安政期の蝦夷地警備と交通問題

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幕府はアメリカやイギリスに引き続き、嘉永六年(一八五三)十二月に日露和親(にちろわしん)条約を締結し、日本とロシアは正式に国境を接することとなった。津軽弘前藩にとって嘉永末年から安政年間(一八五四~六〇)にかけ、最大の外交問題は南下政策をとるロシアに対するための蝦夷地警備と、修好通商条約締結後は箱館開港に伴う交易にいかに対応するかの二つであった。
 蝦夷地警備に関して、幕府は安政元年(一八五四)に箱館奉行を設置し、翌二年には松前周辺のわずかな地域を除いて全蝦夷地の上知を決定した。そして蝦夷地の警備は箱館奉行の指揮下、弘前・盛岡・秋田・仙台・会津・鶴岡の東北諸藩と松前藩により分担されることとなった。津軽弘前藩箱館蝦夷地警備の本拠地ともいうべき千代ヶ台(ちよがだい)陣屋と、西蝦夷地スッツ(寿都(すっつ)、現北海道寿都町)に陣屋を建設し、両所に合計三〇〇人の兵員を常駐させねばならなかった。そして、西蝦夷地の乙部(オトベ)から神威(カムイ)岬までを警備担当地域として割り当てられた。
 当然、これらの陣屋建設や藩兵配置には膨大な費用がかかったので、幕府は警備負担の見返りとして警備地に隣接する土地を領地として与え、入植者による開発収益で負担に充てようとした。津軽弘前藩には寿都(スッツ)から瀬田内(セタナイ)(現瀬棚郡瀬棚町)を与えられたが、警備兵配置と越冬の手当てで精一杯であり、とても場所を経営するような余裕はなかったようで、警備の負担はこのような措置では何ら軽減しなかった。さらに蝦夷地だけでなく、領内沿岸の警備体制も強化しなければならず、従来の三厩(みんまや)・竜飛(たっぴ)・小泊(こどまり)・袰月(ほろづき)の台場の他にも平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)に西洋流の台場陣屋を、藤島(ふじしま)(現同郡三厩村)にも台場陣屋を築造した。もちろん、これらの台場陣屋にも相応の人数と武器を配置しなければならず、軍事訓練から兵站(へいたん)までの一切を賄っていったのである。
 蝦夷地警備のための藩兵の訓練については、後で南溜池(みなみためいけ)の掘削との関連で詳しく触れるが、ここでは安政の箱館開港に伴う交易の様子を考察しよう。日米和親条約が締結された安政元年(一八五四)に、ペリーは帰路箱館に立ち寄り、港内の詳細な測量を行って帰国した。北洋で捕鯨が盛行していた当時のアメリカは、有望な薪水供給基地として箱館に大きな期待をかけていた。やがて安政五年(一八五八)五月には日米修好通商条約の内容が仙台藩留守居を通して報知され、国元へも回覧された(「国日記」安政五年五月十五日条)。また、下田開港につき孝天皇の勅書が諸大名間で回覧され(同前安政五年六月一日条)、箱館開港も具体的政治日程として認識され始めた。こうして、翌安政六年四月一日には弘前藩に対して、神奈川・長崎・箱館への出稼ぎと移住の自由、および八月二十一日には開港地における武士による武器購入の自由令が伝達された(「国日記」)。つまり、文字どおりに受け取ると、箱館には誰もが行けて、居住・労働できる法的根拠が示されたのである。
 しかし、津軽弘前藩がたとえば領内の労働人口移動をたやすく容認していたとみるのは誤りである。寛政年間より蝦夷地警備の問題が藩政の最重要課題として浮上すると、領内には様々な困難が生じたが、その第一が蝦夷地に向かっての農業労働力の流出であった。蝦夷地警備のため、津軽領では幕府役人東北諸藩の警備兵が大挙して通行し、街道筋の関所や宿駅の疲弊は未曾有(みぞう)の状況となった。一例を挙げると、羽州街道の要地浪岡(なみおか)・目鹿沢(めがさわ)村(現中津軽郡浪岡町)では、凶作で減収が続いているところに蝦夷地警備の人数・物資が殺到し、安政元年から四年にかけて村で賄った馬は延べ五六〇〇匹余、人夫は二七九〇人余にのぼり、これ以上の負担には耐えられないとして藩に救済を申し出ている(同前安政四年三月二十日条)。さらに、交通量の激増は碇ヶ関(いかりがせき)・大間越(おおまごし)などの関所の機能を麻痺させていった。碇ヶ関羽州街道最大の関所であったが、山中にあるため、早瀬野口など他の間道から通行手形を持たない旅人の出入りがあとを絶たず、藩では沢に番小屋を設置してこれを摘発しようとしたが、あまりにも沢の数が多く、そこに配置する役人の数も足りないとして、結局は地元住民に厳重注意を促すだけで処理を終えざるをえなかった(「国日記」安政四年八月二十四日条)。
 また、不正に旅をする通行人や隠津出(かくれつだし)という密輸を水際で摘発すべき湊役人の実態も、この安政期には散々なありさまであった。特に青森油川(あぶらかわ)から蟹田(かにた)方面の上磯(かみいそ)と呼ばれる沿海地帯の状況は深刻で、蝦夷地警備のため多くの藩兵が動員されたため、湊役人には適材を得ず、彼らは朝夕だけ浜前に出かけて一回りし、繋留(けいりゅう)する船がいなければすぐに番所に戻ってきてしまった。そして雨が降ると仕事を休み、せっかく隠津出の犯人を捕らえても容易に逃亡させてしまうといった事態が相次ぎ、村の重立(おもだち)も犯人の報復を恐れていいかげんな捜査しかしないという状況に陥っていた(同前安政四年四月五日条・同五年正月二十八日条・同六年正月二十一日条)。
 このような陸上・海上交通規制の混乱は絶え間ない人的・物的資源の領外流出を招いた。箱館奉行所としては労働力確保のためできるだけ多くの農民を蝦夷地に募りたかったが、労働力の不足は弘前藩にしても深刻であった。天保の大飢饉で荒廃した農村の中には、いまだ再耕作されずに荒廃している田畑が数多くあったが、藩の大きな悩みは、農民たちがその田畑を捨てて、すぐに金を得られる蝦夷地の鯡場(にしんば)稼ぎや、箱館松前・江差(えさし)といった町場に女中奉公や茶屋奉公などの出稼ぎに出てしまうことであった。藩はたびたびこうした出稼ぎに対して規制を強化したが、箱館奉行所との兼ね合いで全面的に禁止するわけにはいかなかった。特に藩が警戒したのは津軽の穀倉地帯である木造(きづくり)街道沿いの村々(現西北津軽郡一帯)に出稼ぎを勧誘する幕府役人や、ブローカー的商人が入り込むことであった。そのため、藩では旅人に対して下之切(しものきり)街道や木造方面への枝道を通行しないように指導したが、前述したような関所機能の低下により、実効は上がらなかった(同前安政四年九月十二日条)。
 危機感を増大させた藩では、続く文久年間に入ると領内の人口把握を強化した。それが「面改(つらあらため)」という方策で、町や村の支配頭により実際に各の人員を確認して藩に報告することとされた。表63は元治元年(一八六四)の九浦(くうら)(碇ヶ関・野内・大間越の三関と青森鰺ヶ沢など六つの主要港町)の人口に占める出稼ぎ人の割合であるが、全体で九・三パーセントの者が他領に流出している実態が分かる。特に青森深浦蟹田では生産労働力人口(十六歳~五十九歳の者)の一〇パーセント以上が出稼ぎに出ており、これらの者の行き先のほとんどが蝦夷地であったことは、「国日記」の記載からみて間違いない。津軽の民衆にとって蝦夷地に出かけることは決して珍しいことではなく、多くの人々が開港地箱館で異人や異国の文物に触れたのである。
表63 元治元年(1864)九浦出稼ぎ率一覧
No.地名総人口男   子女   子出稼ぎ
総合
(%)
人口生産労
働力人
口(A)
出稼ぎ
人数
(B)
B/A
(%)
人口生産労
働力人
口(C)
出稼ぎ
人数
(D)
C/D
(%)
1青 森9,9914,9683,14245314.45,0233,16741313.013.7
2鯵ヶ沢3,9161,8251,14211910.42,0911,2931088.49.4
3深 浦1,3666643879624.8702415204.814.8
4十 三1,23161938620.561232720.60.6
5碇ヶ関80240825231.2394242000.6
6大間越270125820014585000
7野 内82340723152.241622162.72.5
8蟹 田7173682204118.6349189157.913.3
9今 別1,486753431184.2732433194.44.3
20,60210,1376,27373711.710,4646,3725839.19.3
注)「元治元年八月改九浦町中人別諸工諸家業総括牒」(弘図八)より作成。
表中「生産労働力人口」とは年齢が16歳より59歳の者を意味する。