表38 在宅者数と在宅村数 |
庄名 | 組 名 | 在宅者数 | 在宅村数 | 文化10年 村 数 | 図155 の番号 |
鼻 和 庄 | 赤 石 | 15(人) | 7(村) | 53(村) | ① |
藤 代 | 84 | 18 | 54 | ② | |
駒 越 | 63 | 24 | 46 | ③ | |
高 杉 | 76 | 17 | 31 | ④ | |
平 賀 庄 | 大光寺 | 0 | 0 | 17 | ⑤ |
尾 崎 | 0 | 0 | 17 | ⑥ | |
猿 賀 | 0 | 0 | 19 | ⑦ | |
大 鰐 | 26 | 11 | 27 | ⑧ | |
和 徳 | 100 | 14 | 18 | ⑨ | |
堀 越 | 78 | 16 | 17 | ⑩ | |
田 舎 庄 | 田舎館 | 53 | 14 | 19 | ⑪ |
藤 崎 | 42 | 11 | 16 | ⑫ | |
柏 木 | 20 | 10 | 17 | ⑬ | |
常 盤 | 39 | 14 | 19 | ⑭ | |
増 館 | 28 | 12 | 16 | ⑮ | |
浪 岡 | 37 | 9 | 22 | ⑯ | |
赤 田 | 36 | 16 | 31 | ⑰ | |
広 田 | 14 | 10 | 29 | ⑱ | |
広 須 | 9 | 7 | 62 | ⑲ | |
飯 詰 | 20 | 9 | 28 | ⑳ | |
金 木 | 11 | 3 | 25 | ㉑ | |
横 内 | 6 | 6 | 45 | ㉒ | |
浦 町 | 14 | 9 | 22 | ㉓ | |
油 川 | 8 | 5 | 26 | ㉔ | |
後 潟 | 4 | 4 | 40 | ㉕ | |
木作新田 | 11 | 9 | 79 | ㉖ | |
俵元新田 | 2 | 2 | 8 | ㉗ | |
計 | 796人 | 257ヵ村 | 793ヵ村 |
注) | 寛政7年3月「御家中在宅之族村寄」(弘前市立図書館蔵)より作成。 |
表39 寛政8年広田組の内容 |
村 数 | 28ヵ村 | |
郷 士 | 3人 | |
手 代 | 2人 | |
庄 屋 | 11人 | |
五人組 | 29人 | |
在宅者 | 14軒 | |
戸 数 | 782軒 | 内,本家664軒 借地57軒 借家61軒 此訳,百姓320軒 高無467軒 |
田 高 | 8,804石37 | 内,給地直納246石76( 2.8%) 荒 地785石29(39.5%) |
畑 高 | 1,344石586 | 内,給地直納 28石64( 2.1%) 荒 地530石98(39.5%) |
田畑合高 | 10,148石956 | 内,給地直納 275石40 ( 2.7%) 荒 地1,316石286(13.0%) |
注) | 『平山日記』より作成。数値は史料記載値。 |
図155.在宅者と在宅村の分布
(1)天明飢饉による諸組作毛(さくもう)状況(表40)と比較した場合、比較的作毛率の高い、したがって荒れ地の少ない組への土着が多いこと。つまり土着の目的の一つとされる廃田開発とは、矛盾した在宅分布となっている。
表40 天明3年諸組作毛状況 |
庄名 | 組名 | 田 | 畑 |
平 賀 庄 | 大光寺 | 30% | 40% |
猿賀 | 30 | 40 | |
尾崎 | 20 | 30 | |
大鰐 | 20 | 30 | |
和徳 | 20 | 30 | |
堀越 | 20 | 30 | |
鼻 和 庄 | 藤代 | 10 | 40 |
高杉 | 10 | 40 | |
駒越 | 10 | 20 | |
赤石 | 10 | 10 | |
田 舎 庄 | 田舎館 | 10 | 20 |
赤田 | 10 | 20 | |
増館 | 10 | 10 | |
藤崎 | 10 | 10 | |
柏木 | 10 | 10 | |
常盤 | 10 | 10 | |
広田 | 10 | 10 | |
浪岡 | 10 | 10 | |
浦町 | 10 | 10 | |
横内 | 10 | 10 | |
飯詰 | 0 | 0 | |
金木 | 0 | 0 | |
俵元 | 0 | 0 | |
広須 | 0 | 0 | |
木造 | 0 | 0 | |
油川 | 0 | 0 | |
後潟 | 0 | 0 |
注) | 天明3年9月16日郡奉行調より作成(『津軽歴代記類』所収)。 |
(2)右の点と関連して、給地割に関して極めて藩士の意向を入れたものとなっていること。つまり、分散した給地のうち、石高の多い村への在宅を許可し、他に分散している分は、その周辺に生産性の高い蔵入地を代地として与えるという形で、給地の集中を図っている(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」寛政四年八月二十一日・同年九月九日条)。在宅所の城下周辺への集中は、藩士の給地決定権を大幅に認め、しかも耕作可能地を中心とした地方割の結果ということになる。したがって、給地割自体は家中成り立ちを基本としたものであったといえる。
以上、弘前城下周辺への在宅集中は、家中成り立ちの側面から企図されたものとすることができる。なお(3)とのかかわりからすれば、当時の農村状況が、それを可能としているという藩の認識があったことも見逃せない。つまり、藩士土着策は、当時の在方が活況を呈するようになっていたにもかかわらず、ただ藩士のみが困窮している状況(『平山日記』天明七年条)と、在方からの収取が思うにまかせないという状況を反映していたのである。在宅地を弘前周辺の耕作可能地の多い古村に集中させたのは、そのためであった。農村からの収取が可能であることが、藩士土着策展開の前提だったのである。
藩士を農村に居住させ、さらに分散した給地を集中させたことは、給人の地方支配を実質的に拡大したことになり、特に年貢収納において強力に発動されるために、より密着した、より強制力をもったものとして農民支配の貫徹が図られることとなる。したがって土着策の究極は、農村からの収取強化に帰着する。切米取家臣・金給家臣の場合も、当初は家内労働力による荒れ地開発が基本ではあったが、これも将来知行取家臣への移行が明確に企図されていたことから、結局は知行取家臣と同様であった。家中成り立ちの経済的基盤は、あくまでも農村からの収取に求められていたのである。在宅地の選定はこのことが前提であった。そして、百姓との縁組みを許可したり、家中不釣り合いの縁組みを許可した(資料近世2No.七八)のは、藩士たちを在宅地に居住させるための具体的な方策であったといえるのである。