毛内宜応の「秘書 全」

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本書は、一般に「存寄書(ぞんじよりしょ)」と称され、改革意見書の中では最も知られているものである。毛内宜応茂粛(もうないぎおうしげとし)は、宝暦三年(一七五三)からのいわゆる「宝暦改革」において、乳井貢(にゅういみつぎ)とともに執政に参与した有右衛門茂巧(ありえもんしげよし)の嫡男。政策的に関連性を認めることはできないが、寛政改革の中心政策である「藩士土着政策」が復古的側面を持つことから、宝暦改革の挫折のなかで土着策の展開を考えることも、必要であろう。なお、意見書の理論的背景として、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の『政談(せいだん)』がたびたび引用されており、宜応自身の素養としては、徂徠学に傾倒していたことが知られる。
 さて、本書は、藩主が自筆書付において意見書の提出を奨励していることに基づいて提出したものであると、その冒頭に記されている。したがって、前述の天四年三月の信の意図に基づいた「存寄書」であることがわかる。その後の展開について「毛内宜応筆記」(『伝類』)によれば、天四年に信弘前入りした後の九月三日に、宜応が「藩士在宅、土着之存念書」を差し出したところ、翌日、条目のみでは不分であるから詳しく述べるように申し付けられたため、九月晦日に一冊にして提出した。そして、十月十一日に直接藩主に言上したところ、藩主の「重き御意」を得たとされている。
 藩主の「重き御意」は、同年十二月二十八日、藩士土着を志向する最初の法令として結実することとなる。本書はその意味で、藩政上重要な位置を占めており、また藩士土着策の政策的意図もそこに見いだすことができる。

図153.毛内宜応の存寄書
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 宜応は、結局の所は、人材を育成・登用することと、土着を実施することの二点に帰属すると結論を述べ、具体的に意見書を展開している。人材登用と土着策の推進である。以下、その内容をみていくことにする。
 ①藩士土着の形態
 宜応は、この土着は決して初めての政策ではなく、四代藩主信政(のぶまさ)の初年のころ(城下集住以前)までの姿(「往古」)に戻すということであるとする。そのころ、藩士たちは在所に住居し、そこから通勤して藩政に参与していた。そして、一定程度の開発を行った百姓については、小知行役(こちぎょうやく)として取り立てていた。しかし信政の入国によって、家臣たちに行儀作法を教えるという理由から知行蔵入(ちぎょうくらい)りとなった。その後、正徳二年(一七一二)、再び在方給地を与えることとしたが、その時の地方割り直しが、給地を極めて分散して与えたことから、どこの在所も本拠とすることができなくなってしまった。そこで必然的に城下住居となって、今日まで続いてきており、藩政上、さまざまな桎梏(しっこく)となっているとしている。
 そこで、宜応は次のように提言する。卯年(天三年)飢饉後、廃田は非常に多く、また諸所に存在しているのであるから、逆に容易に地方割り直しを断行することができる。この期を逃すことなく、分散した知行地を一ヵ所にまとめる形で、新たな地方割り直しを行うべきである。そしてそこに田屋所(たやしょ)を置き、家来・妻子を召し連れて手作りせよ、と。また、給地として配分すべき土地については、百姓負担、廃田の多少、土地の生産性を考慮し、「田舎庄(いなかのしょう)」に限定すべきとした。この給地の限定は、土着策を考える上で重要である。後にみるように、実際の土着策においては平賀庄の内、大光寺・尾崎・猿賀の三組が土着対象地からはずされており、宜応の建策との関連性がうかがわれる。
 そして、以上のような地方割り直しを行うことによって、藩領全体の財政を、「公務之入」「家中給仕」「国中之飯料」「年々之損毛」の四区分とし、残りが出た場合は、その分を凶作に備えての蓄えとすればよいとしている。
 ②藩士土着の得失
 本書は、現実の難しきをしのぎ、「御永久之御政道」を成就すべきものとして藩士土着策を掲げ、二一ヵ条に及んで土着の「徳」を説いている。そして、それは、天四年段階の状況を克服しうる土着の徳について述べた部分と、土着令後、あるいはそれと同時に出されるべき法令、または、土着令後実行しやすい諸法令に関する部分に大別される。後者は土着の徳を強調してはいるが、最終的には人材登用に帰着する内容である。
 まず、前者の徳は、飢饉後の農村状況と、藩士財政の窮乏という二つの状況を克服しうるという点に集約できる。そしてこれらが克服されることによって、藩財政そのものも好転し、理想的状況が開けるとする。
 農村状況は次の四点に集約される。(1)廃田の増大、(2)三民の本業遊離傾向、(3)治安の悪化、(4)耕作の無計画性、の四点である。
 (1)は、耕作力の補充源(労働力)として、藩士およびその家来・妻子をとらえることで、廃田開発を行いうる土着が有効としている。
 (2)は、農・工・商三民をその本来のあるべき姿に戻すためにも土着が必要だとする。農民の離農化傾向=農業人口の減少という点において、(1)と深い関連を持つが、特に農商分離という点で強調されている。農村疲弊は、単に、生活に困窮した農民が商人から金銀を借り入れたものの、返済できずに抵当に入れた田畑を取られた結果からくるものではないが、農民の困窮を前提として農商接近の状況が述べられている点に特徴がある。そして、手間稼ぎが広がっている状況を、藩士土着によって農業に専念させる方向に導けるとしている。この意味では、土着藩士は監督的立場に置かれたことになる。
 この(1)・(2)の点は、後に戸籍調査や営業規定等によって三民の計画的配分の方向に向かい、非人乞食も不足がちな仮子(かりこ)や奉公人として再編成されることになる。つまり、土着とはいっても基本はあくまでも三民による生産拡大なのであり、藩士やその家来・妻子は農村状況の関連でみたときは補完的役割しか持ちえないととらえられていたことになる。
 (3)は治安維持における土着の徳である。土着によって「武家在々ニ充満」する状態になることから、藩士を警察機の中に組み込めるとしている。
 (4)は「山川ニ理」のあることを農民に教えるためには土着が必要であるとする。山川の理とは、山や川の本来あるべき姿のことを意味している。それが農民の計画性のない耕作等によって、農事に支障を来たすほどの状況となっているのを是正すべきであるとし、そこに土着藩士が介在しうるとしている。それは、宜応の愚民観の現れであり、百姓潰れの原因を百姓自身に求めていくという論理である。ここに、百姓の生活指導をも含みこんだ長期的農業指導のためには、「山川之理ニ心得」のある藩士が、土着という形態をとることによって常時差配することが可能となるとしている。したがって、この意味では土着は生産性の安定化を目指している。
 次に、藩士財政の窮乏の克服という点から土着の徳の内容を追うと、(1)出費の削減、(2)藩財政の好転、(3)武備の充実、の三点が挙げられている。
 (1)は、藩士窮乏(「御家中困究(窮)」)の最大の要因である、奢侈(しゃし)による不要な出費がなくなるとする。この傾向は城下居住のために生ずるものであり、土着によって在方に移り住み、日々耕作に従事すれば「万事素朴」になるとしている。
 (2)は、藩士窮乏が、借り上げや知行蔵入によるものであると同時に、藩もまたその返済のために財政難になるという悪循環が、土着によって断ち切ることができるとする。つまり、土着によって藩士財政を自立させれば、藩財政造から藩士財政を分断することができ、ここに藩財政も好転するという論理である。八方塞がりの逼迫した借金財政の中で再び借金を重ねている状態を脱するには、藩士自らが生産手段を持ちうる土着形態に復することが必要とされているのであり、それはまた、農事に通じた役人の輩出にもつながるとしている。
 (3)は、現在、藩士たちは窮乏のため、軍役(ぐんやく)で定められた従者や、武器・馬もそろえることができない状態にある。土着によって手作りを行えば、知行以上の収入もあり、出費も少ないことから、藩から武備の充実を命令するまでもなく備えられるとする、土着正当論である。
 さて、以上から宜応のいう土着の「徳」をまとめると、次のようになる。土着はその形態から、生産力の向上と出費の抑制を目指したものであり、したがって藩財政および藩士財政を豊かにするものである。しかもこれによって土着した藩士は、三民の監督を行い、警察機能を果たし、生活指導を含んだ長期的農業指導も行いうる。また、藩士財政が豊かになるということは、必然的に藩財政の負担を軽減し、基本的な軍役をも負担しうる状況を作り出すことができる。なお、この時点では、まだ藩士全般に対してのものなのか、一部に対してのものなのかははっきりしないが、基調としては、小給家臣を基本としたものであったと読みとれる。
 次に、土着との関連法令、および関連事項についてみてみると、(1)土着地近辺の村や城下に学校を建てること、(2)籍や新規商売に関する制度を立てること、(3)商品の相場を立て、領外からの移入品については領内の五穀をもって融通すること、(4)定免制(じょうめんせい)とすること、(5)諸役職、特に四奉行代官湊目付等は能力のある者に任せ、かつその能力が発揮できる機にすること、の五点にまとめられる。
 (1)は、城下の各道場や城中講釈にたびたび出かけることができなくなることへの対応であるが、城中講釈の段階から学校形態を導く一契機を土着に求めているのは注目される。城下以外の地に学校を設置することは、通学の面もさることながら、前述の「徳」を象徴的に、かつ実質的に農村に及ぼそうとしたものとも考えられる。
 (2)は、城下を中心とした人別調査、城下整理がその目的となっている。内容は、城下の拡大をせず、新規商売を禁じ、取り締まりを厳重にすること。すなわち、土着によって弛緩するであろう城下を、小規模にすることによって治安と商売の存続を図り、一方で城下に滞留している遊民を農業人口に加えることを目指したものである。
 (3)は、領外から移入するものは、藩が五穀をもって買い上げたうえで領内に融通し、また領内産物を移出する場合は、いったん藩が買い上げたうえで、地払(じばら)い(領内での販売)なり廻船による積み出しなりを行うことによって、領内金銀を豊かにしようとする経済政策である。これは藩による流通統制であり、藩専売制を志向したものといえる。(2)による商家数の限定もこれに関連しており、いわば藩の出店の計画的設定として考えることもできるわけである。
 (4)は、土着によって田畑手入れも良くなり生産性が安定すること、また、検見(けみ)の際の費用が莫大であることからの施策である。
 (5)は、一般に人材の登用を意味するが、重点は、現場の状況に対応できず、また、裁量を発揮できない指揮系統を、一つの役職ごとに権限を持たせることによって是正することにある。そしてそのためには人材の選択が肝要であるとする。そこで重要とされる役職であるが、土着の側面から、勘定・郡・町奉行代官が挙げられ、町人への役金の負荷の側面等から浦々の町奉行湊目付が重視されている。特に代官郡奉行支配から離し、格上げをして郡奉行と同程度の扱いとして人数も減らし、その下に従来の代官レベルの格をもって、一組四人ずつを設定すべきとしている。これは、土着藩士在方においては代官の統制に入ることを意図しており、土着による藩政改変の必要性を説いている。
 以上、土着の「徳」と関連項目をみるとき、宜応は、この期の状況を踏まえると、土着策が藩の抱えた諸課題解決のための最も効果的な政策であると考えていたとみることができよう。