6、郷土と高田屋嘉兵衛

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 高田屋嘉兵衛をぬきにして蝦夷地の開拓・漁業を語ることはできない。
 この高田屋嘉兵衛という人物及び、その業績・評価については、これまで歴史学者や郷土史家、特別な経済人等を除き、一般の人々にはあまり知られていなかったが、司馬遼太郎の歴史小説「菜の花の沖」をはじめ、多くの出版された書物やテレビなどを通し広く認識されるようになった。今では高田屋嘉兵衛が、江戸時代の豪商であり、北方・蝦夷地の開拓者であり、ロシアとの国際紛争(ゴロウニン事件の解決)を未然に防いだ人物であることなど、江戸時代の傑出した人物として数々の業績を残したことは衆知の事実である。
 『新鱈儀定證文之事』を通し先にも触れたが、この高田屋嘉兵衛とわが郷土は強い結び付きを持っている。ここでは、高田屋とわが郷土、箱館箱館六ケ場所との関わりを中心に、高田屋の事業、業績について触れる事とする。
 
高田屋嘉兵衛について>
『年譜』
1769年(明和 6)・元旦・淡路国、淡路島都志本村(現兵庫県津名郡五色町都志)百姓弥吉の子、6人兄弟の長男として生まれる。幼名菊弥
1781年(天明元)<嘉兵衛13歳>・親戚の家で商業や漁業に従事する。瓦船に乗組み初めて本土大阪を見る。
1790年(寛政 2)・兵庫の親戚、船頭屋喜兵衛を頼り、下関まわりの船の船乗りとなる。
1792年(寛政 4)・若干24歳で船頭に昇進し、兵庫の西出町に所帯を持ち、店を開き、下関長崎まで手を伸ばす。
1795年(寛政 7)<27歳>・和泉屋喜兵衛の沖船頭になり、兵庫から日本海を通り、酒田湊(山形)に出る。
        ・12月、庄内で1500石積みの辰悦丸を新造、初めて海運業者となり兵庫に帰る。この時、蝦夷地回航の野望を抱く。
1796年(寛政 8)<28歳>・辰悦丸に酒・塩・木綿などを積み酒田に回航、ここで米を積み込み蝦夷地へとやってくる。箱館に回航、回船問屋白鳥勝右衛門方を宿とする。箱館で積み荷を捌き、鮭・ます・昆布などを買い込み兵庫に帰る。
1798年(寛政10)・箱館大町に高田屋支店を開き、弟の金兵衛を総支配人とする。
        ・嘉兵衛には嘉蔵・善兵衛・金兵衛・嘉四郎・嘉十郎の弟がいた。
1799年(寛政11)<31歳>*この年、幕府は東蝦夷地を直轄地とする。
      ・「海路乗試御用船頭」を命ぜられ、近藤重蔵とともにクナシリの東北端アトイヤ岬に滞在してクナシリ水道を調べる。7月エトロフ島に宜温丸で試船、エトロフ航路を開く。
1800年(寛政12)・7月「蝦夷地定御雇船頭」を命ぜられ苗字帯刀を許されエトロフ島に17カ所の漁場を開く。また、官船の製作・運用、雇船の支配、道中往来の人馬送証文、官用提灯など下附される。
1801年(享和元)・<33歳>姓を高田、屋号を高田屋とする。箱館恵比須町・宝来町の湿地5万坪の埋立ほか、箱館山や亀田の山に杉・松の植林をする。
      ・幌泉(エリモ)場所にて鰊(にしん)漁をする。
1802年(享和 2)・淡路島や兵庫から、はまぐりや鯉などを移して箱館・近在で養殖事業をする。
1804年(文化元)<36歳>・幕府、箱館地蔵町の浅瀬を埋立て2,172坪の築島を造る。嘉兵衛請願し隣接地825坪を埋立て、船作事場(造船所)を造る。
1806年(文化 3)・箱館大火、御番所、寺院、土蔵など、ことごとく焼失する。
      ・高田屋、米や古着を配り長屋を建てて人々の救済に当たる。材木を津軽、秋田から仕入れて元値で貸与する。
1807年(文化 4)・箱館の水不足を補うため、嘉兵衛、私費を投じ大阪から井戸掘職人を招き市中に10数箇所の掘り抜き井戸を設ける。
      ・根室場所を経営する。
1808年(文化 5)・恵比須町に備米蔵を建設する。
1809年(文化 6)<41歳>・1月、幌泉へ航海中の船が水無海岸で運行不能になったため、海上安全を祈願し恵山火口原に11面観音像を建立する。
      ・高田屋金兵衛、嘉兵衛の代理で、大野村、森村の道路及び松前街道を改修する。
1810年(文化 7)・エトロフ場所請負人になる。
1811年(文化 8)・6月4日「ゴロウニン事件」発生する。クナシリ島のトマリでロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニン少佐らを幕府の役人が捕らえ箱館−松前に送る。
1812年(文化 9)<44歳>・8月14日高田屋嘉兵衛観世丸でエトロフ島からの帰途、クナシリ島沖でディアナ号に捕らえられ、水主の吉三郎・平蔵・文治・吉蔵・アイヌ1人と共にカムチャツカのペトロパヴロスクに連行される。同年12月8日、囚われた嘉兵衛、ディアナ号の副長リコルドに事件の発端・真相を話し、ゴロウニンの釈放について語り合う。
1813年(文化10)・5月26日、嘉兵衛らクナシリ島に送還され箱館に赴き、事件の解決に尽力する。同年9月29日、ゴロウニン艦長ディアナ号に乗船し帰国の途に着き、事件円満に解決する。この功績により嘉兵衛、幕府より賞賜を受ける。
1818年(文政元)<49歳>・高田屋嘉兵衛健康勝れず郷里へ帰る。
1821年(文政 4)*この年、幕府は北辺の危機が一応去ったと判断し、蝦夷島直轄を解除、東西蝦夷地は再び松前藩復領となる。
1822年(文政 5)・嘉兵衛、弟、金兵衛を養子(2代目)にして跡目を相続させる。高田屋金兵衛、松前藩御用達を命ぜられ、苗字帯刀を許される。
1824年(文政 7)<56歳>・嘉兵衛、郷里、都志本村に隠居する。
      ・高田屋は箱館を本店とし、兵庫・大阪・江戸を各支店とする。
1826年(文政 9)<58歳>・故郷淡路の港などの改築に尽力、藩主松平阿波守より小高取格を仰せ付けられ、苗字帯刀を許される。
1827年(文政10)・4月5日、都志本邸にて、高田屋嘉兵衛、数々の業績を残し生涯をとじる。享年59歳。

〓高田屋 屋敷跡 函館護国神社坂下


高田屋嘉兵衛像 函館護国神社坂下


恵山火口原(通称賽の河原)の十一面観音像 文化6年(1806)高田屋舩中が海上安全を祈願し建立


「借金証文」文政9年(1826)日浦村、村中が高田屋より3両借りたもの


〓高田屋の支配人、又兵衛の甥〓淡路屋(三好)又右衛門の墓

 
高田屋嘉兵衛』(1769~1827年)
 江戸後期における蝦夷地の海運業者、物産商、漁業家、豪商と呼ばれた。箱館を根拠地として事業を展開、択捉(えとろふ)航路を開き、択捉(えとろふ)島、国後(くなしり)島、根室、幌泉に漁場を開拓して経営し漁業・海運を繁栄させた。歴史作家、司馬遼太郎をして「江戸後期の人物で最も優れた人」といわせている。
 明和6年(1769)正月朔日、淡路国津名(つな)郡都志(つし)本村(現在の兵庫県津名郡五色町都志)に、弥吉の長男として生まれる。幼名は菊弥(きくや)。家が貧しく、12、13歳の頃から津志浦の親戚に寄食して商業や漁業を見習っていたが、寛政2年(1790)、22歳のとき、兵庫の親戚、船頭屋喜兵衛を頼って、樽廻船(たるかいせん)の水主(かこ)となる。才能に恵まれ、勇気に富んだ嘉兵衛は、たちまちその技に熟達して、水先を指揮する表主(おもて)に出世し、同4年には船頭になり「諸国物貨運漕高田屋嘉兵衛」として独立兵庫の西出町に所帯をもつ。一時、紀伊の熊野浦でカツオ漁業に従事して相当の資金を蓄えたという。同7年、和泉屋伊兵衛の北前船の沖船頭となって、兵庫から下関を経て出羽の酒田に廻船し、同国、庄内で和船技術では最大といわれた千5百石積の辰悦(しんえつ)丸を新造して兵庫に帰る。
 船持船頭になった嘉兵衛は、弟の嘉蔵、善兵衛、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎と力を合わせて廻漕業を営むことになったが、彼の目的は蝦夷地に船を回し、同地の物産を本州に運んで売り捌くことにあった。そして、寛政8年(1796)、辰悦(しんえつ)丸の直乗(じきのり)船頭となって、酒・塩・木綿類を積み酒田へ廻航し、さらに米を積んで箱館におもむき、廻船宿白鳥勝右衛門方に止宿して積荷を売り捌き、ここで、サケ、マス、昆布などを買込んで兵庫に帰る。翌年も続いて渡航し、同10年には、箱館大町に支店を開いて弟金兵衛に管理させる。
 寛政11年(1799)、幕府が東蝦夷地を直轄した際、幕府勘定役高橋三平重賢に見出され、官命で必需品を酒田から箱館へ廻送すること2回、また、厚岸根室国後(くなしり)の3か所における旧請負人の産物を買取る。このとき択捉(えとろふ)開島の使命をもって厚岸に滞在していた近藤重蔵に協力を求められるとこれに力を貸し、択捉島への航路開拓に尽力する。同12年(1800)、重蔵とともに択捉島に渡り、漁場17か所を開く。嘉兵衛は箱館へ帰ると官船5艘の建造とその運用方を命ぜられ、大阪でその建造に当たってこれを完成させ、翌享和元年(1801)4月には、手船3艘を加えた8艘の船隊を自ら指揮して箱館へ廻漕する。また、翌月、手船広栄丸に幕府の探検隊を乗せてウルップ島に航行し、その功労を認められて「蝦夷地定雇船頭を仰せ付けられ、3人扶持、手当金27両苗字帯刀御免」の示達を受けたうえ「今後共御用船の製造、乗廻し、雇船の支配」など、すべてを一手まかされる旨の令達を受けるにいたった。また、箱館恵比須町に5万坪の土地を開き、14の倉庫を建て、幕府が船修理のため箱館地蔵町沖に築島を造成したとき、嘉兵衛は請願し隣接の浅瀬を埋立て825坪の船作事場所(造船所)を設け、船大工と碇鍛治を築島に住まわせる。後に、武田斐三郎のもとで、日本人として初めて洋式帆船を造った「続豊治」は、ここの船作事場所で働く高田屋の船大工であった。
 このころから新鱈の積出しなどにより江戸航路も栄える。その他、故郷淡路から、ハマグリや鯉などを移入し養殖・養魚場を造り、備米倉を建て、防火井戸10数か所を堀り、松前街道の一部を修築するなど、嘉兵衛の箱館開発の功績は大きく、短い間に箱館は福山(松前)をしのぐ蝦夷地第1の商港になっていく。さらには、日本の商業の中心であり全国の物産の集散地、大阪奉行から「蝦夷地産物売捌(うりさばき)方」を命ぜられ、豪商としての地位は不動のものとなった。
 嘉兵衛は文化9年8月14日(1812年9月12日、ロシア暦同月7日)、択捉島から観世丸箱館に帰る途中、国後島沖でロシア軍艦ディアナ号に捕えられ、水夫4人と共にカムチャツカのペトロパウロスクに拉致された。これは、その前年(文化8年の春)同艦、艦長ゴロウニンら8人が、クリール諸島(千島列島)の測量を終え物資補給のため立ち寄った国後島で、(幕府の命を受けた)南部藩の守備隊に逮捕されて松前藩に幽囚されたため、その救出の手段として捕えられたものであった。世にいう「ゴロウニン事件」である。そもそもこの事件の発端は文化3・4年(1806・7)、樺太(サハリン)や千島の漁場・会所をロシア人のフヴォストフ大尉(ロシア国務顧問官レザノフの部下、交易を断った日本に対するレザノフの私意的憤懣から部下に襲撃命令を下した)らが襲撃したことにある。彼等の襲撃は国の行為と関わりない、単なる日本の領土・会所・漁民に対しての示威的なものであったが、幕府は当時の国際情勢(ロシアの南下を恐れる)から、この事件に狼狽し憤慨し、たまたま厳重な警戒をとっていた矢先、軍艦ディアナ号の出現であり、また、ゴロウニンが相当の高官(ロシア提督・少佐)と見て、報復行動に出たわけである。
 ロシア軍艦による拉致、異国への連行という異常事態の中でも、動揺する事のない嘉兵衛の沈着した態度に感服した同艦の副長リコルドは、事件の発端・真相を理解しないままに(ゴロウニンもまた事件の認識がなかった)嘉兵衛にゴロウニン釈放の斡旋を求めた。
 カムチャツカ滞在し数か月、少しはロシア語も分るようになった嘉兵衛はリコルドに、「日本がゴロウニンを捕えて釈放しないのは、フヴォストフの襲撃・侵略に対する報復である。もし、今、その放還を願うのであれば、ロシア政府から公式にフヴォストフの事件は本国政府の全く知らない事であることを明らかにし、なおかつ、取締不行届の罪を深く詫びて、その誤解を解くべきである」と、説いたのである。リコルドは嘉兵衛の説に快く同意し、また、準備を整え(国の公文書などの)文化10年5月9日(1813年6月7日、ロシア暦5月26日)嘉兵衛を伴いディアナ号国後島に到着予備交渉を成立させ、9月11日(ロシア暦)絵鞆(室蘭)に到着、ここより日本側の先導に従い箱館へ入港。交渉には松前奉行服部貞勝が直接対応、ロシア側が遺憾の意を表し謝罪した事を評価し、幕府もゴロウニンら(ムール少尉・フレブニコフ運転士、水兵4名、アレキセイ通詞)全員の釈放を承認する。そして、文化8~10年(1810~1813)に亘ったゴロウニン事件も、高田屋嘉兵衛らの努力が実り、大きな国際紛糾に至らず無事解決し、その年の9月、ゴロウニンらは釈放されロシア軍艦ディアナ号で無事帰国の途についた。
 ゴロウニンは帰国後、この事件を「日本幽囚記」として1816年に出版する。そして、その中で高田屋嘉兵衛を高く評価している。これは諸国語に翻訳されヨーロッパ中に知れわたった。わが国でも、文政8年(1825)、馬場貞由、杉田立卿、青池林宗により「遭厄日本紀事」の書名で蘭訳本(オランダ語の本)から抄訳されている。なお、ゴロウニンは、松前幽囚中に馬場貞由、村上貞助、足立左内、上原熊次郎らにロシア語を教授し、また、翻訳を助けてわが国におけるロシア語研究に貢献するなど、身分の高い軍人であると同時に学者、文人としても優れた人物であった。
 ゴロウニン事件解決を通し、高田屋嘉兵衛の名声は国内のみならず海外にまで広まったが、事件の心労か、長い間の無理が祟ったのか、その後、嘉兵衛の健康は勝れず文政元年(1818)、故郷、淡路都志本村に帰郷し隠居する。同5年(1822)、高田屋は親族の「定」が協議され、金兵衛を養子(2代目)として稼業を主宰させ、兵庫から箱館大町に本店を移し、兵庫西出町・大阪助右衛門橋西笹町・江戸八丁堀を各支店として弟らが運営する。隠居後の嘉兵衛は私財を投じ、港の改築など故郷の公共事業に尽くし、その功績により文政9年(1826)、藩主松平阿波守から、小高取格(武士の身分)を仰せ付けられたが、翌10年(1827)4月5日、病気のため59歳の生涯を終える。
 墓は郷里の多聞寺と函館市の浄土宗、称名寺にある。
 
高田屋金兵衛』(1775~1846年)
 高田屋嘉兵衛の4弟、淡路の都志で生まれる。文政5年(1822)、高田屋2代目を継ぐ。寛政8年(1796)、嘉兵衛と辰悦丸箱館にきて以来、嘉兵衛を助け、箱館店の支配人となり商才と経営手腕を発揮する。択捉(エトロフ)など場所の請負、船作事場・造船にも関わり箱館の盛衰に大きな影響を与えた。
 享和元年(1801)、箱館恵比須町・宝来町にまたがる湿地5万坪(16万5千平方メートル)を埋め立て開発、箱館山と亀田の植林、松前街道の改修、大野文月などの開発をすすめる。文化3年(1806)の箱館大火には、持ち船などを動員して物資の輸送をし罹災者の救済に当たる。翌年、箱館の水不足を補うために大阪から職人を入れて掘り抜き井戸を市中に設けたり、非常用の蝦夷地方備米蔵7戸を建てるなどの、公共性の強い事業を行っている。嘉兵衛淡路に隠居の後を受け、文政5年(1822)、高田屋2代目を継ぐ。この年、幕府の蝦夷地直轄が廃止され東西蝦夷地が松前藩の復領になると、松前藩御用達を命ぜられ苗字帯刀を許され嘉兵衛と同様の扱いを受ける。
 文政7年(1824)には、箱館を本店、兵庫・大阪・江戸を支店として事業の充実と発展を目指すが、天保2年(1831)、密約と密貿易の嫌疑をかけられ、江戸評定所で取り調べの結果、天保4年(1833)2月、密貿易の嫌疑ははれたがロシア船との密約「旗合わせ」があったとして、幕府に財産を没収され高田屋金兵衛江戸十里四方追放、身柄は松平阿波守預かりとなり、結局、高田屋は取り潰しとなる。以降、箱館の市中は衰退する。
 
密約「旗合わせ」について
 密貿易、あるいは密約の嫌疑については、ロシア側と高田屋との間に、次のような経緯があったことが要因となっている。先に述べたが、ゴロウニン事件(ゴロウニンの放還)での嘉兵衛の尽力に感謝したロシア側は、高田屋の船に次のような特権を与えた。「今後、高田屋の船から一切の略奪はしない。洋上で遭遇した場合、高田屋は山高印の旗を揚げればロシア船は赤旗を揚げ、それに応える」という内々の取決めである。嘉兵衛は高田屋の手船(持船)雇船の船頭らにその事を言い渡し小旗を用意させておいた。嘉兵衛歿後、天保2年(1831)5月、高田屋雇船(大阪大津屋持船といわれているが)栄徳新造(船名)が日高の様似沖合で2隻のロシア船に遭遇、取決め通り「旗合わせ」をして通過したが、この事実が問題となり、密約と密貿易の嫌疑で金兵衛をはじめ船頭らは江戸送りとなった。
 天保4年(1833)2月、幕府評定所で吟味の結果「密貿易の嫌疑は解けたが、旗合わせ(密約)については有罪」の判決が出て、(これは「鎖国法の拡大解釈」で外国船と遭遇したが旗を揚げ無事通過したことを帰港後報告しなかった罪と推測される)金兵衛と船頭の重蔵・寿蔵は投獄となる。この評定中は、高田屋には、すべての持船は港に繋留、物資の入っている倉庫は封印、日用品の出入れにも町役人が立会う、居宅には番人が立ち主(おも)だった使用人は禁足というように、厳しい監視がしかれた。
 そして、高田屋の全財産は没収、2代目金兵衛は江戸10里四方追放、兵庫・大阪の支店所在地立入り禁止、松平阿波守身柄預り領分の外は出入り禁止を申渡されるという極めて厳しい処分が下された。
 
没収された財産
 高田屋が闕所(けっしょ)(不動産を除く全動産没収の処分)になった時の記録が残っている。1つは高田屋嘉兵衛の生地阿波藩(徳島県)に残る『阿淡年表録』であり、今1つは幕府の命により蝦夷地を精査した『松浦武四郎蝦夷日誌』にである。
 
『阿淡年表録』・天保五年甲午(1834)二月の絛より
 攝州兵庫高田屋御取消に相成候家財其外品々覺
一、唐船積出米高拾九萬八千石    船積米    一九八、〇〇〇石
一、有米高参百九拾六萬石      有米   三、九六〇、〇〇〇石
一、有金高壱千百貳拾壱萬八千両   有金  一一、二一八、〇〇〇両
一、船数五百石以上四百五拾艘    船(五〇〇石積以上  四五〇艘
一、召使人船手の外九百八拾貳人   召使人船手      九八二人
一、居宅表口四百五拾間裏行三百九拾間   居宅  一七五、五〇〇坪
一、店数三ケ所 江戸、大阪、蝦夷箱館) 店舗        三店
 
松浦武四郎著 蝦夷日誌』より・天保四年巳(1833)一〇月
 攝州國兵庫高田屋金兵衛闕所の次第
一、米   拾九万八千石       船積米   一九八、〇〇〇石
      此米唐船に積 異国へ送り有之候
一、有金  千八百二拾七万八千五両  有金 一八、二七八、〇〇五両
一、土蔵  三百七ケ所        土蔵       三〇七ケ所
      此内唐物蔵百二三ケ所
一、大船  千石以上四百五拾艘 船(一、〇〇〇石積以上) 四五〇艘
      船頭九百八〇人      船頭        九八〇人
一、家作  間口九七間奥行弐百七拾弐間 家作    二六、三八四坪
一、有米  三九億と拾壱万石  有米 三、九〇〇、一一〇、〇〇〇石
      此米四斗俵に直して
      百弐億五千弐拾七万五千俵
      此米壱両八斗買の相場に積り
      此代四八億七千五百拾参万七千五両と成
一、田畑海山共  九万石
      外に嶋三ケ所
       一、家内惣人数  千六百四六人
 
 高田屋の闕所、いわゆる没収された財産についての2つの資料は、種目に違いがあり、同種目でも数値に相当開きのあるものがある。高田屋の7代目、北方歴史研究協会の理事長の高田嘉七氏は、高田屋の財産は全国各地に散在しており『蝦夷日誌』は、集計上の重複(ダブリ)があったのではないかと推察され、また、有米39億については、当時の米の生産高から考え明らかに単位違いだと指摘している。高田氏は、総じて『阿淡年表録』の方が信頼できるとの見解を持っている。以下、2つの資料について検討して見る。
 この2資料を比較して共通しているものは、つぎの船舶に関わる種目である。
 全く同じもの「船積米198,000石」・規格は異なるが数値は同じもの「大船450艘(500石積・1,000石積以上)」・数値がほぼ同じもの「召使人船手982人、船頭980人」、また、有米については「396万石と39億と11万石」で、高田氏の推察どおり単位違いであればこの数値もほぼ近いものとなる。有金については、11,218,000両と18,278,005両で700万両の差があるが、これは膨大な貸金(証文)があったので、多い方はその証文を加えた金額と考えられないか。数値の極端に異なるものとして、阿淡年表録の居宅450間×390間175,500坪に対して、蝦夷日誌の家作97間×272間26,384坪で、前者の場合、居宅にしては広すぎると思われる。これは、蝦夷日誌の土蔵307ケ所を合わせた延べの数値ではないか。また、阿淡年表録にはない蝦夷日誌の、家内惣人数1646人は、評定中禁足となった使用人の数ではないか。同じく蝦夷日誌の田畑海山共9万石・外に嶋3ケ所については、闕所(けっしょ)が、不動産を除く全動産没収の処分ということであれば腑に落ちない。9万石というのは高田屋所有の田畑海山から上がる利益を石高に換算しているのか。嶋3ケ所については不動産であり説明が付かない。ただ、蝦夷日誌には店数3ケ所の記載がない。
 いずれにしてもこれら没収された高田屋の全財産は膨大なものであった事はいうまでもない。例えば現金だけでも1千万両を超える(2つの資料では700万両の差があり、少ない方を取っても)。当時日本一の金持といわれた加賀の豪商銭屋五兵衛でさえも全財産数百万両といわれていたのであるから、高田屋の財産は桁がちがう。さらに、没収した船、土蔵など動産はすべて商人たちに払下げられたが、その金額も相当な額になったであろう。一説によれば、没収財産を現在の貨幣価値に試算して7、8兆あるいは10兆を超えるともいわれている。勿論、それらはすべて幕府の歳入になったわけであるから、高田屋の取り潰しは幕府の財政危機を救ったとも言える。蜜貿易の嫌疑の裏にはそのような思惑(おもわく)があったのではないかとの勘繰りもしたくなる。ただ、当時の蜜貿易に対しての刑罰は相当重く、外国人と私的な物々交換−記念品のようなものであっても、武士なら切腹、一般人は打ち首という極刑に処せられたとの記録も残っているくらいである。
 なお、高田屋7代目、社団法人北方歴史研究協会の理事長高田嘉七氏は、一代で稀有の財をなした嘉兵衛の経済活動を近代経営に照らし考察するという、レポート『高田屋嘉兵衛と近代経営』を書かれており、また、その中で「旗合わせの罪」について冤罪説を取っている。いずれも注目に値するので、資料編にその全文を載せることとする。
 
<郷土と高田屋嘉兵衛
『十一面観音像の建立』
 恵山火山の通称「賽(さい)の河原」とよばれている火口原の中ほどに、花崗岩の「十一面観音像」が建っている。像の台座正面には「海上安全」、左手側面には「文化六巳年正月 高田屋舩中」刻まれており、また、隣接し後年建てられた、石に刻まれた解説文がある。文面は次の通りである。
 
海上安全の碑 高田屋嘉兵衛 択捉及ビ幌泉ヘノ途次 恵山水無ニ於テ避難難破シ、函館ニ帰リ文化六年一月碑ヲ此ノ地ニ建立シテ海上ノ安全ヲ祈願セリ、
 昭和十一年三月二十一日大暴風雨ノ為、仏体顛倒シテ二ツニ折損セルヲ以テ茲ニ仏体及ビ其基礎ヲ修覆ス。
  昭和十二年七月
                      尻岸内村恵山保勝協会
                      椴法華村恵山保勝協会
 
 恵山(恵山溶岩ドーム・618メートル)山頂近くには、この地に和人が定住する以前、相当古く(1600年代)から祠があり(現在は恵山大権現と呼び、金毘羅権現・秋葉権現・将軍地蔵尊が合祀されている)寛文6年(1666)鉈彫りの仏像が奉納されたという言い伝えがある。この恵山は、太田山(大成町太田神社)有珠山(伊達町有珠善光寺)とともに蝦夷地の霊山として、特に船乗りたちに崇められていた山である。と同時に、飛騨屋の絵図面などにも記されているように、船乗りたちが噴火湾に入るための重要な目印であった。また、恵山岬(津軽海峡東口)は暖流と寒流がぶつかり合い、潮の流れが複雑で、6~7月にかけ海霧(ガス)が発生しやすく、加えて沿岸一帯は恵山噴火による岩礁も多く、古くから津軽海峡を航行する船乗りたちに恐れられていた海の難所でもある。現代も含め遭難の記録は枚挙に暇がない。解説文は昭和12年(1937)に書かれたものであるが、建立の日付「文化六巳年正月」がはっきりしており「高田屋舩中」が建てたことについても、文書、あるいは信頼性の高い言い伝えがあったものと推察される。ただ、観音像建立の理由が文面通り、水無海岸で船が損傷(難破とあるが大きな遭難の記録は見当たらない)し箱館に引き返したからということだけではなく、許されるなら、もう一歩想像を働かせてみたい。
 高田屋は1796年(寛政8)箱館に入港後、直ちに、郷土・六ケ場所一帯からの長崎俵物(乾なまこ・鱶鰭(ふかひれ)・乾あわび)や昆布新鱈の買付けなどを行い、さらに、東蝦夷地、幌泉・根室択捉島へと事業を展開していったわけであるが、噴火湾に入るにしろ、東蝦夷地へ行くにしろ、また、箱館から東廻航路つまり江戸へ向かうにも、恵山岬は航路上の重要なポイントであった。岬はどこでも概ね潮流が複雑に流れ、風も変わりやすいところであるが、先にも述べたとおり恵山岬・津軽海峡東口は、対馬海流から分かれ海峡を流れる暖流と勢力の強い千島海流(寒流)がぶつかり合う海域であり、潮の流れは速く複雑な様相を呈する。加えて季節風も極めて強い海域でもある。当時の航海はこの海流に乗ること(あるいは避けるこ)と、そして、風の読みが決め手であった。恵山沖から暖流に乗り一気に様似、幌泉まで行くことも、寒流と季節風をとらえ3昼夜で江戸湾に入ることも可能(高田屋嘉兵衛申上書の中に「箱館より銚子迄二百里程、銚子より江戸まで三十六里と言ふ、鱈場所より極順風にて昼夜走り候時は三日三夜にてハ江戸にも乗込候よし也」とある)であったが、まかり間違えば海の藻屑と消えるか、カムチャツカやアリューシャンくんだりまで流されてしまった記録も少なくない。
 高田屋船中の者たちは我が郷土に買い付けに来る度に、恵山に登り眼下に広がる海峡の潮の流れや風の強さや向きをつぶさに観察し記録し、航路を見極めたものと推察される。後述するが、高田屋の支配人を務めたといわれる三好又兵衛の甥又右衛門が、後年、恵山に移り住み硫黄採掘を行うが、これは、恵山についての予備知識があったからと思われる。多くの船乗りたちがそうであったように、高田屋嘉兵衛も熱心な仏教徒であったと伝えられている。若かったころ淡路の寺の蔵書で船乗りとしての基礎知識を学んだとも伝えられている。恵山火口原の『十一面観音像』は、高田屋嘉兵衛の海上安全への祈願と、また、同時に蝦夷地での事業の重要航路を開いた恵山の地に、モニュメントの意味を込め建てられたのではないかと思いたい。
 なお、恵山の麓にある浄土宗「興徳山布教院、豊国寺」の寺号の公称は、1881年(明治14)4月であるが、その創建は郷土で最も古く、1811年(文化8)9月、道円和尚によると伝えられており初めは「根田内の地蔵庵」と呼ばれていたという。つまり創建は十一面観音像建立の僅か2年後である。次に述べるが、根田内と高田屋との関わりは新鱈の売買等を通しても深く、この「根田内の地蔵庵」も高田屋嘉兵衛の寄進により建てられたのではないかと思われる。因みに、嘉兵衛の墓は郷里の多聞寺と函館市の称名寺にあり、いずれも豊国寺と同じ「浄土宗」である。
 
新鱈儀定證文之事』
 これは、先にも記したが、1817年 文化14丑年12月に、郷土の本村尻岸内、支村の根田内(字恵山・御崎)日浦が、高田屋金兵衛と取交わした新鱈売買の契約書である。以下全文を記載する。
 
新鱈儀定證文之事』
一、当村新鱈艤積去亥年より丑年迄儀定仕候処 年々積入出来ニ付来寅年より丑年迄五ケ年貴殿江取組儀定仕候処 実正ニ御座候 尤村方助金並鱈直段前借等之儀者年々之漁次第ニ依而取究メ可申定ニ御座候  右年限相済脇方江取組候共 其節者貴殿江相請テ及可申候
依而儀定證文如件
  文化十四丑年十二月                (現在の姓)
            尻岸内村百姓代   又三郎 印 (野呂)
                小 頭  治右ヱ門 印 (山内)
                頭 取   清九郎 印 (村岡)
            根田内村百姓代   六兵衛 印 (泉)
                小 頭   文治郎 印 (成田)
            日 浦 小 頭  團右ヱ門 印 (土谷)
                百姓中
            證 人 亀 屋   武兵衛 印
             同  和賀屋  宇右ヱ門 印
  高田屋金兵衛 殿
 
 なお、この儀定證文中には同じ支村の古武井が入っていない。当時の資料では古武井は根田内に次いで鱈漁が盛んであったことから、あるいは単独で儀定、売買契約をしていたのではないかと推察される。この儀定証文によれば、新鱈を、過去1815年(文化12)より1817年(文化14)まで3ケ年売買契約してきたが、さらに(継続し)1818年(文政元)より1822年(文政5)まで代金・資金を前借し5ケ年、高田屋に納める契約をしている。都合8年間、村内で漁獲した鱈を全部(古武井も単独に契約していれば)新鱈に製造して高田屋に納めると言うことであり、しかも代金は前払いである。これはおそらくこの儀定以前からの、鱈は勿論、昆布などの実績があったからと思われる。
 新鱈の製法については、根田内の住人三好又右衛門(後述)の伯父で、高田屋の支配人を勤めていた三好又兵衛が教えたと伝えられている。当時の根田内は支村ではあったが、総戸数の半ばを数え本村を凌ぐ部落であり、鱈の産地としても相当の漁獲を上げていた。高田屋はこの地で、『新鱈儀定證文』に見るとおり新鱈の買付けをするために、瀬戸内、赤穂から大量の塩を持ってきて製法も指導したと推察される。また、三好又右衛門もこのような関わりから、根田内に移住するようになったのではないか。
 
『三好又右衛門と高田屋』
 恵山町ふるさと民話第1集に『力持ち又右衛門』という民話が載っている。これは、夢枕に立った恵山大権現のお告げで温泉に漬かり、不思議な力を与えられた又右衛門が、硫黄を人の数倍も担いだり、船を1人で岸まで曳き上げるなど、村のために働く傑出した人物像として描かれている。
 三好又右衛門の公式な記録は、1913年(大正2年)、又右衛門76歳(天保9年頃の生れなので2代目あるいは3代目か)の時の口述をもとに「1918年(大正7年)編集、函館支庁管内町村史、第17章尻岸内村、第3節沿革・古老の説話」に記載されているものである。以下、関係事項を抜粋する。
 
 「三好又右衛門の伯父三好又兵衛は高田屋嘉兵衛の支配人たりしが、嘉兵衛の貿易せし廉(潔白)を以て(密貿易の疑いをはらすため)、又兵衛も共に召喚せられたり、その時、又兵衛は弟(又右衛門の父)に別れるに臨み「掛軸一幅・算盤一挺・財布一ツ」を与えて大切にすべきを命ぜり。此の三品は今尚秘蔵(現在は所在不明)せるが、一見数百年の古物にして「近藤重蔵」(前述、高田屋嘉兵衛に協力を求め1799年(寛政11)エトロフ航路を開く幕臣・蝦夷地巡見使)の遺(い)物なりと謂い伝う。」これらの記録・口述、あるいは言い伝えなどから、三好又兵衛・又右衛門と高田屋との関わりは極めて深いと推察される。また、記録によれば、又右衛門は2代にわたり恵山火山の硫黄採掘(1840年・1854~1855年・1871~1874年)をしているが、使用した人夫・産出高等から推量し相当の財力を持っていたと思われる。この採掘年代から右衛門の根田内への移住は高田屋取り潰し(1833年)以降と推察される。
 尚、恵山共同墓地に三好又右衛門の所縁の墓石がある。(現在の位置で)正面には3仏の戒名「體譽義高信士 高月院譽妙正貞壽大姉位 本譽知源信士」(戒名から宗派は高田屋と同じ浄土宗)である。その台座には「山ア」と屋号が、裏面には「根田内村 淡路屋又右衛門」と刻まれている。右側面には3仏の埋葬月日「體」文久二年戌三月廿九日(1862)「高」明治三十二年八月廿八日(1899)「本」元治元年子7月1八日(1八64)」と記されている。この墓石には高田屋との関わりを示すいくつかの符合がある。まず、淡路屋である。高田屋の生地が淡路であり、それを意識して淡路屋を名乗ったと推理できまいか。また、台座の「山ア」は、高田屋の屋号「山高」と瓜2つである。「山」は同じ、アの字のくずしかた「 」は「高」のくずしかた「 」を明らかに真似ている。
 また、明治以降名乗った姓、三好であるが、これは、又右衛門(又兵衛)の出身地に因んだと思われる。阿波国(徳島県)吉野川上流に三好郷という郡が存在していた。現在はそれらの村々が合併して三好町となっている。吉野川流域の山岳地帯は良質の楠(くすのき)や檜(ひのき)を産し、土地の人々はそれを切りだし筏に組んで下流へと運んだ。その筏師たちが水主として高田屋に雇われる。三好又兵衛・又右衛門もそれらの1人だったと考えられないか。高田屋嘉兵衛は「船乗は一蓮托生(いちれんたくしょう)なのだから気心の知れたものでなければならない」と親戚縁者・故郷の人々を雇ったという。淡路も阿波も阿波国(藩主は蜂須賀家)である。先に記した闕所(けっしょ)にもあるように、高田屋には数千人の使用人がいた。三好又兵衛が支配人という要職につき、金兵衛に同行し幕府評定所にまで出頭したという口述が事実とすれば、高田屋とは相当深い関わりのあった人のように思われる。
 これらについてはいずれも推察・想像の域ではあるが。
 
『日浦と高田屋』
 ここに1通の借用証文がある。振り出し人は日浦村(村中)藤吉、佐治兵衛、清十郎、宇之助の連名で、宛先は「山高」御印様、文政9年戌10月(1826年10月)の日付であり、金額は金子3両也(両替1両当たり6貫8百文)となっている。これは日浦の人達(世帯主全員)が高田屋から3両借りたいわゆる借金の証文である。
 以下全文(解読文 道立文書館 佐藤京子首席文書専門官)を記載する。
 
    借用申證文之事
 一、  金子三両也     両替六貫百文
 右之金子借用仕候處 実正ニ御座候 右者 當年村方ニ而
 弁天様注文仕候所 御下り并ニ 稲荷様拝殿相建候付
 金子入用ニ御座候得共 御存知之通 不漁之上 昆布も不宜候故
 村方ニ而 割合等も致兼 當惑仕候 問無 據 奉願上候所
 早速御承知 被成下一統難有 奉存候
 随而御返済之儀は 来ル 亥より丑春迄 三ケ年ニ金一両宛
 無相違急度 御返済 可仕候 後日為念 借用證文仍如
                日浦村
   文政九年(1826)      村中
     戌十月          同  藤 吉   (三浦)
                  同  佐治兵衛  (松本)
                  同  清十郎   (米澤)
                 小頭  宇之助   (吉田)
  山高 御印様
 (1978 第4回日本海文化展 北前船と高田屋出品資料より 函館市 石田延造氏保管)
 
 意訳すると一、金子3両也 右の金子借用確かに受けとりました。
 これは、今年、村に弁天様が御下り稲荷様と合わせて拝殿を建設することにしておりましたが、御承知の通り今年は不漁の上、昆布の出来も悪いために戸別の割当てもできず、困っておりました。思い余り(高田屋へ)お願いしたところ早速御承知頂き、村人一同有難く感謝申し上げます。御返済につきましては来年より1両宛て3か年で間違いなく返済致します。後日念のためこの借用証文を書きます。
 借用した3両は、弁天様・稲荷様の拝殿(神社)を建てる費用となっている。この御神体、拝殿にいては、『壬申八月巡回御用神社取調』に次のように記録されている。
 
尻岸内枝郷日浦 ・稲荷社 木像(男躰白狐ニ乗) 合祠 厳島(いつくしま)神(和幣)
・祠(ほこら)4尺(1.2メートル)・拝殿2間半四方・6.5坪(4.5メートル×4.5メートル)・神門(鳥居)3基・社地 間口4間(7.2メートル)奥行5間(9メートル)・起元不詳 慶応元年丑年(1865)再建の棟札あり
 
 なお、この『壬申八月巡回御用神社取調』は1872年(明治5)8月、札幌神社権宮司兼開拓使11等出仕菊池重賢の神社実体調査の巡回日誌である。明治政府は1868年(明治元)3月「祭政一致之御制度」(神道を国教とする)の回復を明示し神祇官を定め「神仏判然令」布告し神仏混淆(しんぶつこんこう)(神と仏を一緒に信仰している)の整理を命じ全国的な調査に入った。北海道は箱館戦争の余波を受けそれより遅れること5年、上記壬申1872年(明治5)7月から開始されている。これは、政教一致をめざす(いわゆる神社制度確立の)国の方針による調査であり正確を期して行われたものである。調査内容については必要事項のみ抜粋し、詳細については宗教編に記述することとし借用証文に戻る。
 証文には弁天様・稲荷様とあり、神社取調では稲荷社、御神体は木像(男躰白狐ニ乗)厳島(いつくしま)神(和幣)が合祀(合わせて祭る)されている。この厳島(いつくしま)神、厳島神社は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が主神で安芸の宮島(厳島)に所在するが、函館の弁天町にある厳島神社もそうであるよう、通称弁天様とも呼んでいる。これは、古来、安芸の宮島・大和の天の川・近江の竹生島・相模の江ノ島・陸前の金華山を五弁天(弁財天(べざいてん))と呼んでいたことに由来する。
 日浦の稲荷神社はこの証文の通り、弁天様・稲荷様が祭られていたわけである。また、祠、拝殿については神社取調では、起元不詳慶応元年丑年(1865)再建の棟札(むなふだ)とあるが1854年(嘉永7年3月)『箱館六ケ場所調べ・田中正衛門文書』(市立函館図書館蔵)の日浦の項に「弁天小社一ケ所、亀田村神主 藤山大膳持」とあり、少なくともこれ以前に存在している。
 証文の年代、1826年(文政9)に建設したとすれば、慶応元年丑年は40年近く立っているので、そろそろ再建しなければならない時期にきていたであろう。神社取調では、祠(ほこ)ら4尺(1.2メートル)、拝殿2間半四方、6.5坪、鳥居3基、境内、間口4間(7.2メートル)奥行5間(9メートル)20坪は、日浦の地形から見て相当な規模であり広さである。再建以前もおそらく同程度の規模のものであったのではないか。村人たちは、自分達の未熟な技術で建てる拝殿ではなく、大工、あるいは宮大工による本格的な神社を建設したいという願いが強く、そのためにどうしても3両の金子を必要としたのだろう。現在の稲荷神社も小規模ではあるが風格のある建築物である。創建当時のものも立派なものであったと想像する。
 このような村挙げての信心・願いに高田屋は快く応じたのではないか、と同時に昆布新鱈などの取引きを通して、郷土の人々と深い結び付きがあったからこそと推察される。