吉田松陰は、嘉永四年(一八五一)十二月、仕えていた長州藩の許しを得ないまま、遊学していた江戸をたって、熊本藩士宮部鼎蔵(みやべていぞう)とともに東北地方を巡った。松陰が養子となった吉田家は、長州藩における山鹿流の兵学師範の家柄であり、この旅の主目的も兵学的立場における実地見聞だった。この東北旅行の旅日記が「東北遊日記(とうほくゆうにっき)」である(『吉田松陰全集』一〇 一九三九年 岩波書店刊)。
図201.東北遊日記
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松陰が津軽領にさしかかったのは嘉永五年二月のことである。同領に入る直前、秋田領小綱木(小繋(こつなぎ)村、現秋田県山本郡二ツ井(ふたつい)町)に宿泊した時、青森から国元に帰る途中の加賀出身の船頭から、津軽海峡を過ぎ去った「西洋の舶」が今年既に三、四隻あるという情報を得ている(二月二十七日条)。二月二十九日、松陰は矢立(やたて)峠を越えて津軽領に入った。この日の内に弘前に入った松陰は、翌三月朔日、弘前藩士伊東祐之(いとうすけゆき)(梅軒(ばいけん))を元長町(もとながまち)の屋敷に訪ねた。伊東は以前江戸と大坂に遊学しており、その折に志士たちとの交流が始まったという。弘化三年(一八四六)には長州萩で松陰と知り合っていた(家臣人名辞典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』一 一九八七年 新人物往来社刊)。伊東は松陰に対して津軽領の海防体制を語っている。海砲台は大間越・金井沢(金井ヶ沢)・小泊・竜飛・三厩・平舘・大浜(油川)・青森・野内の九ヵ所にあると述べている。また「三馬屋(厩)は原(も)と一隊を戍(じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは、直接海防に当たる人数ではなく、三厩に勤番し蝦夷地派兵に備える「松前御固人数」のことだと思われる。人数が減少したというのは、それ以前の蝦夷地現地派兵が行われていた時代、「物頭一手」が置かれていたころの三馬屋駐留の後詰人数との比較を示しているのであろう。さらに平舘は三厩より駐留の兵員が少ないことを述べ、また「松前非常」・「海岸非常」の各一隊ありとしているのは、「松前非常」隊が三厩駐留の「松前御固人数」のこと、「海岸非常」隊が津軽領沿岸に異国船が来航した際に派遣される「一番手人数」のことを指すものと思われる。さらに伊東は訓練の状況や隊の構成についても語っている。
図202.松陰が逗留した旧伊東邸松陰室
松陰は翌日弘前を発ち、藤崎・板柳・鶴田・五所川原・金木・赤堀(あかぼり)(現五所川原市)を通り、岩木川沿いを下って中里・脇元(現北津軽郡市浦村)を経て、三月四日に小泊に到着している。翌日小泊から北に向かった松陰の目に砲台がみえた。この砲台は、小泊七ツ石崎台場のことかと思われる。松陰はこの台場について、二門の砲を確認できたが、板囲いがされてあり、砲の長さや口径を明らかにできなかった、と記している。さらに北上した松陰は竜飛崎で津軽海峡を異国船が自由に往来することを嘆いたのち、三月六日に平舘に到着した。松陰は、平舘の砲台について、砲門が七つあるが、平常は砲を撤去しているとその様子を記し、平舘が要阨(ようやく)の地であり、砲台はそのところを得たものと述べている。同じ日の内に青森に入った松陰は、青森を一大湾港として認識し、軍艦数一〇隻を備え非常時に対応するよう主張している。彼は翌日、小湊(こみなと)、狩場沢(かりばさわ)を経て南部領へと抜けている。
図203.吉田松陰肖像
一方、村垣範正は、幕府の御庭番(おにわばん)の家筋で、天保二年(一八三一)に別家として召し出されたときにも小十人格(こじゅうにんかく)御庭番(二〇人扶持)からの出発だった。御庭番を勤めていた際には、自身もたびたび地方の国々に隠密に調査に出向いたり、また将軍徳川家慶(とくがわいえよし)の内命を受けて、天保期の御家騒動として有名な仙石騒動(せんごくそうどう)の調査にも当たったという。その後細工頭(さいくがしら)、賄頭(まかないがしら)を勤め、安政元年(一八五四)勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)となり、海防掛・蝦夷地掛を兼ねた。この村垣が安政元年(一八五四)、目付堀利煕(ほりとしひろ)と松前、蝦夷地の視察に赴いた。その道中津軽領を通過しており、道々、台場などを視察している。
村垣の公務記録である「村垣淡路守公務日記」(『大日本古文書 幕末外国関係文書』附録)によれば、村垣が馬門(まかど)口から津軽領に入ったのは、安政元年四月二十日のことである。この日は口広(くちひろ)・小湊・土屋(以上、現東津軽郡平内町)・浅虫・野内を通過し、青森に七つ時(午後四時)過ぎに到着して宿泊している。翌日青森をたち、油川村へと赴く途中、市街の外「北之出鼻」にあった台場を見分している。この青森の台場は、村垣の記述によれば、「三十間(約五四メートル)ニ高六尺(約一・八一メートル)」の規模であり、備えられた大砲は「十八ホント(ポンド)カノン(キャノン)一挺、十三貫目ホンヘ(ポンペ)筒其外六門」だったという。村垣はこの砲台の絵図面をとらせた。村垣はこの日油川・奥内(おくない)・蟹田を通り平舘に宿泊、翌二十二日、平舘を出立して同所の陣屋と台場の検分を行っている。その後、奥平部(おくたいらべ)村(現東津軽郡今別町)を経て、高野崎(鷹野崎)の台場を見分している。この台場は「絶壁高サ十六間(約二五・八メートル)程」の位置にあり、大砲が備えられていた。村垣はここでも砲台の絵図面をとらせた。その後、一行は、袰月村を経て三厩に入った。
図204.村垣範正肖像
村垣はここで風待ちのため五月四日の出帆まで足止めを余儀なくされたが、その間、四月二十六日には竜飛(たっぴ)岬と藤代(藤嶋ヵ)の台場を、そして五月二日には三厩陣屋の見分に赴いている。竜飛岬の台場の見分には三厩から船で赴き、上陸して岬の急坂を上って台場に着いている。台場の規模は一〇間四方ほどで、「一貫目玉筒弐挺、五百目玉筒一挺」が備え付けられていた。村垣は、「何れも和流、至而(いたって)古風」の大砲であると観察している。試みに空砲を一発、そして実射一発を撃たせたが、砲弾の着装の手順が非常に拙いものであったという。発射された弾は三〇丁(約三二七〇メートル)ほど沖に着弾した。藤代の台場は規模がかなり小さいもので、「三百目、二百目筒二挺」が備えられていた。こちらでも二発撃たせたが、作業手順は竜飛岬の台場より手慣れていたという。一方、堀利煕とともに赴いた三厩陣屋では、陣屋の坂の下に使番、門外には物頭が、さらに、玄関脇には侍二〇人ばかりが陣羽織・野袴の軍装で出迎えた。村垣・堀は、直ちに台場の見分に移った。台場には「和流之二百・三百車台一挺宛(ずつ)」が備えられており、空砲一発ずつと実弾一発ずつを撃たせた。砲弾の着装は大変手際が良かったという。
図205.三厩御陣之図
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村垣の観察から、当時の台場の装備は和式の砲と洋式の砲の双方が混在し、台場の兵員の中には砲弾着装手順に慣れていない者も存在したことがうかがえる。