天正十八年七月晦日、秀吉は「城之事も相改、不入処ハ破却之義被仰付候」(同前No.一七)という文言を含んだ朱印状を発給し、城の破却を命じた。これに先立って、南部信直は、七月二十七日に家中の者どもの城をことごとく破却し、妻子を信直の居城である三戸(さんのへ)に集住させることを命じられた(同前No.一六)。また、翌七月二十八日には、戸沢光盛(とざわみつもり)に対しても城の破却が命じられている(以下の記述は、小林清治『秀吉権力の形成―書札礼・禁制・城郭政策―』一九九四年 東京大学出版会刊による)。このほかにも、七月二十八日、宇都宮滞在中の秀吉の破城令が、佐竹氏にいち早く伝えられる。九月二十日には、大谷吉継(おおたによしつぐ)が伊達政宗に城破却と武具狩を督促している。このときに破却される城は、伊達領国内のものなのか、当時伊達氏が接収に当たっていた葛西・大崎領のものなのかは直ちには明らかにできないが、伊達氏の本領である伊達郡でも、石母田(いしもだ)城などが破却されるような状況にはあったという。
城破りの実際は、戸沢光盛領の出羽山本・平賀・仙北三郡では、光盛居城の角館(かくのだて)一城だけが残されたと伝えられるが、南部領では天正二十年(一五九二)の破却以前に四八城あったとされ、天正十八年(一五九〇)に城破りが行われたとは考えられない。また、豊臣大名である蒲生氏郷に与えられた会津などで、少なくとも一〇城が残されており、木村吉清に与えられた葛西・大崎領でも複数の城が残されている。つまり、大名の居城のみを残して家中の者どもの城を破却するというのは、理想・努力目標にとどまるもので、実際には相当数の城が残されていたのである。
さて、仕置が一応の終了をみたころ、陸奥国では和賀・稗貫、そして、葛西・大崎旧領、出羽国では仙北・由利・庄内藤島で、この仕置に反対する一揆が勃発した。出羽国の一揆は天正十八年には鎮圧された。出羽国の大小名がこの年の末にこぞって上洛できたのは、これらの一揆が鎮圧されたからにほかならない。一方、陸奥国では、葛西・大崎の一揆は、蒲生氏郷(がもううじさと)・伊達政宗の出陣により沈静化するものの、宮沢城・佐沼城では一揆勢が固守したまま越年となった。さらに、和賀・稗貫でも、改易されたはずの和賀・稗貫両氏が実権を掌握して天正十九年八月に至っている。そして、天正十九年の春には、九戸政実(くのへまさざね)が櫛引清長(くしひききよなが)らとともに、南部信直に敵対するようになっていた(小林前掲「九戸合戦―中世糠部郡の終末―」)。
天正十九年六月二十日、豊臣秀吉は、奥州奥郡の仕置(一揆鎮圧)のための陣容・進路、そして、進軍の方法を指示する朱印状を下した(資料近世1No.三六)。この第七条には、葛西・大崎旧領はことごとく平定し、城については伊達政宗に従い、多くはならないように普請をし、そのほかの城については破却するようにと指示している。南部信直の場合のように、家中の者どもの城をことごとく破却することが城破りの原則であったとき、ここでの指示はそれを後退させるものであり、一揆という現実に応じたものへと変化したものであるということができる。実際、葛西・大崎旧領では、柏山・水沢・江刺・気仙などの城が取り立てられて普請を加えられている。また、九戸政実の降伏後、九戸城が再普請され南部氏の居城とされた(「浅野家文書」六一号など)。
また、南部領では、天正二十年(一五九二)六月十一日、領内の諸城の破却の状況を書き上げているが(「聞老遺事」)、それによると、四八城の内一二城が残され、三六城が破却されている。南部領でも、天正十八年七月二十七日の破却の指令が直ちに実施に移されたとは考えられない。南部信直が肥前名護屋(なごや)に在陣中の十二月晦日の段階でも、「在府」については、自分が国元に帰ってから説得しようというように(「宝翰類聚(ほうかんるいじゅ)」坤)、城破りは徹底されていなかったようである。さらに、出羽国の最上領でも、元和八年(一六二二)に改易により最上義俊が接収された由利郡を除いた地域でも、山形城などの二〇城が存在していたという。
さて、津軽地域であるが、「津軽徧覧日記」の「古城・古館之覚」によると、領主が不明なもの・伝説的なものを含め、七六の城郭・城館が書き上げられている(以下は、長谷川成一「本州北端における近世城下町の成立」北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』一九九三年 三省堂刊)。このうち、為信の代に征伐の対象となったのが、大光寺・浪岡・浅瀬石(あせいし)・田舎館(いなかだて)・油川・和徳の八ヵ所であり、譜代の家臣などを含めた城郭が三二館であるという。これらは、奥羽仕置による城の破却の指令により、軍事的機能を除かれたものの、作事(さくじ)(建築物)の部分を「平屋敷」として残されたという。
以上のように、奥羽仕置の中での城破りは、現実的には不徹底なものであった。しかしながら、天正十九年の一揆鎮圧の際に、軍勢を通路の諸城に入れ置きながら進軍する方法を採ることによって、通路の諸城は一時期ではあるが豊臣勢の城となったのである。これにより、奥羽両国の城郭は秀吉のものであるという建前を実現させることができたのである。