①縄文時代以前の遺跡・遺物の発見…昭和五十一年(一九七六)から三ヵ年にわたる県立郷土館の東津軽郡蟹田(かにた)町大平山元(おおだいらやまもと)Ⅰ~Ⅲ遺跡調査によって、縄文時代草創期の無文土器をはじめ、旧石器時代後期の石器類が発掘され(109)、一九五九年の弘前市大森勝山(おおもりかつやま)遺跡(110)と、上北郡甲地(かっち)村(現東北町)長者久保(ちょうじゃくぼ)遺跡出土の石器類(111)とともに、本県にも旧石器の存在することを証明したのである。現在では、二〇を超える遺跡が発見されている。
②縄文時代草創期に属する土器類の発見…昭和五十六年(一九八一)、東北自動車道八戸線建設予定地内の、八戸市是川鴨平(かもたい)(2)遺跡のⅨ層から爪形文(つめがたもん)土器が多数出土し(112)、昭和六十二年(一九八七)には六ヶ所村鷹架(たかほこ)の表館(おもてだて)(1)遺跡で隆線文(りゅうせんもん)土器が発掘された(113)。なかでも後者の隆線文土器は、完全な形に復元され国内外から注目を浴びている。
③縄文時代前期と中期の円筒土器にまたがる遺跡調査と土器研究の進展…昭和四十一年(一九六六)、岩木山北麓の森田村床舞では石神遺跡が開田工事に伴って発掘され、円筒土器直前に当たる深郷田式から前期の円筒下層式、中期の円筒上層式を経て、榎林式から最花式に至る一三形式の土器を発見した。ほかに、三厩村宇鉄の中ノ平遺跡が、青函トンネル工事に伴う資材運搬路の工事によって調査され、円筒下層d1式から円筒上層式を経て、榎林式・中ノ平Ⅲ式(最花式)、後期の十腰内Ⅰ群(式)に至る各形式土器が、土層の序列に従う状態で発掘され(114)、山内清男が昭和四年(一九二九)『史前学雑誌』・昭和十二年(一九三七)『先史考古学』一巻一号で発表した円筒土器編年の正しさを確認した(115)。ただし当時は、上層式のc~d式について山内の記載はなく、この形式については昭和三十一年(一九五六)河出書房の『日本考古学講座』三の誌上で、江坂輝彌の示したのが最初である(116)。なお、石神遺跡より出土した円筒土器の一部二一九点は、平成二年(一九九〇)国の重要文化財に指定されている。
④縄文時代後期の土器編年確立…昭和四十三年(一九六八)に刊行された弘前市教育委員会の『岩木山』(岩木山麓古代遺跡発掘調査報告書)の中で、昭和三十五年(一九六〇)調査の「十腰内遺跡」の項を責任執筆した磯崎正彦(いそざきまさひこ)(一九三三~一九八〇)が、土器を第Ⅰ群から第Ⅵ群に分けて器形・文様の特徴等を詳しく記述した(117)。彼のこの分類は、現在も東北北部における後期の土器研究の指標となっている。
⑤本県における弥生時代の土器編年確立と同時代の水田跡発見…この時代の土器編年については、橘善光が精力的にその確立に努め、下北を中心に一応の変遷がとらえられ、さらに津軽から東北北部に手を広げた(118)。一方、東北大学は、昭和四十一年(一九六六)下北の大畑町にある二枚橋(にまいばし)遺跡、昭和四十四年(一九六九)脇野沢村瀬野遺跡の調査を行い(119)、県立郷土館は昭和五十年(一九七五)から昭和五十二年(一九七七)に至る三ヵ年と、一〇年後の昭和六十二年(一九八七)に三厩村宇鉄下ノ平遺跡を発掘し、弥生時代中期前半の土壙墓十数基を発見、それらの中から管玉(くがたま)三六二個と勾玉(まがたま)・丸玉のほか、カップ型土器などを検出している(120)。なお、これらの玉類は平成三年(一九九一)に国の重要文化財に指定された。かつては、本県における弥生文化前期の存在を疑問視する考えも強かったが、昭和四十三年(一九六八)の三戸郡南郷村松石橋遺跡での遠賀川(おんががわ)系土器発見を契機として(121)、八戸市是川中居など数遺跡でも発見され、もはやその存在は揺るぎないものとなった(122)。
昭和五十六年(一九八一)、田舎館村垂柳遺跡の南縁をかすめる国道一〇二号バイパス予定地の事前調査で、中期後半の田舎館式土器期に造成された一〇枚の水田跡が発見された。翌年調査会を組織して二ヵ年にわたる調査を行い、計六五六枚にのぼる水田跡が発掘され、伊東信雄と工藤正の弥生文化にかけた熱意が報われたのである(123)。弥生時代の水田跡は、その後の昭和六十二年(一九八七)に弘前市三和(みわ)にある砂沢遺跡で、当初二枚、その翌年の調査でさらに四枚発見され(124)、稲作の伝播は西日本と比較して大差のない時期であった事実が把握された。
⑥須恵器(すえき)の窯跡調査…昭和四十二年(一九六七)春、五所川原市前田野目(まえだのめ)の鞠野沢(まりのさわ)で須恵器の窯跡(かまあと)が発見された。昭和四十三年(一九六八)五月に、立正大学の坂詰秀一(さかづめひでいち)を担当者として、近辺の砂田窯跡とともに発掘調査が行われ、十世紀中頃(平安時代後半期)の窯跡であることが判明した(125)。なお坂詰は、昭和四十七年(一九七二)十月、同市持子沢(もっこざわ)窯跡B地点、翌年十月は同窯跡D地点において、十世紀初めの窯跡を発掘(126)、昭和四十八年(一九七三)十月には新谷武(あらやたけし)と村越潔(むらこしきよし)らが、砂田D地点窯跡を発掘している(127)。さらに、平成九年(一九九七)五月、前田野目犬走(いぬばしり)地内でも窯跡が発見され、県内の研究者は同窯跡発掘調査団を組織し、五所川原市教育委員会と連携して調査を行い、二度の操業を有する平安時代前半期の窯跡を検出した。なお、白頭山-苫小牧火山灰が窯を覆っており、操業は少なくとも西暦九二三年以前と考えられている(128)。
鞠野沢窯跡全景(五所川原市前田野目窯跡群)
⑦鉄生産遺跡の調査…昭和三十五年(一九六〇)八月、弘前市教育委員会が中心となって実施した岩木山麓遺跡緊急発掘調査で、鯵ヶ沢町湯舟(ゆぶね)町の若山遺跡が発掘され、十世紀後半の製鉄炉(リンゴ植樹のため破壊されていた)が発見されている(129)。次いで、昭和六十三年(一九八八)七~十月にわたり、同地を走る農道の建設に伴う杢沢(もくさわ)遺跡の緊急調査において、製鉄炉三四基・鍛冶場跡三基等の遺構が発掘され、平安時代に岩木山麓で大規模な鉄生産が行われていた事実を確認した(130)。このほか大平野(おおだいの)・大館森山(おおだてもりやま)など製鉄に関する遺跡は多く(131)、津軽半島の脊梁(せきりょう)である中山山脈西麓においても、五所川原市飯詰の狐野等(132)をはじめ各地から鉄滓(てっさい)や羽口(はぐち)が発見されている。なお、前述した湯舟町集落にある社(湯舟神社)の御神体は、巨大な鉄滓である。
⑧古代および中世史に関する調査の進展…八戸市根城については、昭和四十九年(一九七四)の三番堀と東善寺館堀の試掘調査を皮切りに(133)、今日に至るまで継続して調査が行われ、昭和五十一年(一九七六)と翌年に弘前市堀越(ほりこし)城の二の丸跡と関連の堀跡(134)、昭和五十二年(一九七七)には浪岡城の北館・東館と、関連の堀跡などの調査が行われた。以後、根城・浪岡城の調査は、史跡整備計画に基づいて調査が継続されている(135)。このほか、耕地整備や道路および堤防建設などにかかわる緊急調査で、木造町蓮川(はすかわ)の石上(いしがみ)神社遺跡(一九七六年発掘、十世紀代=平安時代)(136)、碇ヶ関村古懸の古館(一九七七年発掘、十一~十二世紀=平安時代後半)(137)、下北郡東通村小田野沢の浜通(はまどおり)遺跡(一九八一年発掘、十六世紀末~十七世紀初=安土・桃山時代)(138)、弘前市独狐(とっこ)遺跡(一九八三・八四年発掘、十三世紀から三期にわたり十六世紀中頃廃絶=鎌倉~室町時代)(139)、弘前市境関の境関(さかいぜき)館跡遺跡(一九八四・八五年発掘、十三世紀前半・十四世紀後半~十五世紀前半・十五世紀末~十六世紀初めまで三期に分かれる=鎌倉~室町時代)(140)、弘前市中別所(なかべっしょ)の荼毘館(だびだて)遺跡(一九八五・八六年発掘、十四~十五世紀=鎌倉時代)(141)、弘前市中崎(なかざき)の中崎館遺跡(一九八八年発掘、十二世紀後半~十三世紀初頭=平安末期~鎌倉時代)(142)、南津軽郡平賀町大光寺(だいこうじ)の大光寺新城遺跡(一九八八年発掘、一六一〇年落城でそれ以前は三世紀にわたり城館として機能)(143)、上北郡七戸町の史跡七戸城における東北出丸矢館跡(一九八七・八八年発掘、十六世紀=戦国時代)(144)、弘前市中崎の野脇遺跡(一九九一年発掘、十四~十六世紀=鎌倉~室町時代は城館として、十八世紀=江戸時代には農村集落であった)(145)等の諸遺跡が、前述のように緊急調査として行われた。学術調査では、青森市後潟(うしろがた)の尻八(しりはち)館(一九七七・七八年青森県立郷土館が発掘、十四~十五世紀=鎌倉~室町時代)(146)、東津軽郡蓬田村の蓬田(よもぎだ)大館遺跡(一九八一・八四・八六年金沢大学・早稲田大学発掘、十二~十三世紀=平安~鎌倉時代、十四~十六世紀=鎌倉~室町時代)(147)、北津軽郡市浦村相内の山王坊跡(一九八二・八五~八九年東北学院大学発掘、十四世紀中頃?=鎌倉時代)(148)等の調査がある。遺跡整備に関する調査では、北津軽郡中里町亀山の中里城跡(一九八八年より継続中、十~十一世紀=平安時代、十五世紀=室町時代の二期に分かれる)(149)、西津軽郡鯵ヶ沢町種里町の種里城跡(一九八九年より継続中、十二世紀=平安時代末期、十五~十六世紀=室町時代)(150)等において城郭の調査も進行した。このほか現地踏査による事例としては、北上市立博物館の本堂寿一が、昭和五十年(一九七五)には東津軽郡今別町の大開城跡(151)、昭和五十五年(一九八〇)には西津軽郡深浦町の元城跡、ならびに同町関の西浜折曽(にしはまおりそ)の関を調査している(152)。なお加えると、市浦村の福島城跡は昭和三十年(一九五五)東京大学東洋文化研究所が調査を行い(153)、平成三年(一九九一)から国立歴史民俗博物館が「北部日本における文化交流」をテーマに、三年計画で福島城跡・十三湊(とさみなと)遺跡の調査を実施し、十三湊遺跡では安藤氏に関する館(やかた)跡をはじめ、家臣団の屋敷跡・中軸街路のほか、短冊形に区画された町屋跡の一部を発見し、その後を引き継いだ村教育委員会が調査を進め、平成七年(一九九五)から六年計画をもって県教育委員会が家臣団屋敷跡・町屋跡地区の調査を行い、関係遺構に加えて畑跡も発見している。
⑨集落跡調査の進展…近年の大規模開発によって広い面積の調査が実施されるようになり、従来二~三棟から五棟程度の住居跡発掘が限度であったのが、一挙に数十棟あるいは一〇〇棟を超えるほどにまで調査の規模が拡大した。特に、東北自動車道建設、六ヶ所村の石油備蓄基地建設、同村の核燃料サイクル施設建設に関連する調査が大きい。例えば、六ヶ所村上尾駮(おぶち)の富ノ沢(2)遺跡では、平成元(一九八九)・平成二年(一九九〇)の調査で二万六〇〇〇平方メートルを発掘し、縄文時代中期の竪穴住居跡五四三棟を発見した(154)。また、平成三年(一九九一)以後継続して調査が行われている青森市高田(たかだ)の朝日山遺跡では、前年の平成二年の調査だけで、九世紀後半から十一世紀前半に至る平安時代の竪穴住居跡六七棟・掘立柱建物跡一四棟等を発掘して、縄文時代中期ならびに平安時代等における集落構造について問題を提起した(155)。さらに平成四年(一九九二)、県営野球場建設予定地であった三内丸山遺跡に対する緊急発掘調査が開始され、大小の竪穴住居跡・掘立柱建造物跡・盛土遺構・墓地・大型掘立柱建物跡などの各種遺構の発見と、膨大な量の遺物が出土し、県は平成六年(一九九四)八月、遺跡の保存を決定し野球場の建設等を中止した。遺跡はその後整備が進められ、平成九年(一九九七)国の史跡指定を受けている(156)。
⑩埋葬に関する遺跡調査の進展…大型土器の内部から人骨が発見され、その土器がいわば棺の役割を果たしていた事例は、すでに述べたとおり浪岡町天狗平山(一九一七年)・青森市山野峠(一九三三年)にある。
昭和三十年(一九五五)八月、前述のように早慶両大学の調査団が八戸市蟹沢遺跡を発掘して、縄文時代前期末の土器を発見した。その際、一個の円筒下層d1式土器内から胎児骨が発見され(157)、上北郡上北町大浦の古屋敷貝塚でも同形式の土器内から七~八ヵ月の胎児骨がみつかっている(158)。また、昭和三十二年(一九五七)四~五月にかけて行われた三戸郡名川町平の前ノ沢遺跡では、縄文時代晩期中葉の大洞C2式に属する合口甕棺内から、幼児骨とともにイノシシの牙を利用した装身具(首飾り)と、碧玉(へきぎょく)製のような小玉を発見している(159)。
昭和四十三年(一九六八)慶応大学の江坂輝禰は、南津軽郡平賀町唐竹(からたけ)の堀合(ほりあい)Ⅰ号遺跡で、成人骨が入った縄文時代後期十腰内Ⅰ群(Ⅰ式)土器期に属する甕棺一個を発掘した(160)。その後、土採り工事等に伴い、平賀町教育委員会は昭和四十六年(一九七一)八月堀合Ⅱ号遺跡で、縄文時代中期末の大木8b式期に比定される甕棺一個を発掘し(161)、同年十二月には近くの小金森遺跡で、十腰内Ⅰ群期の甕棺が二個体分発見され(162)、さらに翌年の五~七月にかけて、堀合Ⅰ号遺跡から十腰内Ⅰ群期の甕棺二個が発掘されている(163)。また昭和五十三年(一九七八)五月末に三戸郡倉石(くらいし)村薬師前(やくしまえ)で、長芋畑の造成中に発見された三個の甕棺は、人骨ならびに装身具が破損せずに改葬そのままの状態で発掘され、十腰内Ⅰ群土器期の葬法を知る手がかりを与えている(164)。なお、縄文に続いて弥生時代にも甕棺墓の存在があり、西津軽郡深浦町広戸の吾妻野Ⅱ遺跡出土合口甕棺(前期砂沢式期)(165)、昭和五十七年(一九八二)に南津軽郡尾上町猿賀の五輪野遺跡で発掘された同時代の合口甕棺がある(166)。
縄文時代後期は甕棺墓(かめかんぼ)と並んで、組石石棺墓(くみいしせきかんぼ)なるものもおもに十腰内Ⅰ群期に造営されている。すでに紹介している青森市山野峠の事例のほかに、昭和四十六年(一九七一)には平賀町の堀合Ⅲ号遺跡で積石塚(つみいしづか)組石石棺三基、翌年十二月に一基が発見され、さらに昭和五十三年(一九七八)の八~十一月にかけて、堀合Ⅰ号遺跡から一二基にのぼる同様な石棺墓が発見調査されている(167)。ほかに、時代は若干古いとみられる組石石棺墓が、同年五月に西津軽郡鯵ヶ沢町建石(たていし)町の餅ノ沢(もちのさわ)で発見されている(168)。
縄文時代を通じて一般的な墳墓は、地面を掘りくぼめて作った土壙墓であった。従来発掘調査の際に一~二基の当該遺構を発見してはいたが、人骨ならびに副葬品等の検出がみられぬため、性格不明の遺構として無視されてきたが、昭和五十年(一九七五)青森市三内丸山Ⅱ遺跡において五七基、浪岡町北中野の源常平(げんじょうたい)遺跡で二四基が発見され、特に三内丸山Ⅱ遺跡では二列に並んで造営されており、南側三四基、北側二三基が発掘されている(169)。これらの土壙墓は、平面が長楕円(小判型)の形状をなす例が多く、大きさは長軸が一メートル強から一・七〇メートル前後、幅は三〇センチメートル強から一メートル程度であり、おそらく成人ならば手足を折り曲げた屈葬という窮屈な姿勢で葬られたであろう。源常平では、丹塗りの耳栓が土壙内の西側に一対で発見され、また石製の小玉が数珠つなぎで検出されるなど、状況から死者を埋葬した可能性を示唆しており(170)、昭和六十一年(一九八六)発掘された六ヶ所村の上尾駮(1)遺跡C地区では九四基の土壙から赤色顔料の確認されたもの二一基、玉類の出土したもの一三基(この中から玉類七五九個出土)、ほかに帯状の赤色顔料が塗られたものや丹漆塗の櫛などの発見もみられ(171)、これらは遺体を埋葬した際の副葬品であったと思われる。なお三内丸山Ⅱ遺跡は、縄文時代中期末に近い榎林式期、源常平遺跡は同時代晩期の大洞B式か大洞A式期、上尾駮(1)C地区は晩期の大洞C1~C2式期のようである。これより先、八戸市是川中居遺跡で昭和四十九年(一九七四)に四基の土壙墓が発見され、内部から赤色顔料によって赤く染まった人骨が検出されている(172)。このほか、平成四年(一九九二)に調査された下北郡川内町の板子塚遺跡では、弥生時代の土壙墓一〇基の中で、特に第八号土壙墓から石鏃一三〇個・勾玉(まがたま)一個が出土しており(173)、さきの合口甕棺と並んで本県の弥生時代における葬法研究に新しい資料を提供した。さらに土壙墓の範囲に含まれるものとして、人骨が出土するフラスコ状ピットがある。本県では昭和五十七年(一九八二)五~六月に調査された上北郡上北町大浦の古屋敷貝塚の例があり、壮年期の女性人骨(一八歳位)が屈葬の状態で発見されている(174)。
墓地に関する最後は、環状列石(かんじょうれっせき)(ストーン・サークル)である。この遺構は、昭和二十九年(一九五四)七~八月に、慶応大学が下北郡東通村尻屋の札地(ふだち)遺跡で発見し、翌年も継続して調査が行われ、径約五〇メートルの半環状石群(片側は戦時中に破壊)を検出したのが本県における初発見である(175)。その後、岩木山北東麓の弘前市大森勝山遺跡でも、昭和三十五年(一九六〇)八~十一月の調査の結果、楕円形を呈する長径四九メートル、短径三九メートルの環状列石を発見した(176)。
本県にはこれに類する遺構が数ヵ所発見されており、とくに、平成元年(一九八九)青森市野沢の小牧野(こまきの)遺跡で発見されたものは、他に類例のない石積みをなしており、外帯の外周径三五・五メートル、内帯外周径二九・〇メートルといわれる(177)。
これらの列石は、昭和五十九年(一九八四)より行われている秋田県鹿角(かづの)市の国特別史跡大湯(おおゆ)環状列石周辺調査において、発掘された土壙内の残存脂肪酸を抽出・分析した結果、ヒトを埋葬した墓地であることが確かめられている(178)。なお、小牧野遺跡は平成七年(一九九五)国の史跡指定を受けている。
これまで、江戸時代から昭和三十三年(一九五八)の弘前市教育委員会による岩木山麓遺跡緊急発掘調査開始まで、つまり第Ⅰ・第Ⅱ期について年度を追いながら記述したが、その後は年を追うごとに調査の件数も増加し、もはや従前のような調査組織では対応が不可能となって、前述のような諸機関による調査の方向へと漸次移行しなければならない状況となったのである。そのため急激に増加した調査の内容をすべて記述することは困難となり、やむをえず第Ⅲ期以降は特定の事項を設定して、関連する件については可能な限り記述することに努めた。しかしながら疎漏(そろう)がないわけではない。また意識して記述を省いた部分もある。例えば、⑨の集落跡調査の進展に関する項では、県内各地で発見されている平安時代の集落についてはあまりにも事例が多いため省略したような点である。さらに、県外の研究者に対しては人名を記述しているのに対し、県内の人々については多数にのぼるために記載していない。それらの点についてお詫びするとともに、後日、機会を得て補正したい。