ここでは信明の日記を通して、藩主の日常生活がどのようなものであったかをみてみたい。
信明は天明四年(一七八四)二月に二十三歳で襲封(しゅうほう)し、同年八月二十日に初入国して以来、参勤交代による隔年の参府と帰国であったが、寛政三年(一七九一)六月に江戸で没した(『記類』上)。
図88.津軽信明画像
信明の「在国日記」(一六冊)は、信明が天明四年から寛政三年までの間において、在国中の日常生活を丹念に書き記したものである。その中から天明四年・寛政二年十二月の二ヵ月分を取り上げることにする(資料近世2No.一九九参照)。なお天明四年は天明の大飢饉の時期であり、寛政二年は藩士土着制(はんしどちゃくせい)(弘前在住の藩士を在方へ強制転居させた政策)が開始されていた時期である。天明四年十二月の概要を示すと次のようになる。
(天明四年)十二月一日、五ツ時(午前八時)起床。四ツ時(午前十時)朝飯。四ツ半時(午前十一時)にそれぞれの身分・階層に応じた座敷で月並(つきなみ)の礼を受ける。初御目見(はつおめみえ)(藩主へ初めて謁見すること)も済む。山吹ノ間(やまぶきのま)(各部屋などについては図87参照)で戸沢元吉へ小性組頭(こしょうくみがしら)(奥向(おくむき)の職制の一つ。藩主の居住する奥書院の守備に当たる)格を申し付ける。八ツ時すぎ(午後二時すぎ)夕飯(昼食)。六ツ半時すぎ(午後七時すぎ)夜食(夕飯のこと)。四ツ時すぎ(午後十時すぎ、以下現代の時刻で記す)就寝。
二日、午前八時すぎに起床。午前九時すぎに霊殿を参拝。午前十時すぎ朝飯。午前十一時に報恩(ほうおん)寺へ参詣し午後一時少し前に帰城。午後二時すぎ夕飯。三上理左衛門が参り、在方触を訂正して出すことを承認。午後七時すぎ夜食。午後十時すぎ就寝。
三日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時に肩衣を着け、山水ノ間で中畑孫兵衛の弓術の講義「蟇目(ひきめ)伝義」を聴く。終わって山吹ノ間へ出座し、家老津軽多膳(たぜん)と会い藩政について用談・決裁――来年の年男の件、鰺ヶ沢で江戸船が難破した件、参勤の時節につきお礼の飛脚を出発させる件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後四時、西の郭へ行くのに際し、番人を引き取らせ、居間の庭から側近の者ばかりを伴って出かけ、夕暮れころ帰る。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
四日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――大坂の小山屋吉兵衛へ証文一通差し出し一覧致す件、嶋崎屋(しまざきや)庄五郎の米返済方申し付けの件、施行(せぎょう)小屋(飢えた人々に食物を与えて救済する施設)について詮議する件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後三時すぎ二の丸馬場で乗馬する、暮れ前に終わって帰城。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
五日、午前八時起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時、長袴を着用して霊殿を参拝し、御菓子を供える。その後すぐ長勝寺へ参詣し、午後一時少し前に帰城。葛西(かさい)縫右衛門へ先月六日に遠慮を申し付け、今日で三十日になったので赦免の旨、手紙で多膳へ申し遣わす。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
六日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――木野(きの)清兵衛の預米願いにつき、一〇〇俵と銭二貫匁を遣わす件、山本四郎左衛門より造酒一〇〇石願い出の件、上方(かみがた)よりの調達を返済する件、施行小屋で飢えた人々を救済する件、その他。将軍へ献上する鱈が明後日に出発するので、山吹ノ間で見分する。鱈献上のついでに、江戸藩邸へ進物を遣わすよう申し付ける。午後三時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
七日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ霊殿参拝のあと朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――在々より減石願いの件、新寺町の貞昌寺(ていしょうじ)より深浦の荘厳(しょうごん)寺一件につき書き付けの件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時ころ就寝。
八日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――来年高岡霊社(たかおかれいしゃ)(現高照(たかてる)神社)へ参詣の名代は渡辺将監(しょうげん)とする件、在々において役人の農民の扱い方が厳しすぎ、農民が従わないとの噂があり、その取り扱い方についての件、渡辺将監の屋敷を津軽主水(もんど)へ遣わす件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時ころ就寝。
九日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹(款冬(かんとう))ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――来年参府の際、お供する家臣の件、その他。十一月十一日付出発の茶壺その他、江戸藩邸より到着。午後二時すぎ夕飯。明日飛脚が江戸へ出発するので、藩邸の真寿院(しんじゅいん)様(信明の母)その他へ寒中見舞いの手紙などを託す。午後七時夜食。午後十時すぎ就寝。
十日、午前八時すぎ起床。午前十時朝飯。午前十一時すぎ款冬ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――杉山源吾・高安(たかやす)治右衛門祖父拝領の紋付着用願いの件、勘定奉行より用達(ようたし)(御用商人)の増員願いの件、郡(こおり)奉行より在方において盗みをした犯人に対する刑罰を申し渡す件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十時すぎ就寝。
十一日、午前九時起床。午前十時朝飯。午前十一時すぎ麻裃を着用し山吹ノ間へ出座して、西館織部(にしだておりべ)へ来年の年男を命じる。すぐ平服に着替えて再び山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――勘定奉行より年末に払う金銭調達の件、郡奉行より代官表彰の件、田畑地に対する触書の下書(したが)きの件、その他。午後二時すぎ夕食。多膳より以前に申し付けた御供登帳を久蔵が提出する。煤払いの祝儀規式帳一冊を久蔵が提出。年男より、煤払い祝儀の献立を差し出すよう申し付ける。午後七時すぎ夜食。午後十時すぎ就寝。
十二日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝食。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――代官増員の件、諸願い差し出しの件、藤田軍八を役下げにする件、その他。喜多村監物(きたむらけんもつ)と会い、藩政につき用談・決裁――以前に差し出した計画書の件、来年の耕作についての件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
十三日、午前七時起床。午前八時すぎ朝飯。午前七時すぎより煤払いが始まり、正午ころに終わる。その後山吹ノ間で小姓組などの胴上げを見物、梅ノ間で同様な胴上げを見物し、十二時半ころ済む。午後二時すぎ着替えて、四季ノ間へ年男を呼び胴上げをし、祝儀の料理を食べる。夕方に奥へ参り祝儀を受ける。午後七時すぎ夜食。午後十時就寝。
十四日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ霊殿へ参拝。午前十時朝飯。午前十一時すぎに山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――一昨日提出した来年の耕作についての件は再度検討することを命じる。来年の参府につきお供する家臣の件、その他。午後二時すぎ夕飯。多膳より献上の雉子の件につき了承。報恩寺の湯治願いを了承。理左衛門と会い藩政について用談・決裁――このたびの耕作についての方策は、藩主の考えに理左衛門が感服し了承する、その他。午後七時すぎ夜食。午後十時すぎ就寝。
十五日、午前八時すぎ起床。午前十時朝飯。午前十一時継裃を着用して、山吹ノ間で明日出発予定の将軍へ献上の雉子を見分し、来春の参府に際し多膳がお供する家臣名を申し渡す。午後一時再び山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――藩士へ手当銭支給増額の件、郡奉行提出の存念書の件、江戸三河屋七兵衛の船が難破の件、常源寺(じょうげんじ)(現市内西茂森一丁目)より田村源太兵衛の倅、大赦(たいしゃ)願いの件、橋本円次不行跡につき役下げの件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後四時茶室において茶の稽古。午後七時すぎ茶室で饂飩(うどん)および夜食。饂飩は当番の道賢(どうけん)が相伴する。今日真寿院様その他より寒中見舞いの手紙と進物など到着。午後十時すぎ就寝。
十六日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――藩士へ手当銭支給増額の件は計算違いにつき据え置き、郡奉行工藤忠次・同手伝菊池寛司取り扱いよろしからずにつき役下げ、その他。午後二時すぎ夕飯。昨年・今年ともに藩士の生活困窮につき奥向(おくむき)の藩士へ手当金を支給。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
図89.在国日記の表紙と本文の一部
十七日、午前九時起床。午前十時朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――用達の苗字改め申し出の件、木野清兵衛より銭九貫目調達の件、その他。今朝江戸より出発の飛脚が到着し、真寿院様その他より寒中見舞いの手紙・進物が来る。牧野越中守(まきのえっちゅうのかみ)殿より四月参府せよとの奉書が到着。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
十八日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ霊殿を参拝。午前十時朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――山本四郎左衛門の酒田繰替米の件、大目付両人の生活困窮の申し出につき金一両ずつ支給、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時夜食。午後十時就寝。
十九日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ霊殿参拝。午前十時朝食。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――留守居組杉山田万之助病身につき隠居申し出の件、紙蔵へ購入の品注文書調帳勘定奉行より提出の件、その他。監物と会い、藩士で生活困窮に陥ったもの四、五〇人もあり、救済の申し出、その他。午後二時すぎ夕飯。午後四時より剣術を稽古し午後六時終わる。午後七時夜食。午後十一時ころ就寝。
二十日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。今日番頭(ばんがしら)以上の藩士が登城し、多膳よりこのたびの参府の時節決定の祝儀が報告される。この後、正午に款冬ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――大目付(おおめつけ)・山方取締役(やまかたとりしまりやく)など表彰の件、郡奉行より耕作予定書一通差し出しの件、御目見(めみえ)以下の者の分限帳(ぶげんちょう)(家臣の名簿)をみせるよう申し付ける、その他。午後二時すぎ夕飯。江戸より発送の蜜柑が到着、義貞院(ぎていいん)(信明の妹)その他より手紙や進物が来る。午後七時すぎ夜食。午後十一時すぎ就寝。
二十一日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝食。午前十一時、例月のように神拝、無事に終わる。そのあと山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――以前に提出の在方の者表彰および町人の年始御目見の件、昨日郡奉行より提出の耕作予定書返却、その他。午後二時すぎ夕飯。午後三時より二の丸馬場で乗馬、暮れ前に終わり帰城。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
二十二日、午前八時すぎ起床。午前十時朝飯。午前十一時すぎ、款冬ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――近習坊主(きんじゅうぼうず)(藩主の側近で殿内の給仕その他の雑役に従事)近藤久奇に茶道申し付けの件、藩士の生活困窮者救済の件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時就寝。
二十三日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝食。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――藩士へ手当金正月分を前繰り渡しするよう申し付ける。今日忘年と茶の口切の料理を申し付け、午後二時すぎ四季ノ間で祝う。午後七時に奥で夜食、引き続いて酒と吸物を申し付け、医者三人が相伴する。
二十四日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――町人・徒(かち)の御目見の件、勘定奉行より今年の収納米金調帳提出の件、その他。今日儺名(ついな)(追儺。悪鬼を払い疫病を除く儀式)につき夕(昼食)料理で四季ノ間において祝う。午後六時すぎ同じ場所で大豆囃子(まめばやし)を歌い踊ってお祝いし、宝船(たからぶね)(旧年の災いや穢れを乗せて流す厄払いの船)を出し、厄払(やくばら)いをする。暮れすぎ理左衛門と会い、耕作後の納入について種々尋ねる。午後七時すぎ夜食、その後に吸物と酒が出て医者三人が相伴する。午後十時すぎ就寝。
二十五日、午前七時起床。午前八時朝飯。午前九時、熨斗目半袴を着用し、午前十時前に霊殿へ参拝。その後すぐ長勝寺と報恩寺へ参詣して、正午すぎに帰城。午後二時に夕飯。午後七時すぎに夜食。午後十一時すぎに就寝。
この前に話のあった参府後の駕籠(かご)や挟箱(はさみばこ)(外出に際し、着替え用の衣服などを入れ、棒を通して従者にかつがせた箱)について指図をする。
二十六日、午前八時すぎ起床。午前十時朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――勘定人不足につき補充の件、木野清兵衛の松前へ渡海の件、山本四郎左衛門へ半兵衛より預米を五〇〇俵封印切り願いの件、牢奉行栗田(くりた)久之丞、廻船無難につき表彰の件、治左衛門(じざえもん)が訴状箱を持参し箱を開く件、その他。午後二時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。午後十一時すぎ就寝。
二十七日、午前八時すぎ起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――鰺ヶ沢蔵立合・同奉行が勤務よろしきにつき表彰の件、玄圭院(げんけいいん)様(五代信寿(のぶひさ))・浄心院(じょうしんいん)様(六代信著(のぶあき)の室)の命日に名代(みょうだい)参詣の件、藩士の希望の者による廃田再開発の件、その他。監物と会い、耕作用掛を命じ種々相談する。午後三時夕食。勘定奉行より、薬屋の金屋惣兵衛(かなやそうべえ)が今年春疫病流行に際し、薬を一万一五〇貼(ちょう)寄附したのに対し、表彰の申し出などあり。理左衛門と会い、在方の耕作などについていろいろ尋ねる。午後七時すぎ夜食。午後十一時すぎ就寝。
二十八日、午前八時起床。午前九時すぎ朝飯。午前十一時、それぞれの座敷において歳暮の礼を受ける。正午に四季ノ間において多膳と会い、藩政について用談・決裁――今年収納一紙目録・収納調帳・仮調帳など受け取りおよび返却の件、その他。その後、四季ノ間において多膳と主水(津軽主水)へ葵御紋付熨斗目・枝紋麻裃を遣わす。午後二時すぎ夕飯。今日歳暮の飛脚が出発するので、真寿院様その他へ手紙を出す。午後八時に夜食。午後十一時すぎ就寝。
二十九日、午前九時起床。午前十時朝飯。午前十一時より居間を清掃。午後二時に着替えて四季ノ間において夕料理祝い。久蔵へ三徳(さんとく)(三つの徳用のある鼻紙袋の一種)、勇八・半兵衛へ煙管(きせる)と煙草入(たばこいれ)、孫市へ両袖、福次郎ほか二人へ煙草入など遣わす。午後七時すぎ夜食。保養の薬は今晩まであり。夜食の吸物を当番の医者が相伴する。明日の用意をそれぞれ恒例により申し付ける。午後十時就寝。
以上のことから、信明の毎日の生活は遅く寝て遅く起き、藩政については月番の家老からその様子を聞き、それに対して指示を与え、また決断を下していた。また学者の講釈を聴き、乗馬・剣術などの鍛錬もしていたのである。
次に寛政二年(一七九〇)十二月については、主な行事と日常生活に関係のあるものを挙げておきたい。
(寛政二年)十二月一日、午前十一時すぎ継裃を着用し、それぞれの身分・階層に応じた座敷で月並の礼を受ける。詰座敷において初御目見(はつおめみえ)を受ける。終わって麻裃に着替え神拝。その後に、上ノ御廊下より岩木山を拝み、山吹ノ間で将軍へ献上の鱈を見分する。さらに館神(たてがみ)へ参詣。午後二時より継裃を着て芙蓉ノ間において、山崎図書(やまざきずしょ)による「大学」の講釈を聴く。午後四時すぎより上ノ御廊下で弓の稽古をして午後五時すぎ終わる。
二日、午前八時すぎ麻裃を着用し霊殿を拝む。午前十時すぎ報恩寺へ参詣。
三日、午前十一時すぎ麻裃を着用し毘沙門天(びしゃもんてん)を拝む。午後三時すぎより「説苑(ぜいえん)」会読、午後五時すぎ終わる。
四日、午後四時すぎより剣術稽古、午後五時すぎ終わる。
五日、午前十時、熨斗目長袴を着用し霊殿へ参拝、初代藩主為信の祥月命日(しょうつきめいにち)につきお菓子を供える。すぐ長勝寺へ参詣し、御影堂(みえいどう)(為信の御影を安置する堂)および位牌所を拝み午後一時帰城。江戸より飛脚が到着し、真寿院様その他より手紙や進物が来る。
六日、午後四時すぎより上ノ廊下で弓の稽古、五時すぎ終わる。
七日、午前十時ころ麻裃を着用し霊殿を参拝。
八日、午後三時すぎ梅ノ間において山崎図書が「孟子」を講釈、午後四時すぎ終わる。
九日、明日江戸へ飛脚が出発するので、真寿院様その他への手紙を依頼する。
十日、午後三時すぎより西湖ノ間において「説苑」会読、暮れ前に終わる。
十一日、午前十一時すぎ麻裃を着て山吹ノ間へ出座し、来年の年男に津軽文蔵(つがるぶんぞう)を申し付ける。その後、同部屋で将軍へ献上の雉子を見分する。
十二日、正午に款冬(かんとう)ノ間で家老添田儀左衛門(そえだぎざえもん)と会い、来年正月の高岡霊社(現高照神社)参詣の名代(みょうだい)を杉山源吾(すぎやまげんご)と決定。来年四月四日の久祥院(きゅうしょういん)(四代藩主信政の生母)一〇〇回忌法要は五〇回忌法要の時と同様に執行することに決まる。
十三日、午前七時すぎより年末の煤取り開始、胴上げをして午後二時すぎ終了し、入浴する。午後四時より四季ノ間において煤取りのお祝いをし、終了後に年男の津軽文蔵を胴上げする。その後、奥においても祝儀を受ける。夜食後に吸物・酒・肴などが出され、医者四人が相伴する。表(おもて)当番書役(かきやく)より近習坊主まで呼び、また胴上げをする。引き続き酒・肴などを遣わし、茶道・近習坊主へは囲炉裡ノ間(いろりのま)で酒を遣わす。
十五日、正午すぎ藩政に関する決裁が終わった後に、麻裃に着替えて神拝。十六日、午後四時ころより上ノ廊下で弓の稽古、五時すぎ終わる。夜食後に仕舞(しまい)をする。
十七日、江戸より蜜柑、真寿院様その他より進物および手紙が到着。午後三時すぎより二の丸で乗馬し、五時すぎに終わる。
十八日、午前九時すぎ麻裃を着用して霊殿を拝し、その後に神前へ拝礼。午後三時すぎより山水ノ間へ出座し、その後に梅ノ間において山崎図書が「孟子」を講釈し、午後五時すぎ終わる。
十九日、午前十時ころに霊殿へ参拝。午後四時ころより剣術を稽古し、午後五時すぎ終わる。
二十一日、午前十一時すぎ麻裃を着用し神拝。午後四時ころより上ノ廊下において弓の稽古をし、五時すぎに終了。
二十三日、午前十一時すぎ麻裃を着用し勢至菩薩(せいしぼさつ)を拝む。午後三時すぎより西湖ノ間において「説苑」会読があり、午後六時前に終わる。
二十五日、午前九時少しすぎに熨斗目半裃を着用し、神前へ拝礼し、霊殿へ参拝する。その後すぐ長勝寺へ参詣し、歳暮につき御影堂および位牌所を拝む。それから報恩寺へ参詣し、午後三時すぎに帰城。
二十六日、午後一時すぎに熨斗目麻裃を着用し、四季ノ間へ出座して忘年の料理を祝う。午後七時ころ夜食、その後に吸物・酒・肴が出て、山崎図書および医者四人が相伴する。当番の書役より近習の者まで呼び酒・肴を遣わす。夜の十二時ころ終わる。
二十八日、江戸より出発の飛脚今朝到着する。真寿院様その他より寒中見舞いの手紙など来る。午前十一時より麻裃を着用して款冬ノ間へ出座し、歳暮の進物が披露される。その後に家老・城代(じょうだい)(戦いの時、留守して国・城を守る任務)より歳暮の礼を受ける。さらに身分・階層に応じた座敷で歳暮の礼を受ける。それが終わって神前へ拝礼し、奥へ行って歳暮の礼を受ける。居間(いま)において小納戸役(こなんどやく)(藩主の衣類やその他の諸調度類などの仕度を整える役)が正月用の屠蘇(とそ)を作る。宝船を小納戸役が出し、側廻りや奥へも差し向け厄払いをする。歳暮の祝儀を奥や医者へも遣わす。明日飛脚が出発するので真寿院様その他へ歳暮の進物を依頼する。
二十九日、注連縄(しめなわ)を年男が飾りつけ、午後二時麻裃を着用し、四季ノ間で年越しのお祝いをする。月番の家老・用人・大目付が座敷の掃除・飾りつけを点検し、「よし」との報告あり。夜食後に吸物・酒・肴が出され、当番の医者が相伴し、午後十一時ころ終了する。
図90.年越しの膳
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