居開帳

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藩主藩主家の人々に対する開帳では、元禄七年(一六九四)、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)の遷宮があり、四代藩主津軽信政が参拝した。その後、三〇日間にわたって男女を問わず一般に公開したが、秘仏なのでその前に戸帳(とちょう)を掛けて行った。安永八年(一七七九)、創建一〇〇〇年になることから、七代藩主津軽信寧の社参をどのように行うかが、家老代・目付別当百沢寺との間で問題となった。寺側は神体は秘仏のために全部を公開できず、面体に限るとした。この面体とは舞楽面(県重宝)を指すかどうかわからないが、藩側はそれ以上のことを要求したらしく、寺側は無理な要求であり、開帳できないとし、信寧が初めて参拝した宝暦十年(一七六〇)の例に倣(なら)うことになった。先導の藩士は唐門より入ることができないので、太刀・折紙を渡して門外に退き、腰の物の役目の藩士のみ心のため階下に控えることになった(「国日記」安永八年二月五日条)。

図25.岩木山百澤寺お札

 貞享元年(一六八四)、藩主家の人々が古懸(こがけ)の不動尊(国上寺)に参詣する場合でも、開帳藩庁の指示によって行うようにさせ、元禄八年(一六九五)からは、藩主名代の参詣の時には開帳しなくてもよいことになった。同十三年、後に五代藩主になる津軽信寿が、清水寺観音(現多賀神社、市内桜庭)に参詣する時、開帳を求めたのに対し、神主斎藤大和より秘仏ではなく随時一般に公開しているので問題がないという答えがあった。寛政三年(一七九一)、九代藩主津軽寧親襲封後の野駆(のがけ)の途中、久渡寺に立ち寄った時に開帳が行われた。
 修復を目的とした開帳としては、十腰内(とこしない)観音堂(現巖鬼山神社)が、元禄八年(一六九五)、堂社の修復と籠堂建立を理由に開帳が認められた。享保十年(一七二五)四月には、天候不順のため七月末に再度願い出るように申し渡されて許可にならなかった。天保十四年(一八四三)には、領内に辻札を立てて開帳を知らせることが認められた。安政二年(一八五五)と慶応三年(一八六七)の開帳の際は、大石宮(現大石神社)でも祓(はらい)・神楽がセットで行われた。ここでは、堂社の修復は最初だけで、後には結縁と収入を求めるものになった。
 遍照寺では、元禄十四年(一七〇一)、堂が破損し、改めて建立したいとし、秘仏の慈覚大師作正観音の開帳願いを七月十二日に提出し、盆に入る翌十三日から二十三日までとしたが、あまりに直前の願い出により認められなかった。藩庁は二、三ヵ月前に改めて願い出るようにさせ、延期となった。享保十年(一七二五)にも修復のための開帳があって、安永元年(一七七二)には、観音堂修復と遊行上人の逗留中の結縁のために開帳が行われた。
 湯口(現中津軽郡相馬村)の修験大重院は、元禄十一年(一六九八)、堂社修復のため、薬師如来の開帳を地元と青森町で行った。宝永七年(一七一〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳青森鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院寺社奉行青森町奉行鰺ヶ沢町奉行の取り扱いで行われた。
 最勝院は、享保八年(一七二三)、本地堂・講堂を建立し、国家繁栄の護摩供養を行う計画を立て、完成の際には入仏法要で結縁する予定で、藩主の代参の出席を求めた。翌年三月から本地仏・五大尊・御筆の三幅対を、四月十八日まで書院で開帳したが、始まりの日はわからない(「国日記」享保九年三月五日・四月十三日・十八日条)。
 享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)に、本地仏が信枚寄進の阿弥陀、信重寄進の勢至・観音、御筆の三幅対の紅梅・福禄寿・竹月と記録されてあるものが、開帳されたものとみられる。『平山日記』には、同九年閏四月八日から五〇日間、えんぶだんごんの阿弥陀仏・霊芝の観音・とし仏・弁財天、掛物は古・新筆二二、三幅を開帳し、群集が参詣し収入が非常に多かったが、偽物であったので藩庁より不審に思われ、さんざんな目にあったという。確かに、信義寄進の一寸八歩七厘の閻浮檀金弥陀尊(えんぶだんごんみだそん)は所蔵しているものの、「国日記」には偽物として嫌疑を受けた記事はなく、開催日も違っており、どの程度事実に基づいたものか疑わしい。

図26.閻浮檀金阿弥陀如来

 白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新寺町稲荷神社)の修復のため、享保十三年(一七二八)・宝暦二年(一七五二)・嘉永六年(一八五三)に開帳が認められた。宝永四年(一七〇七)創建の稲荷宮別当であった白狐寺は、供米九石で経済的基盤が弱く、宝暦改革寺社の修復を藩庁が延期するようになると、開帳や富籤(とみくじ)を発行してその不足を補った。
 報恩寺内の観音堂(現袋宮寺)は、享保二十年(一七三五)、修復のための開帳をいったん断られたが、後にようやく認められた。宝暦十三年(一七六三)にも、修復の手段が見つからないということで、開帳が認められた。
 海蔵寺では、唐糸御前ゆかりの護国寺の本尊で、最明寺入道(北条時頼)が信仰した毘沙門天像を、安永元年(一七七二)に大般若経を転読して開帳した。これは毘沙門天像の鎮守堂修復のためであった。
 一定期間が過ぎると認められる開帳としては、観音菩薩があり、特に理由を付けなくても三三年目で認められた。
 久渡寺は、享保五年(一七二〇)八月十八日の正観音の開帳を、藩庁に願い出ていないことが問題とされた。これに対する久渡寺からの回答は次のようなものであった。①観音懺悔供養の依頼があった時は開帳してきた。これまでも、長勝寺耕春院から依頼があった。②毎月十八日は藩士町人の参詣があり開帳してきた。③毎年元旦に開帳してきた。④そのほかで参詣人が群集して押し寄せることが予想される場合は伺いを提出する。秘仏ではあるが藩庁から禁止されていないので、開帳別当に任せられたものとしてとらえてきた、と答えている。ところが、久渡寺より宝暦九年(一七五九)九月、三三年目の開帳を願い出ると、藩庁は天気不順で農作業に支障があるので、開帳せずに法要だけを認めようとした。これに対し、寺側はこれでは法会が成立しないとして、再度願い出たところ、藩庁は改めて許可を与えた。

図27.久渡寺

 清水寺観音では、宝暦十二年(一七六二)五月の開帳願いが、郡・勘定両奉行によって秋の収穫後に行うように申し渡された。ところが、九月に天候不順から途中で中止された。

図28.多賀神社(清水観音堂)

 広船村(現南津軽郡平賀町)の修験広福院は、文久元年(一八六一)に千手観音像(現広船神社)が坂上田村麻呂の創建から一〇五〇年になるため、開帳を願い出た。この時、領民に知らせるために町々と平賀六ヵ組に辻札を立てることが認められた(「国日記」万延二年二月二十一日条)。
 本山へ赴く経費を得るための開帳として、大円寺の例がある。享保十八年(一七三三)、法脈の本山高野山遍照尊院(現和歌山県伊都郡高野町)で弘法大師九〇〇年忌があること、本寺御室仁和(おむろにんな)寺(現京都市)に宮門跡(みやもんぜき)が入寺する法要があること、五重塔を葺き替えること、これらの費に充てるための開帳であった。開帳の秘仏は、弘法大師作の新山権現本地湯殿山大日如来であった。
 疱瘡(ほうそう)(天然痘)を回避するための開帳として、大円寺境内の若木宮本尊に、疱瘡除けを祈った。当時、疱瘡は強烈な伝染病で死亡率も高く、特に小児にとっては恐るべき病気であった。そのため、安永元年(一七七二)から何度も開帳が行われ、寛政三年(一七九一)には藩主名代の代参があった。嘉永三年(一八五〇)の疱瘡流行の際にも開帳があった。