸法度でも、ここで問題とされる箇所については、寛永十二年次の条文に変更が加えられていないことから、寛永十五年の条文解釈が維持されたものと考えられる(柳真三・石井良助編『御触書寛保集成』一九三四年 岩波書店刊)。松前藩と海を隔てて隣国である津軽弘前藩盛岡藩にとっては、蜂起の報がもたらされた段階で、今後の派兵が想定されたとしてもおかしくはない。
 寛文九年七月八日、津軽弘前藩松前藩から蝦夷蜂起の第一報が届いた。藩では早速、松前から連絡がありしだい加勢人数を派することを決定し、その際には、鉄炮足軽小知行二五人を棟方二郎右衛門岡田理右衛門に添えてわすこととした(資料近世1No.八二八)。この出兵規模案は、鉄炮隊中心の、指揮者を足軽頭・物頭一人ずつという小人数であった。
 蜂起を伝える松前藩の通報に対し、国元では通報時点において加勢要請はいまだなされていないという認識だったが、江戸藩邸では手に余って加勢要請含みの通報であると理解した(同前)。このように当初藩では、国元江戸藩邸との間に派兵に対する認識の差が存在していた。情報の到達時点で幕府や松前藩の派兵に関する意向をつかめなかったためであろう。
 松前からの「蝦夷蜂起」の報によって、加勢が幕閣で討議されることを見越した江戸藩邸は、「松前表御加勢御人数定」(「津軽一統志」巻十上)を内々に国元へ命じた。この松前派兵の当初計画では、一番隊が杉山吉成、二番隊が津軽為節(ためとき)、そして三番隊が津軽信章(のぶあき)を侍大将とし、三番隊には大道寺為久が添えられることになっていた。また、杉山・津軽為節・大道寺は大頭(本節一「四代信政政治の動向と支配機の整備」参照)であり、加勢編成の主体はそれぞれの組であったことが判する。一番隊とされた杉山隊は八〇〇人編成(幕府への書き出しにおいては五〇〇人)としているが、出陣人数は四四二人、人足の人数は一一四〇人を数え、総人数は一五八二人を数えた。この軍備のうち鉄炮は四匁筒五〇挺、六匁筒一〇挺、拾匁筒一〇挺と計七〇挺、弾薬・食糧など三〇日分を装備することとされた。さらに三隊をわしても蝦夷蜂起が鎮圧されなければ、藩主信政自身の出馬、それに従う旗本人数が三〇〇〇人ということまで想定されたのである。これを寛永軍役令に照らすと、旗・鉄炮・鑓(やり)は七万石の軍役(ぐんやく)に匹敵し、人数は一〇万石の軍役を越えるものとなる。三隊の指揮者はいずれも家老城代であり、この出兵想は、領知四万七〇〇〇石の同藩の総力を挙げた、独自の軍事行動を前提とする性格を持つといえよう。ところが、幕府が津軽弘前藩に出動を命じた人数は侍と足軽四、五〇〇人であり(資料近世1No.八二一)、藩の出兵案とは大きくかけ離れていた。
 七月二十三日、江戸からの飛脚が弘前に着き、在府中の藩主信政の御意として、松前津軽為節杉山吉成大頭を勤める組の派兵を決定し、出兵が急遽(きゅうきょ)決定した場合には杉山組が先に蝦夷地に赴く旨を命じている(資料近世1No.八二九)。この時点では、当初のもくろみと変わって、動員が考えられていたのは、この二隊のみであったと思われる。
 次に、派兵が決定し、松前出兵が実施されるまでの対幕府折衝をみてみよう。この折衝においては、若年寄土井利房(わかどしよりどいとしふさ)が重要な役割を果たしていた。利房は津軽信政の義兄に当たる人物である。土井利勝(としかつ)の四男で、幼少より四代将軍家綱に近侍し、寛文元年(一六六一)奏者番(そうじゃばん)、同三年には若年寄となっており、信英没後、信政の後見人的立場にあったとも考えられている人物である(福井前掲論文)。七月十三日、信政が自ら大老酒井忠清のもとに赴き、松前から加勢が要請された場含、「人数少々」を派することの可否を問い合わせた。この際、忠清は、老中へ言上の取り次ぎについて土井利房へ申し入れるよう指示している。つまり幕府は、津軽家が幕府に対して意向を申し入れる際の取次として利房を指名したことになる。この酒井のもとに出向いたのも土井のアドバイスによる(「津軽一統志」巻十上)。
 翌日、老中から幕命によらない出兵は実質的に禁止された(同前)。しかし、結局幕府は、七月十七日松前藩から救援要請があった場合の出兵を認めた。津軽家では、同時にその旨、松前家へも通知した(同前)。江戸藩邸からは、翌十八日、棟方二郎右衛門岡田理右衛門らの派中止を命じられている(同前)。加勢を命じた幕命を背景に、幕府の意向をうかがいながら対応をとっていこうとする姿勢がみられる。
 この寛文蝦夷蜂起に奥羽諸藩は、いずれも何らかの対応を迫られていた。津軽弘前藩のみならず、盛岡藩秋田藩でも出兵の準備が進められ、盛岡藩から分かれた八戸藩も、寛文四年(一六六四)、宗家である盛岡藩と行動をともにすべく協議を重ねていた。また、松前藩からの要請に応じて、津軽弘前藩秋田藩盛岡藩仙台藩が兵器・兵糧の貸与という具体的な形での援助を行っている(「津軽一統志」巻十上、「雑書」)。津軽弘前藩では松前藩からの要請に応じて、鉄炮五〇挺・玉五〇〇〇発等を送っている(資料近世1No.八三〇)。
 松前藩の加勢について盛岡藩南部重信(一六一六~一七〇二)は、まず津軽弘前藩が出兵し、それでも手に余るようなら、盛岡藩八戸藩とともに加勢を命じられるという認識を示しているのである(「八戸藩目付所日記」寛文九年七月二十七日条 八市立図書館蔵)。加勢順位はこの時点で津軽第一、南部第二と幕府の意向を受けた形ですでに北奥諸藩内で公然化していたようである(浪川前掲書)。このため、津軽弘前藩が実際に加勢の行動に入らない段階では、盛岡・八戸藩では総力を挙げた出兵体制がとりにくかったと考えられ、盛岡藩が「盛岡中大小之面々」に対して出兵の心がけをするよう申し渡した(「雑書」寛文九年七月二十二日条)にもかかわらず、実際には小人数の動員のみが具体化されるにとどまった(「雑書」寛文九年八月朔日条)。

図94.南部重信画像

表18 松前御加勢出陣人数行列
 
5

25
鉄砲
25
長柄
30
騎馬
36
その他上下人数備   考
奉行1*2*20*組士からまわったもの
足軽大将1130 
組頭224 
旗差組頭2 
警固556警固とは小頭のことで足軽
小知行5人に付1人の割合でおかれている。
小知行小頭2 
組士36149 
旗差10 
足軽2525 
小知行31 
寄騎1032ここまでの上下人数 255
目付14 
使番16 
目付12 
小知行目付12 
医者212 
馬医12 
賄役
(小知行与頭)
612 
小荷駄付小知行48 
夫嵐子10支配人夫79 
鉄炮師2 
船頭2 
馬船頭2水主   8 
惣船之者共19水主 140 
飛脚船狄9 
侍大将1侍大将の手勢まで 121
侍大将馬廻歩卒20 
侍大将手勢100 
1331314148226522総計 912
164上下   295
人夫・水主227

 結局、実際に渡海したのは第一陣の杉山吉成以下七〇〇人余であり、九月五日、鰺ヶ沢から出立し、同八日に松前へ着船した(資料近世1No.八三三・八三六)。この派兵人数の中核をなしたのは杉山が大頭として支配する組であった。内訳をみると、主たる戦闘員と考えられるのは、旗の一三人、弓の三一人、鉄炮の三一人、長柄の四一人、騎馬士(寄騎を含む)の四八人、旗から騎馬士までの士分に付属する従者である上下が二五五人、侍大将杉山の手勢等一二一人で計五四〇人となる。船頭以下一八〇人(水主を含む)はまったくの非戦闘員と考えてよかろう。当時の藩の軍役体系がどのようなものだったか判しないが、寛永軍役令における五万石軍役を参考にすると、馬上・鉄炮・弓・鑓・旗ともすべて杉山の部隊は下まわっている。杉山ら大頭の支配は騎馬士のみであるが、今回の派兵では、それに旗・弓・鉄炮・長柄の組が合体して一つの部隊を編成している。津軽家側は蝦夷地クンヌイ(国縫、現北海道山越郡長万部町)まで出兵することを要望したが、松前家によって拒否され、結局杉山が手勢一〇〇人を引き連れ大野まで出向くのにとどまった。そして実際に戦闘することなく、十一月七日に松前から出船、同十日に弘前に戻った。幕府は津軽信政に対し、軍役遂行の代償として翌年の江戸への参勤を免じるとともに(資料近世1No.八三七)、出兵人数を公式に届け出た五〇〇人、出動日数を九五日間として算定し、兵糧米二三七石五斗を出羽国酒田において支給した(同前No.八三八~八四〇)。