図189.茂森禅林街
元寺町(もとてらまち)へ集めた寺院は「正保城絵図」(資料近世1No.七一六)によれば、天台寺一ヵ寺、浄土寺一ヵ寺、門徒寺(浄土真宗)四ヵ寺、法華寺(日蓮宗)二ヵ寺がみえるが、寺院名は記されていない。寺院の縁起から浄土寺は貞昌寺(ていしょうじ)、門徒寺は真教寺(しんきょうじ)、専徳寺(せんとくじ)、法源寺(ほうげんじ)、円明寺(えんみょうじ)、法華寺は本行寺(ほんぎょうじ)、法立寺(ほうりゅうじ)とみられる。浄土宗西光寺(さいこうじ)、天徳寺(てんとくじ)、西福寺(さいふくじ)、徳増寺(とくぞうじ)は貞昌寺の塔頭としてあったために記されず、慶安二年(一六四九)の火災で新寺町へ移った時も、貞昌寺門内に位置することになったようである。天台寺がどの寺院に当たるかはわからない。
弘前総鎮守の八幡宮(現弘前八幡宮)は、古くからあった熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、別当最勝院は堀越から賀田(同前)へ移っていたのを慶長十三年(一六〇八)再び移転させた。参道の両側には塔頭一二院を配し、亀甲(かめのこう)町からは道路をかぎの手に曲げ、八幡・熊野宮の神主二人と下社家一〇人の神職を住まわせ、禰宜町(ねぎまち)を形成させた。
革秀寺(かくしゅうじ)は父為信の菩提寺として慶長十三年(一六〇六)創立し、寺領一〇〇石を寄進した。このほか誓願寺(せいがんじ)大堂、長勝寺山門の建立や熊野宮(現熊野奥照神社)、神明宮(現弘前神明宮)、袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)、浪岡八幡宮、広船神社(現南津軽郡平賀町)の再建に当たった。百沢寺に対しては山門の建立、本尊の開眼供養を行うほか、一二坊の屋敷への年貢免除を図らせた。また、「百沢寺掟状」(資料近世1No.四七一)を出しているが、これは創建した虚空蔵(こくうぞう)菩薩を祀る求聞寺(ぐもんじ)堂(現求聞寺、中津軽郡岩木町)を女人禁制とし、境内での伐木を取り締まり、寺院を統制ではなく、保護する内容であった。
図190.求聞寺
天海僧正は、天台宗の僧で徳川家康の帰依を受け、上野の寛永寺(かんえいじ)を創立したが、信枚とは師弟関係を結び、天海の一字をとって「寛海」の法号を授与した。このことから、信枚は常福寺(じょうふくじ)(現東京都台東区)本祐と結びつき、東照宮の別当東照院(とうしょういん)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の別当神宮寺を天台宗に戻した。
また、幕府から一三年間預けられていた天台宗の僧慶好院(金勝院)の意見を取り入れ、最勝院を大寺とし五山の制を定めた。五山は真言宗最勝院、百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)、久渡寺(くどじ)(現市内坂元)をいう。
信枚は、由緒ある寺社を取り立てて保護を加える一方、城下町形成に当たって寺社を移動させ、それまで寺社が持っていた在地への権利を引き離し、近世封建社会へ編成替えした。