津軽為信は、関ヶ原の戦いの際に、実際に合戦の行われた美濃国に赴いており、大垣城攻略に参加していたとされる。津軽家の官撰史書である「津軽一統志」からこの動乱時の動向を拾ってみれば、為信出陣、尾崎喜蔵・板垣兵部・三目内多田玄蕃の謀叛(むほん)、三将の堀越城占拠とそれに対する金小三郎の活躍、家康鷹匠三橋但馬守の下向と西軍敗北の伝達、三将討滅、為信の大垣城攻め参加、為信帰国と展開されていく(同前No.八二)。
しかし、為信の関ヶ原参陣は、古くから疑念が抱かれていた問題であった。たとえば、新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ)」の津軽氏の項(『新編藩翰譜』四 一九七七年 新人物往来社刊)では、為信が「東国の先陣」として関ヶ原に参陣したと述べた後、「さもあるべきことにや」、すなわち「そのようなこともあったのであろうか」と、為信の関ヶ原参陣を全面的には肯定しない形で記している。天保十三年(一八四二)に幕府に献じられた「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」の「東照宮御事蹟」別録七十九に、津軽為信が大垣城攻めに参加したことが記されている(『内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第一 朝野旧聞裒藁』二二 一九八四年 汲古書院刊)。しかし、これも確実な当時の一次史料によるものではなく、後に編まれた編纂物による記述である。
さきに述べた慶長五年七月段階の最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏は組み入れられておらず、当時の北奥羽の諸大名と異なる行動をとっていたと推定できる。現在確実な文書によって、この動乱の時期の津軽家の動向が確認できるのは、慶長五年八月十九日付の徳川秀忠が津軽為信に発した書状で、為信が家康に従って出陣することになっていたことを推測できる(資料近世1No.八一)。
図44.関ヶ原参陣を促す徳川秀忠御内書 津軽右京亮宛
また、「関ヶ原合戦図屏風」(大阪歴史博物館蔵)に描かれた幟(のぼり)の図柄から、津軽氏が関ヶ原へ参陣したという見方がある。この屏風絵は、津軽家が所蔵していたことから通称「津軽屏風」と称される(以後、「津軽屏風」と略記)。「津軽屏風」は、江戸時代初期(慶長五年以後一〇年余の内)の制作と推定され、関ヶ原合戦図中最古とされるものである。またこの屏風は自らの戦勝を記念するものとして、徳川家康が描かせたものともいわれ、合戦の実年月と屏風が制作された時期の間に時間差が少ないため、文献にはみられない実戦の記録性と迫力を持った屏風であるとされている。注目されるのは、この屏風の右隻、第五扇から第八扇に描かれた赤坂家康本陣の入口、馬屋付近に立てられている卍印が描かれた幟である。関ヶ原の合戦当時卍印の幟(のぼり)・旗差物を用いた大名は、堀・蜂須賀両氏のほかに津軽氏のみであり(堀氏は、さきにみた奥羽・越後各氏による上杉包囲網の一環として出羽庄内にいた)、さらに描かれた幟の図柄を仔細に検討すると、諸将旌旗図屏風(しょしょうせいきずびょうぶ)(静岡市立芹沢銈介美術館蔵)にみえる蜂須賀家の幟は卍が幟に一点でその下に藍色の染が入っているが、津軽家のそれは二点の卍が上下に並んで「津軽屏風」の幟と似ていること、さらに蜂須賀家は家康の赤坂本陣には在陣していなかったことから、この卍印幟を旗印とする軍勢は津軽氏の可能性が強いと考えられる(長谷川前掲論文)。
図45.津軽屏風に描かれた卍幟
図46.諸将旌旗図屏風にみえる津軽家(左)と蜂須賀家(右)の卍幟
では、なぜ上杉景勝包囲網に津軽氏が動員されず、関ヶ原へと出陣したのであろうか。この包囲網に動員された奥羽・越後の各氏は、南部利直を除いてはほとんど上杉氏と領界を接するため、出陣を命じられたのであり、津軽氏は上杉氏と領界を接することがないばかりか、極めて遠くにその所領が位置していたことがまず挙げられよう。次に、慶長五年九月の島津討伐を福島正則と黒田長政に命じた榊原康政(さかきばらやすまさ)ほか連署覚書には、「太閤様御置目(たいこうさまおんおきめ)」のごとくに出陣すべきことが定められていた。もし、上杉国替時の家康人数書立が、「太閣様御置目」のごとくと称する朝鮮出兵時の軍役に依拠して大名たちに動員が課せられたものとして、さらに島津出兵の覚書との連動がみられるとすれば、次のように考えることができる。第一次朝鮮出兵の際、文禄二年(一五九三)三月十日付の豊臣秀吉朱印状(東京帝国大学編纂兼発行『大日本古文書 浅野家文書』一九〇六年)は、朝鮮における諸大名の配置を、まだ渡海していない大名も含めて(そしてこの中には、その後の情勢の変化に伴って、実際に渡海をしていない大名も多く存在する)定めたものであるが、そのなかの「もくそ(牧使)城とりまき候衆」、すなわち牧使城を攻囲する軍勢として、蒲生氏郷、最上義光、木村重茲に属する一手として秋田実季、前田利家に属する一手として南部信直と本堂忠親、蒲生氏郷に属して大崎義隆、大谷吉隆の一手として由利五人衆といった、伊達氏と津軽氏を除いた大部分の奥羽大名が牧使城の攻撃軍に編成されていたことになる。この牧使城の攻囲に加わるはずだった奥羽大名と、慶長五・六年の上杉包囲網に動員された諸大名は当主の交代などの点を除けばほぼ一致する。慶長五・六年の奥羽地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば、「太閤様御置目」に従って動員・編成された奥羽の体制から津軽氏は除かれており、そのことが逆に津軽氏の関ヶ原参陣という状況をもたらしたといえるのではないだろうか。
慶長六年、関ヶ原での功績により、津軽為信に対して上野国勢多(こうずけのくにせた)郡のうち二〇〇〇石が加増されたといわれる。通常「上野国大舘領」と呼ばれる地域である(資料近世1No.一〇〇~一〇二)。この加増についても後世に編まれた編纂物にのみ記載されていることであり、実際のところ、いつどのような理由で津軽家が上野国に所領を有するようになったのかを記した同時代史料は存在しない。ただ、寛文四年(一六六四)、四代藩主津軽信政に対して発給された領知朱印状・領知目録には上野国勢多郡内に二〇〇〇石の所領がある旨を記載している(同前No.八七二・八七三)ことから、津軽家がこの上野国の所領を実際に支配していたことは事実である。
図47.上野国大舘領位置図