北海道経済史研究所
尻岸内町教育委員会
昭和41年3月28日発行
松前地古武井熔鉱炉の研究
第1節 序論
松前地箱館六ケ場所古武井熔鉱炉、女那川仮熔鉱炉、川上レンガ製造場(以上現在北海道亀田郡尻岸内町)の一連の旧施設は、我が国最初の高炉技術が導入され、しかも高炉による砂鉄製錬がわが国で最初に試みられ、且つ耐火煉瓦の製造技術においても耐火度を除いて近代煉瓦製造技術に劣らぬ技術を有していたという画期的施設(1)であり、この遺跡は日本近代黎明期の貴重な存在である。
本論文では、熔鉱炉を主題とするのであるが、女那川仮熔鉱炉並びにレンガ製造場も関連するので、最初に一応これらに触れておく。
女那川仮熔鉱炉は、安政元年、2年頃(1855年頃)箱館弁天町山カセ印、松右ヱ門という者が願請け自費を以て取建てたものに始る(2)。場所は尻岸内川冷水川沿いで、20丁程山に入った左岸の平地で(第1図参照)現在ダムより50メートル程のところ。三好又右ヱ門(3)(大正7年81歳)の聞書の「尻岸内沿革史」によれば、「今より58~9年前」とあるし、古武井熔鉱炉の方は「今より55~6年前」とあるから、3年前(熔鉱炉より)になるので、安政元年、2年頃(1855年頃)の操業と考えられ、しかも、生産方法はタタラ吹き製鉄法であったと推察せられる。それは、次に示す南部大畑地方の方法(条件)に準拠しており、
①自費でやる以上は資本金が少ないこと。②場所の選定は、(何故砂鉄のでる尻岸内海浜より遠く不便な沢合いに定めたかというと)燃料としての松材が豊富にあったこと。③竈の原料の赤土が近くで採取出来たこと(これが後のレンガ製造の原料となる)。④筆者が昭和41年1月22日実地踏査で分かった事であるが、現場は約30~40坪位の背面は傾斜面前は川の、狭い台地であるが、タタラ吹き製鉄なら可能である。等によるものであろう。
この冷水川沿いの沢は、今回踏査の折りも川沿い続きに、今なお、蝦夷松が林立しており、その他檜、それに白樺、柏、檪(くぬぎ)等が多く見受けられた。これが鉄砂吹立所である。
この針葉樹が多いことは、昭和39年の町勢要覧によっても、広葉樹との比が2対3.5、と絶対量は少ないが、他市町村より比較的多いこと、木炭、薪材は後年、大正の初めの統計によっても断然多いことが分かる。
林産物出産調(年末調) 尻岸内沿革史より
第1図 古武井熔鉱炉関係図
阿部たつを氏は「尻岸内沿革史」の「鉄鉱を採掘し、約二年間製鉄を営みし」によって「或いは砂鉄吹立所をさしたものではあるまいか」(函館郷土手帖109頁)と言われているが、尤もと思う。これが、安政4年3月「コウキョウヘン(ホーゲオーヘン)ト号即熔鉱炉略形、二間四方高二丈余ニ築立シタ(4)」と箱館奉行所詰梶山米太郎他1名の報告、地質学者の権威ライマン(5)は「長方形ニシテ長サ七尺、幅四尺、高サ五尺ニシテ泥土ヲ持ッテ築造セリ是内地ノ南部地方ニ於イテ用イルモノナリ(6)」と述べているが、これは熔鉱炉類似の近代的製法に切り替える以前である。炉の規模は、後者は明治6年の視察記であるから、安政4年に見聞した前者に信憑性がある。筆者の昭和41年1月22日の見分けに、2間四方はとれる丈の平地で、その石垣の石が川の流れに洗われていた。「泥土ヲ以テ」の泥土は単に焼竈にする粘土ととれるが、発掘調査で煉瓦であったことが確認された。これは斐三郎の蘭書より得た知識による指導により、同所に安政4年初完成した。南部領大畑在木野部銅屋沢で、慶安3年(1656)二枚橋、釣屋浜の砂鉄を高橋川へ運び鉄を吹いたことがあり、同所を「かな山」と称す。鉄を吹いたところを「銅屋」と言う。銅屋は60間余りに板屋の小屋を造り、中間に竈を築く。直径2間ばかり、高さ7尺程で、竈の四方を練り堅め、左右の脇に炉鋪を付け、竈中炭を夥しく積んで、タタラを踏み炭火炎々たる時に、彼の砂鉄を少しずつ竈中に入れ、忽ち鉄湯を流し出す。かくすること300回で竈を毀ち、また新に竈を築いた。鉄吹きには松炭を用いた。松炭は他の炭より出鉄量が多かった。1竈を吹くのに砂鉄2斗入り叺、120駄(2,400貫)松炭4,000貫を要したので、松炭を焚く松山のある箇所へ砂鉄を運んで吹いた。1竈は4日3晩吹き通して、800貫位の鉄を得たが、冬分は出鉄歩合優利、夏分は劣った。1竈に1,000貫の鉄を得れば、1,000貫祝と称して大振舞をした(7)。この祝いは南部領九戸郡久慈でも行われた(8)。
寛政12年(1800)箱館奉行は箱館町人の尻岸内での吹立て(砂鉄)を計画した。(休明光記付録6)
松右ヱ門は南部大畑のことを知っており、タタラ吹製鉄法を導入したが、箱館奉行の、個人経営を御手作場にする方針(交易1件外)で、武田斐三郎の指導によって安政4年(1857)奉行所属の仮熔鉱炉として近代的な炉を構築するに至った。仮熔鉱炉の例は、大橋3番高炉で、安政5年(1858)仮炉として出発、同6年、万延元年(1860)と2か年間大改修を加え、翌文久元年(1861)に本炉となったのである(9)。松右ヱ門は安政3年、鉄沙吹合所操業前、紛擾(ふんじょう)、(殺傷事件といわれる)が起こり操業休止。翌4年(1857)3月21日にはまだ休業していたが、見分の村垣淡路守は早々操業するよう、現場責任者徳兵衛に厳達した(10・11)ので、再開年末まで継続したらしい。用人高橋靭負(旗本高橋三平の次男)を指導者とした(入北記九玉虫義)仮炉は、4年3月21日までに完成火入れるをおこなったと思う。従って同年中には再開したと見られるが、同年11月6日の村垣公務日記に「弁天町松右ヱ門、鉄砂五〇貫目差上候ニ付金五両為御遣候旨申渡し」とあるのから見ると、11月頃は松右ヱ門自身手を引いて、砂鉄採取だけを引き受けていたらしい。思うに、仮炉として洋式製鉄法採用に決定した時から、仮炉は奉行の直営に移ったらしいが、梶山らの報告では「(3月21日)火勢の模様強烈盛ニ相見実ニ破裂等之儀も有之間敷とも難申、見請申候(11)」とある。
これが「三ケ年間鉄砂ノ製造ニ従事(12)」したで、順当であれば安政5年迄となるが、その後は現場用地が狭隘であり、炉だけで手一杯、他の施設は(建設が)不可能で徳兵衛の小屋も他所に有った程であり、つまり立地条件の不利が主因で成績が上がらず(仮炉を)休廃止したのではなかろうか。
仮炉跡より採取した鉱滓を富士鉄室蘭(現新日鉄)で分析の結果、SiO2とCaOとの比率から、鉱滓とは普通考えられない含有率で、歩留まりが悪く良質でない銑鉄が出ていたことが認められた。
次に女那川(川上)レンガ製造場(13)であるが、前記仮炉の構築に用いた点から見ると、それ以前、安政2年か、3年の当初に築造せられたと思う。古武井本炉の地点から1里程距ったサツカイ川に添い、山手の方に設けた(第1図参照)。前記の4年3月21日、梶山らの報告に「煉化釜取建有之、則煉化石を製瓦焼釜之由、薪少々入火勢尖簡而弁利之突つゝ相見へ申候」「この海岸を二十町余之間鉄砂夥敷又煉化石を相製之赤土ハ此場所より十五、六町山入ヒヤミツ川と申所より運候由土性よろしく相見へ候(14)」とあり、煉瓦はヒヤミツ川辺の良質の粘土を以て原料として製したことが分かる。この原土(臘石)の所在地点は中野鉄雄氏の調査によれば、仮炉の位置から更に200~300メートル、川に沿って遡った地点で、石英粗面岩の風化したものと見られ、原土テストの結果SK24(耐火度)である(15)。それから1か月後の5月27日の姫路の儒官菅野潔(狷介(けんかい)、白華)の検分では「其襟口稍豁処置竈場官司督之、竈瓦師即煉瓦石可以為鉱炉材倣洋製也。其製堅緻能耐烈(16)」と良質(耐火性が高い)の煉瓦を洋式で製造していたことを述べているが、その製法は現在からいえば旧式で珪酸分大部分で耐火性が低い。だが、耐火性が劣っていたとしても、特別に耐火煉瓦を作って高炉を作り精錬する(鉄を)技法はわが国では最初に属し、それによって従来の一夜や単位(3日間)精錬時間に炉を作り替えなければならなかった欠点を補い得た事は、日本技術史上特筆すべきことに属する。
それから4か月後の9月5日頃には製造高も益々増加し、「煉化石製造小屋有之職人とも多人数、煉化石相製右焼立候釜四ケ所取建之数一万五千枚之内此程迄ニ出来之員数一万千枚余ニ相成候趣土性も宜相見ヘ至極手極ニ出来仕候ニ御座(17)」と釜4個で予定15,000枚(高炉全部の使用量と思う)の中、11,000枚余も生産した。これは高炉築造に使用するもので、当時、その建設に全力を上げていたことが分かる。このレンガも富士鉄室蘭研究所で分析の結果、耐火レンガの製造技術においては、耐火度を除いては、近代レンガ製造技術に劣らぬ高度の技術を有していたことが証明された(18)。尚、昭和37年(1962)1月、市立函館博物館、武内収太館長らの発掘調査で、窯4か所を確認した(19)。
文献上の研究は考古学上の調査と密接な関係にあるが、市立函館博物の発掘報告は公表されていないので、会員のみ頒布(はんぷ)の略報の引用を、特にゆるされた武内館長の厚意をここに追記して、感謝の意を表したい。
註
(1)(13)(18)高木幸雄、古武井熔鉱炉に関する研究(道科学研究報告第4集)
(2)(4)(11)(14)箱館領六ケ場所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見分罷越候趣申し上候書付(市立函館博物館蔵)
(3)又右ヱ門は故老で、伯父三好又兵衛は高田屋嘉兵衛・金兵衛の支配人で、嘉兵衛密貿易の廉で、彼も亦江戸に召喚され、其時彼は弟(又右ヱ門の父)に別るるに臨み、軸物1幅及び算盤1挺・財布1個を与え大切に保存すべきを命ぜり、3品は今尚秘蔵せるが、一見数百年の古物にして、近藤重蔵の遺物なりと言い伝う。(尻岸内沿革史)
(5)高倉新一郎、開拓史時代における技術教育と技術普及(農経論叢21集)
*尺は米の誤、間に換算して前者と略同じ。
(6)(12)来曼(ライマン)氏、地質測量初期報摘要(新撰北海道史第6巻131頁)
(7)笹沢魯平、大畑町史123頁
(8)森 板橋、近代鉄産業の成立(釜石製鉄前史36頁)
(9)同右 同右97頁
(5)(10)村垣公務日記(幕府外国関係文書付録之1~4所収_安政4年分)
(12)尻岸内沿革史
(15)浜田昌幸、昭和41年1月25日・2月20日及び、中野鉄雄2月5日報告
(16)菅野潔、北游乘 地(市立函館博物館蔵)
(17)箱館付6ケ場所之内金銀山其外産物出所場所見分仕趣申上候書付(市立函館博物館蔵)
(19)武内・吉崎・浜田、尻岸内古武井熔鉱炉及び川上レンガ製造跡略報第2回(恵山地方史研究会研究通信11)略報は会員頒布のもの。
第2節 熔鉱炉(本炉)
本節の中心問題である古武井の熔鉱炉の完成年代から始めよう。
その年代について、安政5年(1858)5月とする高木幸雄氏の説がある(高木幸雄、古武井熔鉱炉に関する研究)が後に詳説する如く、再検討してみたい。
安政4年(1857)12月には熔鉱炉を設けて製鉄に成功していた南部藩に対し、万延元年(1860)2月箱館奉行は、南部藩の箱館留守居に嘱し、其の職工10人を雇入れること、並びに箱館丸に乗じて宮古に碇泊中の武田斐三郎外1名に精煉作業を見学せしめ、其の場に於て雇入れんことを本藩に申し送らせたが、南部藩は職工不足の故を以て、これを謝絶した。(覚1、申2月7日安間純之進より南部藩箱館留守居へ、同3月3日、南部美濃守家来福岡三郎回答)尤も(1)、斐三郎は前島密等と共に前年の安政6年、宮古の桑ケ崎港で越年の際、大島高任の設置した大橋及び橋野の熔鉱炉を見学している(2)。
これは「安政六年末出来栄之儀申上げ」(小出箱館御用留)に基づく。
高炉の胴張は「上記文書」の予定で、安政4年(1857)7月中、石工喜三郎が基壇の築立を終わった時、幕府より「当分吹上差支も無之」(同右)というので、材木で胴張した。これが失敗の遠因である。同年暮れに一応完成し、翌5年火入れも行ったが失敗に帰したので、これが問題になり、奉行に石に変更(胴張を)を申し出たが、亀田役所土塁(五稜郭)、弁天砲台築造が終わったら、中川伝蔵(代伊兵ヱ)石工喜三郎の手があくから、それ迄待てということで(小出箱館御用留)、文久元年(1861)5、6月には手直し程度の大工や人夫を使った。このことは長坂文書に「炉に罷出大工凡五人」とある。また、不備と思われる、水車小屋、樋、長屋、板蔵等も建設した。
この工事遅延には、臼別寄場の建設も影響した(3)。
安政4年(1857)4月27日に視察した玉虫義は、反射炉に最初取り掛かり乍ら、これを中止し、熔鉱炉の建設に移り、しかも「少シハ成功アル筈ナルニ、只、今頃漸ク材ヲ打チ込ミ居ル次第、上ヲ欺クノ所為実ニ悪ムベシ」と慨歎し、斐三郎らの責任者を問責しているが、此の工事が、文久元年(1861)1月に至っても、未だかくのごとき状況であったことに疑義もあろうが、この問題は、亀田役所土塁(五稜郭)・弁天砲台の二大工事との関連において考察すべきものである。
その理由は次の如くである。
1、経費が意外に膨脹したこと。
416両2分ヨ、反射炉入用。2,772両ヨ、熔鉱炉入用。
合計3,188両2分ヨ 平均1,594両1分ヨ
これは、安政3、4年両年分で、安政5年(1858)3月14日現在高であり、8月26日の村垣範正らが4か月余りの廻浦を終わって、箱館へ帰ってから3日目までの公務日記によれば、安政5年度分の支出は3月16日に200両だけ、経費が削減したことを意味し、同年4月15日迄の総計、2,972両、約3,000両に過ぎない。大橋の高炉では3万両、幕府に貸付けを願出ており(6)、水戸の反射炉では1万両を予算としている(7)。従って工事も延び延びにならざるを得なかったのではないか。なお、古武井の経費は蝦夷地入用金の内から繰替置き追って吹き立て後、銑鉄御払代を以て埋戻す予定であった(小出箱館御用留)。
一方、二大工事の経費を見るに、官衙(かんが)(役所)官宅、備船、弁天崎台場、築島台場、沖口台場等の建築費として20年間に41万8,760両余りを予定している。その内、弁天砲台は安政3年(1856)11月、予算、金10万両を以て工事に着手し、弁天崎地先の海面を埋立て堅固な石垣を築いた。役所、備船、台場等の建設費は1か年2万両宛て継続して支出される予定であったが、元治元年(1864)五稜郭(亀田役所土塁)が竣工した後は、幕府の財政が困難になったので予定の支出をせず、築島台場、沖口台場は遂に築造しなかった(8)。高炉胴張替の実現しなかった理由。
安政4年(1857)7月11日、御台場石代1,500両内借、御台場・亀田役所土塁とも、一括、金41万8,760両余の内2度目御下げ、安政3年(1856)12月より、同4年12月迄、合金2万2,006両3分永165文2分、内金3,536両3分余亀田入用等莫大な経費が計上された(村垣公務日記)。
反射炉及び熔鉱炉の平均年経費1,594両2分ヨ(前記)として、二大工事等の年賦2万両の経費と比較するに、7.97%、即ち8分程(100/8)にしか過ぎない。それでも出し渋っていたのである。
なお、反射炉の経費は、安政3年度のみで、反射炉建設計画は前述の玉虫義の入北記でも分かるように、同年8月中より、地所の選定小屋掛けした程度で、中止、同年末から同地所で熔鉱炉建設に切り替えたと推定され、従って、その経費のみを計上したと見られる。
元来は熔鉱炉あっての反射炉であるが、最初、反射炉築造に着手したのは「村垣公務日記」(安政2年)にある「反射炉雛形」の記事でも分かり、奉行の考えでは仮熔鉱炉(以下仮炉と称す)の完成を以て当分は本炉に代え、そこから反射炉に送銑する積もりで、最初反射炉に着手したが、両所の距離(第1図参照)、経費の関係、それに、仮炉用地が狭隘で、他諸施設の建設が不可能で、反射炉を後回しにし、本熔鉱炉(高炉)1本に絞り、着工したばかりの反射炉築造を中止したと思われる。奉行が反射炉を後回しにしても築造する方針であったことは、土佐藩士手島季隆の「探箱録(9)」に斐三郎の言として「尋(じん)将製返射炉」(安政4年4月19日述)によっても明らかである。
筆者は、玉虫義の「反射炉を中止し熔鉱炉に切り替えた」という記述に賛成し、二大工事併行説を否定する。阿部氏は「反射炉分として寡少な費用が上げられているところを見ると当初の計画はあったかもしれないが具体化はしなかったのであろう。更に甚だ大胆な推測を敢てするならば、ここに所謂反射炉とは熔鉱炉の一部分、水車による通風装置−踏鞴(とうび)(ふいご)の部分などを指したのであるまいか」(道南郷土夜話100頁)と述べられているが、筆者は前述程度の着工を認めたい。それは兎も角として、二大工事の経費の膨脹が、この方の進行に大きく影響したと考えられる。
2、重要度の相違による。
二大工事等は、幕府当面の緊急政策であるのに対して、こちらの方は、弁天砲台ができてから大砲、弾薬が必要であり、五稜郭も然りで、工事を併行、若しくは後回しにしても差支えがないという時間の問題(単なる製鉄・製弾は二大工事完成後でも差支えない)、つまり時期的に見て重要性が低く評価された。
竹内・堀両箱館奉行は熔鉱炉並反射炉築造の意見に対し(第8節参照)、老中は、「弁天岬築島之方より取懸よう」(新撰北海道史第5巻1503頁)指示したことはこの間の消息をかたっている。二大工事が終われば高炉石胴張にする理由も立ったわけである。
3、斐三郎らの任務過重築造係(築造責任者)
斐三郎は、二大工事の築造係でもあり、諸術調所教授役も兼務し(10)、ライス来箱には翻訳係を命ぜられたり、安政6年7月より翌万延元年1月迄、箱館丸上乗、海産物積込西回り長崎へ、後、東回り釜石へ、大橋、波地製煉見学(後述)。更に、黒竜江出貿易(11)の出張、等々の要務があり、この方のみに専念指導が出来なかった。(築造係の代島剛平も二大工事の築造係であったが(12))特に文久元年(1861)の亀田丸による黒竜江出貿易は箱館奉行の財政捻出、商況地理調査、航海術の実習等重大任務を持ったもので、4月より8月迄の期間のため、熔鉱炉が7月迄に復興したとして、9月よりの再度火入れの延期も推定される。
4、斐三郎の未経験
斐三郎は、ただ1冊の蘭書、ヒユゲエニン著「ライク国立鉄砲鋳造所における鋳造(13)」(Hugueninu・Het Gietwezen in Srijks Ijzer-Geschtgeterijs te Luik 1826)を唯一の頼りに、築造・製錬に当たったので、相当の研究期間が必要であった。
大島高任の場合は、この書の翻訳もし、他にイペイ (A. Ypey) の著やウエランド又はクラマーのコントウオールも参照している(14)。斐三郎も安政3年(1856)3月21日、尻岸内の客舎でイペイ (A. Ypey) の著である
「Sijstematisch Handboek der beschouwende en-werkdaadige Scheikunde」を訳了しており(15)、又、安政2年(1855)9月、仏艦コンスタンチーン号副艦長の指導・反射炉絵図面を写し取っている(仏船碇泊日記、大日本古文書幕末外国関係文書之十三)。又、英艦サイビル号でも質問した記録がある(前掲書)。
斐三郎は、先覚者としての辛酸を嘗めた訳で、玉虫義から「姦吏の所為」(入北記)の痛罵をも受けている。
5、工事請負人の多端
安政4年(1857)7月4日「74両2分ヨ」で、高炉の石垣を請負った石工、喜三郎は二大工事の請負人であり、普請方、中川伝蔵(代伊兵衛)も亀田土塁(五稜郭)の請負人であった。
6、労働力の絶対量不足
二大工事、臼別の寄場、古武井等と諸建造工事に於いて、多くの大工(後述)大工付き人足、職人を必要とし、箱館だけでは供給できず、江戸、北陸、南部、弘前、秋田と、請負人の雇傭を以ってしなければならなかった。「安政四年六月十四日、亀田土塁(松川)弁之助人夫五十人も来り候ニ付近々取掛りの積リ嘉六見分ニ遺ス」(村垣公務日記)は、職人がこなければ着工不可能であったことを示している。
特に、南部熔鉱職人10人の雇傭が不可能になったことは、この建設・操業に大影響を与え、操業後失敗し廃業を早めた原因ともなった。
7、立地条件の不利
古武井が箱館を遠く離れた地点であることは、建設資材の運搬、労働者の稼動、工事監督等に対して非能率的であり、経費の加重も箱館の比ではなかった。
箱館から熔鉱炉までの距離は「延叙歴検真図」に拠ると、箱館から尻岸内まで12里14町、松浦武四郎の「回浦日記」に拠ると、尻岸内からオタハマまでの距離1里9町12間で、加えると13里13町12間となる。里程表(昭和18年1月1日刊、北海道庁編)では、12里9町12間(48.011キロメートル)としており、古老の談話でも「軽装による徒歩でも、9時間半くらいかかった」由で、途中に汐首岬の嶮、原木峠、日浦峠があり、延々とた砂浜 土産馬(当時は南部馬か)の背を頼るしかなかった時代である。また、海上12里「古武井漁業組合長斎藤武男氏談話」で、輸送は専ら帆船によったが、潮流(上ゲ潮、下リ潮)や風向きなどで、日和待ちも多く、特に秋から冬、早春には海の荒れる日が多かった。従って、建築用材諸々の運搬に支障が多く、加えて、大工、大工付き人足は箱館から受入れた。地元から人足を雇傭するとしても、漁民は6月迄の鰊場所の28取の出稼ぎ「当時場所出稼ギニテ一人モ居ラズ」(安政4年4月、入北記)また、帰村後も昆布取り等で、雇傭は困難であった(16)。
8、奉行の退陣
この工事に積極的であった、竹内、堀、村垣3奉行の退陣は大なる打撃であった。
竹内は文久元年(1861)1月20日に転出。堀はその前年万延元年(1860)1月5日、安藤老中とプロシア問題で激論の末自殺。村垣は文久2年(1862)7月17日に退職している。文久3年(1863)6月14日、暴風雨で本炉大破、復活は中止となったが、3奉行が存在して居れば復興もかなうたろう。
これを、「長坂庄兵衛の請負」の経済的な経費高から眺めたい。
箱館からの運賃として、諸色、凡150石目につき12両3分を要した(17)。
次に、箱館、古武井、西地久遠場所臼別(箱館より久遠場所まで、55里13町余、目賀田帯刀による)の、長屋並びに板蔵の建築費、同じ庄兵衛の見積もりによって比較してみると次の如くである。
[表] *1坪当たりの価格
これで見ると、箱館に比して、長屋の場合、古武井・臼別は約2.6倍、板蔵は臼別で、1.5倍になっている。
賃金について見ると、次のようにやはり高率になっている。また、賃金とは別に箱館からの「往返手当」往復の旅費も支給されている。
[表] *1日1人当り
熔鉱炉(高炉を含む一連の施設)の工事進渉過程は、後編年表に示したので省略し、その完成年月を見よう。庄兵衛が請負った、樋、水車場小屋、長屋、板蔵だけで、次の表の如く、延べ人員1,045.5人の大工と180人の大工付人足、合計1,225.5人の延べ人員を要しているので、各仕事量を、大工が普通1日に要する所要人数見積もりと、完成までの日数をも示した。
[表] *西山貞孝氏による
樋は大工1人で1日、水車小屋は大工5人で26日、約1か月、長屋が1番長くかかって、77日2か月半、板蔵が大工3人で45日、1か月半で完成したことになる。(大工にはそれぞれ人夫が伴う)樋は1日で、水車小屋は、及び板蔵は1か月で完成したが、一番長くかかった長屋が2か月半かかっているので、総体として、約20人の大工で、2か月半後完成と見るのが穏当であろう。
従って、「樋」は、用材の切組が、万延元年11月か翌年の文久元年3,4月のいずれにしても箱館で行われ現場に輸送し、4月には完成したと推定される。「他」が遅れて、箱館切組、輸送3月として、着工を4,5,6月の3か月と見て、同年6月、諸工事の遅れを見ても、文久元年(1861)7月には完成と推定される。「高炉」は大工延人数5人であるから、完成後の単なる補理(修理)程度のもので、「役宅・長屋2棟」は既存のまま。新設されたのは「水車場小屋・通水樋・長屋3棟(棟続き)・板蔵1棟」ということになる。
尚、「付属建物」として、その場所に相当する基礎石を発掘した結果、「銑出場」があったと思われるが、庄兵衛の請負ではなく、史料がないので分明ではないが(庄兵衛請負の場合一括請負のはずであるから)その建築は、安政5年(1858)1月以降、文久3年(1863)以前のものと思われる。
「高炉」について大橋と比較し考察を試みる。
古武井の「高炉」は、梶山米太郎らの安政4年(1857)9月8日の見分では「高五尺五間四方ニ土台石垣此程近々皆出来相成石垣上江枠取建煉瓦石をも近々組方仕候手続ニ而」とあり、文久2年(1862)6月7日見分のパンペリーは「高さ三十口尺」「深さ一丈、方七間の基礎の上に、高さ地上八間」(尻岸内沿革史)と述べているが、市立函館博物館が土台実測の結果「五間四方」で、梶山らの報告が正しいことが分かった。
大橋の高炉は、外部は花崗岩を持って造り内部は耐火煉瓦を用いた。送風原動は水力による鞴(ふいご)で、初めは丸桶であったが、後に函形の長方形に変更した(28)。清岡澄は、これを「其造式外面は石を畳み内面は耐火瓦之を層積し鉄槓(てっこう)(てこ)其外面を保有す、又内部は軟石を積んで外面に向かって水気を去る孔を穿つこと数十、踏鞴(とうび)(フイゴ)は水車の回転に任背、風を炉中に送り凡て人力を助く、其形層々として高きこと凡そ三十尺、実に装置に於いて奇観たり(29)」(鉄鉱山之記)と述べているが、第1高炉は、敷石1尺立石8尺8寸、計9尺8寸約1丈、その上に、高さ22尺の上部があり(30)、総計凡そ30尺(9メートル)となる訳である。
古武井の場合、敷石と立石の計5尺として、総体として約30尺(大橋と同じ)であるから、上部は約25尺あったと考えられる。尻形は、大橋では1番炉で4間に3間であり、古武井では5間四方で、大橋と古武井とでは、(規模として)大差のないものであった。ただ古武井の内面の耐火煉瓦積の胴張は木材を用いていた(小出箱館御用留)。又、水気を去る孔も、大橋同様あったと思われる。
安政5年(1858)1月、目賀田帯刀の「延叙歴検真図」の古武井の描炉では、大島高任の築造した第1高炉(釜石製鉄所七〇史、高炉第2図)の慶応末のものと比較して、いささかも遜色のないもので、高任の最初のもの(同上高炉第1図)よりも、高度のものであった。斐三郎の技倆に感服せざるを得ない。
吹子(鞴(ふいご))座は、大橋では大きな枠石を組並べた土台(31)の上に、円筒衡風装置(シリンダー・プラスト)を据えつけ、後に角形フイゴに代えている。なお、1番炉では9尺に7.6尺1棟であるが、古武井では4間に8間で、これより大規模である。大橋の1番炉の水車場は吹子(鞴(ふいご))座から西、7.7尺の地下にあり、巾5.8尺、東と西の両側は板で抑えてあったらしい。深さは7尺、水車が上掛式で据付けられ(近代鉄産業の成立95頁)、水車輪径、1丈5尺であった(釜石製鉄所70史12頁)。2番炉の上掛の水樋は約21尺、南方の台地から引いて、水は勾配22度半程で水車がかかり、水車の上を海老台という(装置が)、車径の3分の1を覆って、水を洩らさぬようにしている(南部家絵巻台15、近代鉄産業の成立95頁)。なお、この水車輪径は1丈6尺であった(釜石製鉄所七〇史12頁)。
古武井のは、吹子(鞴(ふいご))座を含む水車場小屋が32坪もあるから、勾配の部分から、水車小屋に入るようになり、外囲いもあったと思われる。水車輪径は、大橋と同様1丈5,6尺であったろう。
第2図 安政5年1月現在の熔鉱炉(延舒歴検真図)
大橋の1番炉の操業当初は、生産一昼夜40~50貫で、改良の結果1日500貫となった。送風は冷風で、燃料としては銑鉄屯当たり、3屯余りの木炭が使用された(釜石製鉄所七〇史11頁)。なお、完成までに7か月かかった(32)。古武井では、モデル・ケースの仮炉が成功していたので、安政4年(1857)末の完成を待って火入れを行う筈であったが、目賀田帯刀の「延叙歴検真図」で見る如く、溝、水車、フイゴ座はあるが、高炉から煙も見えず活気もなし、同6年「御本丸炎上ニ付差延置」(新撰北海道史、第5巻 1,379頁)休止であるから、安政5年(1858)1月以降、年末迄に火入れしたと考える。火入れしたから胴張の不備も分かって石に変更願いをした筈である。
次に、(古武井の)増設後の火入れである。その増築を見るに、間口4間、奥行8間、高さ1丈の水車小屋は、これを請負った長坂庄兵衛の「万延二辛酉正月、材木積、熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積書上」の「万延二辛酉」は文久元年(1861)に当たるので、前述の如く、4月着工年手6月に完成と推定され、すぐ火入れと考えられる。従って、火入れの時期は「文久元年(1861)六月以降」となる。然し、斐三郎の黒竜江出貿易が3月から8月迄であり、9月の火入れに間に合うように帰箱したとも思われるので、同年9月から再開されたとも推定される。また、その操業を中止したのは、翌2年6月7日、ウイリアム・ブレーク、ラファエル・パンペリーの両人が調査、その報文に、「2,300石旁(24~36貫(33))の鉄を鎔解した後は失敗に帰してしまった」(パンペリー著、英文『支那蒙古日本、地質学的調査』88頁 市立函館図書館蔵、筆者訳)とあるから、同年6月7日以前となる。であるから、操業期間は、文久元年(1861)7月または9月以降、翌2年(1862)6月7日以前、5月迄の期間となり、この間(1年乃至8か月間)樋に蓋板がないので冬期11月から3月間凍結して休止するとして5か月間短縮され、操業は正味7か月乃至4か月となる。
この考察によって、阿部たつを氏の言われる「万延元年(1860)二月以降」(道南郷土手帖)が「文久(1861)七月乃至九月以降」と大部短縮される訳である。ライマンは「其初年ニ於テ廃棄セシト云フ(34)」と述べているが文久元年度で終わったのか、同2年に亘ったか、いずれにせよ操業再開期間は数か月に絞られよう。阿部氏は再開と見ない。
製鉄生産量は、2,300(35)石旁(24~36貫(33))程度で終止符を打ったが、この銑鉄は所謂、ヅク以上の良質のものである。その失敗に帰した理由として、
①用水量と速度の不足(用水樋の狭小、勾配度の点、上掛式でなく下掛式水車だった点)。
②従って、パンペリーの云う如く、シリンダーブラストの起風力が弱い(36)。シリンダーブラスト即ち円筒衡風装置で、これで失敗した大橋では、大島高任が角形のタテフイゴを発明し、好成績を収め橋野でもそれを使用した。このフイゴは高炉1座につき2基ずつ備え、ピストンが上がる場合にも下がる場合にも送風が可能になっている(37)仕組みである。
③ブレーキの云う如く、原料の砂鉄が細微に過ぎ粘着力に乏しく、古武井の高炉では不適当である(38)。
④大日方順三の云う如く、原料の砂鉄はチタニウムが多過ぎる(39)。
⑤それが主因と思うが、高炉の構造が不完全であった。例えば栗本鋤雲・パンペリー及びアンチセルの云う如く、レンガの耐火性に欠けた点(40)。
⑥製錬技術が幼稚であったことも挙げられる。もし、万延元年(1860)2月の南部藩の鉄工、10人雇入方が成功していれば操業上の技術が向上し、或いは成功していたかもしれない。また、高炉の胴張が木材であったのも要因の一つか。
この砂鉄の欠点を補う為の試みもあった。村垣公務日記には「三平次男高橋靭負、鉄山見込有之、同所に参り居旅館エモ来ル」(安政4年3月21日)とある。これと関連して、丸谷勝氏の話「椴法華の金掘沢の鉄鉱も使ったのではないか、古老の話しだが、そこでは、葵の紋のついた幔幕を張り巡らし(鉄を)掘っていたそうだ」からも考えられる(41)。
然し、安政4年(1857)の仮炉の火入れ、翌5年(1856)の本炉の火入れによる高炉式砂製銑は、わが国で始めて試みられたことで、斐三郎の着眼の高邁なるに驚くのみである。
また、操業が失敗したとは言え、高炉が僅かでも製銑に使用されたことについて昭和39年(1964)11月、市立函館博物館員の発掘調査で「スラグの付着したレンガが検出されたことから、この高炉が少なくとも1回は使用されたとみてよい。しかし、強熱によって変質したレンガが意外に少ないことから、もう何度も使用したと考えられない(42)」と報告している。
尚、一二付言すれば、安政5年(1858)1(43)月視察し、同年11月に描いた目賀田帯刀の「延叙歴検真図」の描炉一連の施設は一応の完成を示している。また「尻岸内沿革史」に、「二百人の人夫を連日二ケ年間使役し、製鉄せしも…」の内容であるが、前述の稼働状況からみて、誇張に過ぎるし、製鉄は築設の誤りであろう。
次に高木幸雄氏は、「安政3年(1854)8月着工、安政5年(1856)5月完成」と述べていられる。その理由として、着工は「箱館六ケ場所之内金銀山鉄砂其外産物出所場所見分仕候趣申上候書付」の中「古武井領之内字武者台と唱候平場の場所に去辰八月中より御取掛相成り候熔鉱炉云々以下略」及び、辰7月に「蘭名ホーゲオーヘン取建候儀申上候書付」が、竹内、堀、村垣3奉行から出され8月に許可されている2点を挙げられている。また、完成年月の根拠は、手島季隆著「探箱録」に「安政五年(1858)四月十九日、暖日逮、起訪武田斐三郎(中略)斐曰、蝦夷地為幕邑新政治策、不遑枚挙、先謂大者、曰墾田、曰種稼、曰築砲埠、曰営砦亀田(中略)曰造熔鉄于鉄沙浜[浜至三里]尋将返(ママ)(反)射炉(以下略)(同年5月)五日、端午寒如冬、襲衣而囲炉、玉蟲報牘、今日四堀使為面唔、乃謁使君、々々(使君)曰聞二士前日赴前蝦、我亦巡前蝦、登江散(恵山)見硫煙、検金鉱坑、切未半也、鉄沙浜溶鉱炉己成別造反射竈、以熟鉄製器械(以下略)」の記録と、目賀田帯刀(守蔭)の「延叙歴検真図」の描炉から推したのである。これと、長坂文書の水車場等の見積もりの年代は、更に下がっていて矛盾するが、パンペリーも記している通り、火入れをした結果、シリンダーブラストの起風力が弱かった事から、掘割の傾斜、水車場の構造について後日手を加えたと思う。と言われている(45)。
高木氏が、安政3年着工したというのは、前述の如く玉虫義の「入北記」によるもので、反射炉のことと愚考(筆者)する。従って熔鉱炉の着工は「村垣公務日記」9月12日「当年手引ニ成」とある安政3年末より4年とする。
次に完成年月の根拠であるが、手島季隆の「探箱録」の引用の前項の「曰造熔鉄」以下は、安政5年(1858)5月5日、季隆が斐三郎にあった際、斐三郎が抱負計画を語ったのを、そのまま記述したもので、完成に全然関係がない。後項は完成と見られる記述である「鉄沙浜溶鉱炉己成」は一応認めるとして、「別造反射竈、以熟鉄製器械」は全くの虚構である。(斐三郎の言った前項と比較せよ)然らば、前言の「鉄沙浜溶鉱炉己成」の信憑性も稀薄とならざるを得ないのではないか。九分通りの工程と見て、季隆の表現オーヴァーをカバーし得ると思う。それに、これは季隆の検見ではなく、本炉担当堀奉行の抱負、説明を記述したままであるに於いておやである。季隆は4月25日、一ノ渡銅鉛山を検分、森、山腰(山越)迄行き、大野を通って28日に帰箱しに過ぎない。前述の斐三郎の抱負計画に更に輪を掛けて、堀は、季隆を煙に巻いた政治的口吻が、前後の記述を比較し感じられる。
さて以上は「探箱録」安政5年(1858)の季隆の記録としての記述であるが、同書中、5月3日訪うた菅野狷介(すげのけんすけ)(潔、白華)、更に5日、狷介より訪問され「過三更而帰った」のが「北游乗」によれば安政4年(1857)である。が、翌5年には堀奉行から「愛国微忠」の4字を贈られたといわれる狷介だが、戊午の獄に嫌疑を受け、捕らえられたので来箱の筈はない。4年4月18日は、堀と村垣の交替期日で、堀は5月巡回に出、8月江戸に帰ったので当時在箱しており、5年とすると竹内奉行の在箱中で堀はいないし、高木氏引用中の堀奉行の、「吾亦巡前蝦夷」は安政4年4月27日、菅野狷介、玉虫義(左太夫、拙斉)の随伴の検分を指し、季隆は当日、大野村に泊して参加できず。5月5日に至って、玉虫を通じて堀に謁したのである。4月28日には市川十郎を訪れているが、十郎は4年4月21日、目賀田らと一旦帰府(村垣公務日記)、5年1月18日、六カ場所より奥地へ、3月19日から3日後に帰府(同日記)しているから、安政5年とすれば会えぬ筈である。また、季隆は、4月21日に松浦武四郎を訪れているが、4年なら武四郎は存箱中、3月12日、4月25日、佐賀藩士、島団右エ門(義勇、後の開拓使判官)の訪問を受けている(横山健堂松浦武四郎71頁)。季隆は5月7日箱館開帆前日、この島に会っている(同上89頁)。
なお、安政5年(1858)4月21日には武四郎、厚岸場所巡察中であつた。
以上の理由によって、どうしても、季隆の来箱は安政4年(1857)であって、「探箱録」に安政5年(1858)とあるのは4年の誤りであると断定する。この誤りは、原文が和文であったのを松岡敏が漢訳し、細川春斉と沢村牛村の閲や転写により生じたのであろう。
故に、高木氏が安政5年(1858)として、本号を引用されたことは誤りである。
その後、松岡敏の草稿自筆本を市立函館図書館で発見し、これは安政4年となっており、季隆と下許実重の2名が来箱したのである。それによると「溶炉己成云々」は斐三郎の言となっている。惟うに、2士は報告に重みをつけるために、浄書では、堀のとしたのであろう。前述の2士「探箱録文中の曰聞二士」はこの両人を指す。
季隆が土佐藩(後の薩長土肥として倒幕の原動力になったことを想起せよ)の内命で、北辺警備、箱館奉行の施設内偵に来た点、彗眼なる堀が見抜かぬ筈はなく、政治的口吻となって、勢威を示すための誇張の表現もあったと思う。その席上、蝦夷地産の白紬(山丹物?)2着、貂(てん)皮1枚を贈り、その応接は慇勤を極めた。これは丁度、幕府巡見使に対するかっての、松前藩の応接を思わせるものがあり、本炉実地検分を敢えて作為を以て、堀が妨げたとさえ勘ぐられる。
次に、「延叙歴検真図」の描炉を見よう(第2図参照)。前述の如く、これは、大橋の慶応末年(1867)、第2回目に造った1番高炉に劣らぬ立派な高炉が描かれている。(斐三郎の独創力を見よ)シリングブラストを容れる水車場小屋と覚しきものも描かれており、高木氏が完成と断定し、後年これを「手直し」した程度と見られるのは無理もない。安政5年1月(村垣公務日記)現場のスケッチを、翌6年11月仕上げの間に、理想的補筆の部分もあり得るし、本格的な水車場小屋でなく粗末なもので、大橋、橋野の場合は上掛り水車であるが、古武井のは下掛り式と思うが(後の庄兵衛請負の樋見積から見て)それなら、水車はもっと低く描かれるべきで、これは仮掛の水車と覚しく、用水路も堀溝のままである。また、1月には村垣は在箱中なので、記事には現れて然るべきである。一応の完成と見たい。高木氏は5月完成と言われるが、5月迄に完成すれば宜しい。これらも火入れ失敗の原因ともなったろう。それを3年後の、文久元年(1861)に至って、庄兵衛が長屋3棟増設の外、本建築の水車場小屋と堀溝の樋、板蔵1棟を新設し全機構(第3図参照)を増設し、材木胴張をカバーして、再度の火入れの成功を期したのであろう。
要するに前述の、文久元年(1861)に熔鉱炉迄の人馬雇傭賃銀見積は高炉及び付帯工事と見、熔鉱炉(これは高炉を指すと思う)に大工の振当て等を見て、修理工程と見るし、それに、樋及び水車場等の見積書(第4・5節で詳述)を見ると、これは増設工事で、大工人足延べ1,000人余りを要する全くの付帯工事とも見えない増築である。火入れ失敗から、翌年末の斐三郎らの大橋高炉の見学や、翌々万延元年(1860)2月迄、南部の製錬職工の招聘依頼を必要としたのである。
第3図 古武井熔鉱炉推定平面図(文久元年)
高木氏の種々挙げられた論拠は薄弱だと思われる。とすれば、安政4年(1857)末、完成論として、文久元年(1861)再建論(これも失敗)とした方が理に叶う。
ここで反省されることは、完成の内容である。どこ迄の設備完了を持って完成と言えるか、筆者は、九分通りに一分を加えただけで、まだ、銑出小屋、鉄砂置場等を欠いている。これは庄兵衛以外が請負ったと見てのことであるが、史料がない以上推量の域を脱しない。比較論であって絶対論ではない。ただ言えることは、新史料によって比較しより確実性を増した程度の差である。筆者はそれが学問だと考え、高木説の補強をした。
斐三郎自身も、材木胴張でも当分吹上差支えなしと考えて、安政5年の火入れに踏み切ったと思う。つまり、この時は一応完成と見てのことである。試行錯誤によって、文久元年のより高い完成度を目指したと思う。
文久3年(1863)6月14日の暴風雨で、高炉大破・水車場小屋崩壊は、復興に莫大な御入用金と成功の見通しもないので、廃絶に帰したのである(小出箱館御用留)。明治4年10月視察したアンチセルが「麁粗(そそ)なる煉瓦石を以て建築し竈室にして、己に破頽し起風水車を設置したる木材等は、尽く廃折し、多年休業の状を証せり(46)」と述べている有様となった。
安政3年より8か年に亘る斐三郎の苦心も、二大工事の犠牲となり水泡に帰したと言うべきである。
因みに、長坂文書(写本筆者所蔵)は、長坂庄兵衛(1826~1894)の筆になる古文書である。庄兵衛については、昭和10年10月、北海道水産協会刊行の「北海道漁業志稿」 775~6頁及び「北海道史人名辞典」第3巻、141頁に収録されている漁業功労者で、北海道久遠郡大成村に遺族、4代目正氏が現存しており、昭和36年6月、筆者は森山俊英氏を通じて、之を借覧する機会を得、その中に「惟時文久元年歳次重光 作春二月上澣日」の年月日で「魯西亜土石役営方並、熔鉱炉土木役営方其外御入用御仕様書控」という長い題目の1書を見出した。熔鉱炉関係では次の3書を含んでいる。
①万延元年(1860) 熔鉱炉水車樋御入用積書上
②文久元年(1861) 一月熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積書上
③文久元年(1861) 二月熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋諸色御入用積書上
なお、水車場小屋内部は後述する如く、水車装置を容れるので、庄兵衛り諸色御入用積書上はなかった。
庄兵衛は、津軽下前村に文政9年(1826)出生、天保初め父と共に渡道、積丹、古宇地方で漁撈に従い、後箱館に来て土木請負となり、亀田役所(五稜郭)の役(安政5年2月完成)御蔵地、築島北面渡場石垣築立(同6年12月)、魯西亜コンセル館下通道普請(万延元年閏3月)、英吉利コンセル館地形・石垣(同年同月)、魯西亜コンセル館土石役落札(同5月)、英吉利コンセル館石段・井戸(同年5月)、築立地所板蔵(9月)、魯西亜病院増地石垣並地平均(文久元年4月)、亀田役所外囲・土塁の修覆並に新規普請(同年3月)、地蔵町の御蔵所の棚矢来・橋・揚場普請(同年10月)等を請負ったのであり(47)、地方では、安政5年、鈴鹿甚左門と私費を投じて太田山道及び狩場山道開鑿完成。文久元年には、臼別寄場普請請負人となり、10月完成、翌2年開場。同2年、奥尻島寄場出張所完成し開場した。(前出)寄場廃止後は、専ら漁業家として進出したのである。元治元年(1864)久遠場所平田内にて死亡、享年39歳、弟恒三郎相続し太田場所請負人となった。
因みに、長坂文書は昭和37年10月27日市立函館図書館に寄託された。
尚、第3節以下で引用する古文書はすべて見積書上であるから、このまま庄兵衛が請負実施したか否かの疑問も生ずるが、前記の場所の諸工事も見積書上通り完成しているので、当然彼が施工完了したと見てよい。
註
(1)新撰北海道史第2巻 780~1頁
(2)前島密鴻爪痕(大正9年4月刊)35頁・斐三郎・密、見学の年、大島高任は水戸藩より帰藩し大橋鉱山吟味役になっているから、斐三郎は 熔鉱炉反射炉について体験を聞いたであろう。(昭和13年7月刊、大島高任行実)
(3)拙稿 蝦夷地寄場考(法政史研究13輯 昭和38年3月)
拙稿 松前蝦夷地におけるより場漁業の研究(昭和37年7月)
拙稿 北海道における受刑者教育労働史(昭和37年十月)
(4)玉虫義入北記9 市立函館図書館本は2巻の抄本であるが斐三郎談話筆記の小文掲載
(5)村垣公務日記(幕末外国関係文書付録之1−4所収)
(6)森・板橋 近代鉄産業の成立136頁
(7)佐久間貞介 反射炉製造秘記(日本科学古典全集 第13巻産業技術編)
(8)新撰北海道史第2巻624頁651頁
(9)手島季隆の和文を松岡敏が漢訳し、細川春斉・沢村牛山の閲を経たもの。美文である。(市立函館図書館蔵)
(10)拙稿 武田斐三郎の教育(函館教育研究第1輯)
(11)拙稿 箱館奉行の黒竜江出貿易の社会経済史的意義(社会経済史学8の12)
拙稿 武田斐三郎の黒竜江記事と黒竜江誌(北海道経済史研究 第4輯)
(12)岡田健藏 函館功労者小伝
(13)高木幸雄 古武井熔鉱炉に関する研究、阿部たつを 道南郷土夜話98頁
(14)佐久間貞介 反射炉製造秘記(日本科学古典全集 第13巻150~1頁)
(15)斐三郎 アルコールヘルニス法(蝦夷入北記)安政3年3月22 夜知岸内武田斐識と有
(16)浜田昌幸 昭和41年1月1日報告
(17)(20)(25)長坂庄兵衛 熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋諸色御入用積書上
(18)同右 亀田地所支配調役並出役其他役宅御普請出来形仕様書
(19)(23)(24)同右 箱館築立地所板蔵仕様御入用積書上
(21)(26)(27)同右 臼別寄場御普請御入用積材木諸色直付
(23)同右 臼別寄場御普請1坪当御入用書上
(28)釜石製鉄所70年史11頁
(29)森・板橋 近代鉄産業の成立 釜石製鉄所前史77頁
(30)釜石製鉄所70年史 9頁の羽口を示す図より
(31)森・板橋 前掲書103頁
(32)森・板橋 前掲書 79頁
(33)パンペリーは『Weightと』のみで単位を示していないので、佐藤真氏は『貫』と訳したが、高さが『口尺』で出ているので当然『石旁』である。
(34)来曼氏地質測量初期報文摘要(新撰北海道史第6巻131頁)
(35)(36)(40)パンペリー著 筆者訳 支那蒙古日本の地質学的調査80頁年表参照)
(37)大島新蔵編 大島高任行実278頁・森・板橋 前掲書111頁
(38)地質兼鉱山学師ウイリアム・ブレーキ報文摘要(新撰北海道史第6巻44頁)年表参照
(39)大日方順三 農商省鉱物調査報告12号 大正元年年表参照
(40)栗本鋤雲 箱函館叢記(匏庵遺稿361頁)年表参照
(40)(46)アンチセル氏製鉄の儀建言写(明治5・3開拓使日誌第7号 阿部たつを 函館郷土手帖113頁)
(41)昭和の初め、古老佐々木某(80歳の老婆)の話(玉谷勝二・1報告)
(42)竹内・吉崎・浜田 尻岸内町古武井熔鉱炉及び川上レンガ製造跡略報(恵山地方史研究会資料通信9)
(43)新撰北海道史第2巻789頁によれば、目賀田帯刀は安政3,4年巡察とあるが、これは誤りで、函館郷土史料目録(岡田健蔵著)並びに北海道史人名辞典第4巻159頁には、安政3年4月より5年までとあるし、村垣公務日記安政5年1月18日の項に「市川十郎六ケ場所より出立届」とあるにより、1月に描炉と断定する。
(44)高木幸雄 古武井熔鉱炉に関する研究(道科学研究報告第4集)
(45)同上 昭和41年1月6日回答
(47)拙稿 箱館に於ける長坂庄兵衛の事業(函館図書館・函館郷土研究会講演集第3集)
第3節 建築用材の輸送(高炉の完成)
水車場小屋樋、長屋、板蔵等、建築に使用する用材の輸送は、切り組みはすべて箱館で行い、尻岸内又は古武井辺迄海上輸送を為した。運賃は100石につき15両見当であった。そこから陸路、熔鉱炉まで人馬を雇って陸送した。(熔鉱炉水車場樋御入用積書上)従って熔鉱炉の場合も、土台の壁等に要する煉瓦は煉瓦製造上から運ぶとして、残りの用材については、前述同様の方法に拠ったと考えられる。
文久元年(1861)の諸工事は、第2節で述べた如く、現場では長くて2か月半、他は1か月以内であったと見てよいので、箱館での切り組み及び輸送期間を同年3月、約1か月以内と見て、4,5,6の3か月となるので、文久元年(1861)6月末には完成。切り組及び輸送を4月とすれば、半月乃至1か月は遅れる事になり、7月末迄には完成しているはずである。
第4節 水車場小屋
先ず水車場小屋の沿革を見るに、これは安政4年に始まる。即ち同年5月21日、村垣淡路守に随伴して検分の、箱館奉行梶山米太郎外1名は「水車等道具付属之品々も出来取解小屋之内積入有之候(1)」とある如く小屋はあったが、それは物置同然で、その中に水車や水車小屋の道具付属品を荷物を解いた儘に積み込んであった。この道具付属には後の水車小屋に吹子座付けの円筒衡風装置も含んでいたと考える。それが、同年9月5日箱館出立、同日に彼等検分の折りにも「水車等道具付属之品小屋ニ取解ニ積入有之(2)」と、以前の儘の状態であった事が分かる。彼等と9月3日箱館出立見回りの斐三郎、勝之助と落ち合っている。それが目賀田帯刀が検分の、翌安政5年1月頃には、在来の水車が掛けられ、天井のない粗末な水車場ができていた処を見る(3)と、9月以降に工事が為されたことになる。かく緩慢であるのは高炉建設に主力を注ぎ、それに使用する煉瓦の生産に全力を上げており、その具合を見て、この工事(水車場)に進まんとするもので、この建設は、粗末な水車場と察せられ、失敗から、本格的な吹子座(シリンダー・プラスト)を容れる本水車小屋の建設には4か月の歳月を経て、文久元年に設計され、実施されるのを待たねばならなかったと思われる。
文久元年(1861)幕府の招聘に応じて(4)、蝦夷地鉱山開発のために箱館に赴任したアメリカの地質学者、ウイリアム・ブレーク(William Blake)とラファエル・パンペリー(Raphael Pumpelly)は、翌2年(1862)6月7日、古武井に視察に来たパンペリーは、「武田氏は優秀な水車によって回転される円筒衡風装置の付いた、極めて見事な型によって作られた、高さ30口尺ある熔鉱炉を建設した(5)」と言っているが、この水車小屋は長坂庄兵衛の請負ったものである。
その位置は、熔鉱炉のあった武佐の台で(村垣公務日記による)、尻岸内沿革史には武佐の沢とあり、100歩の処を小川が流れている。村垣公務日記に「川有、十丁上ヨリ分、水車ニ掛カル積ナリ」とある。武佐の沢の小川を利用する処に水車小屋はあった。現在の下崖の処と推定される(6)。
鉄製砲を作るには反射炉に拠らねばならない。古武井の場合は、まず、その前の段階である砂鉄を熔解して精鉄を作ること、熔鉱炉の建設にある。そのために起風水車をおいたのであり、その水路の形跡も残っている。
なお、安政4年、熔鉱炉建設状況等を視察した、菅野潔(白華)は、「北游乗」に「引湍水十町許可施水飜車以扇炉火」と設計計画を示し、起風水車であることを述べている。
文久2年(熔鉱炉の施設)廃止から9か年後の、明治4年10月、アンチセルが調査にきた頃は「起風水車ヲ設置史タル木材等箱ト尽ク廃折シ」(明治5年3月刊「開拓使日誌」)ていた。
次に、長坂庄兵衛が文久元年1月提出した水車場の見積書「熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積書上」(長坂文書)によれば、間口4間、行間8間、32坪、高さ1丈の建物1か所で、その入用木材は、次の如くであった。
水車場(小屋)一ケ処 間口四間、行間八間 但し一丈建
此御入用材木
一、土台 二間六寸角 十二本
一、柱 二間五寸角 六本
一、柱 一間五寸角 十八本
一、粱 四間 幅尺二三寸 厚七寸 三本
一、粱挾 二間七寸角 十二本
一、塚柱 二間五寸角 三本
一、入口指物 二間 幅尺九寸 厚七寸 一本
一、同土敷居 二間七寸角 一本
一、桁 二間五寸角 十八本
一、棟木 二間六寸角 四本
屋根廻り
一、垂木 二間七寸角 四本
但堅横共三ツ割二寸三分角三十六本
一、同 二間に尺ノ七寸角 四本
但大同断貫数三十六本
一、貫 二間八寸角 五本
但二ツ挽厚一寸幅四寸数八十枚
一、屋根板 六尺ノ尺角 十五本
但二十枚割五分懸板数三百枚
一、自伏打付 二間六寸角 四本
但三ツ二挽三分懸十二枚二挽割木舞百四十四枚
一、目返 二間六寸角 二本
但四枚割厚三寸五分幅六寸板数八枚
一、破風 二間八寸角 一本
但五枚割厚一寸六分幅八寸板数五枚
一、猿頭 七尺ノ五寸角 二本
但六枚割三ツ切板数五十四枚 〆百十五本
七尺ノ五寸角 此石八石五升 四十六本
同 六寸角 此石二石一升八合 八本
同 幅八寸 厚六寸 此石十六石一斗六合 十五本
三石八分入六尺角 此石七十五石 百廿五本
九尺ノ五寸角 此石一石一斗七升 五本
一丈ノ五寸角 此石廿九石五斗 百十本
十三丈ノ二間ノ五寸角 此石百十石八斗 三百四十四本
二間六寸角 此石百五十二石五斗六升八合 三百二十六本
同 七寸角 此石二十三石六斗六升九合 三十七本
同 八寸角 此石九十一石五斗二升 百九本
同 幅九寸 厚七寸 此石九斗一升 一本
同 幅尺二寸 厚六寸 此石十二石八斗七合 十五本
十四丈 二間一尺ノ八寸角 此石八斗九升六合 一本
十五丈 二間二尺ノ七寸角 此石十五石四斗三升五合 二十一本
十六丈 二間半ノ 幅尺一寸 厚八寸 此石一石四斗八合 一本
十九丈 三間ノ九寸角 此石五石一斗五升六合 四本
二十一丈 三間半 幅一尺一寸 厚八寸 此石一石八斗四升八合 一本
二十五丈 四間 幅尺二寸 厚七寸 此石五斗 五本
千百八十三本 此石五百四十九石三斗五升
水車場入用材見積は右記の如く、長屋及び板蔵の用材見積と一括して提出された。
「右者熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積前書之通ニ御座候 以上
万延二(文久元)辛酉年正月 長坂庄兵衛 印
御掛中様
この用材の549石3斗5升という量目は、他の水車場の樋、長屋、板蔵及び水車場小屋の合計使用の材木、560石9斗8升1ごうと略々同数に当たるもので、如何に宏大で堅牢であったかが想像し得る。
なお、長坂文書中には、入用材及び諸色の見積のみで、吹子台やそれに載せる内部設備のシリンダー・ブラスト(円筒衡風装置)の見積がないのは遺憾である。従って、従前のものを使用したかもしれない。然し部屋の広さで、シリンダー・ブラストの大きさも略々推定し得よう。昭和39年の発掘調査により、水車場小屋の坪数に略々相当する礎石が確認された(8)。
水車は送風のための吹子を動かす動力になったので、水車場小屋に隣接設備された。
次に、入用積諸色は次の如くである。
一、水車場御小屋一ケ処 但四間八間
此御入用積諸色
一、十貫文 大戸二枚
一、四貫百文 並五寸釘四把
一、三貫五百文 三寸釘拾把
一、二貫二百五十文 大板釘十五把
一、四貫文 小板釘四十把
一、大工百廿八人 一坪四人積 代八十三貫二百文
一、手付人足四十五人 一人五百五十文 代二十二貫五百文
一、五貫七百六十文 屋根葺人足
一坪百八十文
一回石六枠半
屋根面一枠ニ而六坪
敷ならし
大敷石二十四
なお、長坂文書の長屋、板蔵、水車場小屋の見積書は一綴りになっており、末尾は次の如くである。
「右者熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋御入用材木其外諸色御入用積前書之通ニ御座候以上」 酉二月
長 坂 庄兵衛
御掛中様
今これを見積書に因って、時価で見積もると、坪2万円に当たり総計63万4千300円を要したことになる念の入った建築で、小屋という名にふさわしからぬものであった。
その内訳は次の如くである(9)。
数量 単価(円) 合計(円)
建具 大戸 2枚 3,500 7,000
金物 五寸釘4把 16.5kg 80 1,320
三寸釘10把 13kg 85 1,105
大板釘(1.8寸位)15 8.5kg 90 765
小板釘(1.2寸位)40 15kg 100 1,500
手間 大工坪4人 128人 1,600 204,800
(現在なら21人 64人 1,600 102,400)
人足 45人 1,000 45,000
屋根掛人足 10人 1,000 10,000
石 一右石(屋根に上げたと思われる)
大敷石 6寸×6寸×3尺 24個 150 3,600
材木 土台 12個 2,600 31,200
柱 5寸×5寸×12尺 6本 1,800 10,800
同 18本 1,500 27,000
粱 7寸×13寸×24尺 3本 20,000 60,000
粱挾 7寸×7寸×12尺 12本 3,500 42,000
塚柱 5寸×5寸×12尺 3本 1,800 5,400
入口指物 7寸×9寸×12尺 1本 4,500 4,500
同敷居 7寸×7寸×12尺 1本 3,500 3,500
桁 5寸×5寸×12尺 18本 1,800 32,400
棟木 6寸×6寸×12尺 4本 2,600 10,400
垂木 2寸×320×2寸×12尺
36本 380 13,680
同 2寸×320×2寸3分×14尺
36本 480 17,280
貫 1寸×4寸×12尺 80本 290 23,200
屋根板 5分×1尺×6尺 50坪 1,100 55,000
自伏打付 5分×2寸×12尺
144枚 70 10,080
目返 1寸5分×6寸×12尺 8本 650 5,200
破風 1寸6分×8寸×12尺 5本 920 4,600
猿頭(目板) 8分×5寸×2尺3寸
54本 55 2,970
(合計) *時価 634,300円
母屋(もや)用材24本不足しているので、正確な復元図は出来難いので省略する。屋根には一面石を置いたと思われる。
稼働延べ人数は、大工128人、手付人足45人であるから、業者の常識から見て大工5人宛てとし、26日間、即ち約1か月の工程で完成したと推定される(10)。故に、雪解期の文久元年(1861)4月に着工したとして、5月一杯には完成したと思われる。これは、切り組は箱館に於いて3月中に行われたとしたので、切り組が4月であれば半月乃至1月の遅れとなる。なお、昭和39年の市立函館博物館の発掘調査では、高炉の基壇、湯口、フイゴ座の一部が確認されただけで「フイゴ座は、水行と並行して作られていた低いプラットフォームの上に設けられたと思われる。このフイゴの動力として水路の構造から水車が用いられたことは明らかである。だが、この水車がどのようなものであったのか−上かけか下かけか−という点については解明できなかった」と報告されている(11)。
註
(1)箱館領六ケ場所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見分罷越候趣申上候書付
(2)の(1)箱館領六ケ場所之内金銀山其外産物出所場所見分仕候申上候書付
(2)の(2)村垣公務日記
(3)延舒歴検真図1 接東海岸 南海岸 従箱館至ヲシャマンベ
(4)阿部たつを氏は両人の来朝を、文久2年としている(函館郷土手帖112頁)が、文久元年8月桑港出発、2年2月横浜着。従って、新撰北海道史年表及び、第2巻779頁に文久元年末とあるは誤り。
(5)パンペリー著「支那蒙古日本地質学的調査」88頁英文、筆者訳、別に佐藤真抄訳あり。重大なる誤訳あり注意を要す。年表参照
(6)浜田昌幸、昭和40年12月27日報告
(7)この見積書付けの裏表紙は次の如くである。
箱館在留
長坂策之助
利邦楚
全
(8)浜田昌幸、昭和41年1月12日報告
(9)函館大工、函館市東雲町20番地6号 西山貞孝(昭和41年1月10日)水車場小屋見積報告書
(10)前項西山貞孝の推定、以下の樋、長屋、板蔵の所要大工、実数も氏の推定による。
(11)武内・吉崎・浜田、古武井熔鉱炉及び川上レンガ製造跡略報(恵山地方史研究会資料通信9)
第5節 樋
用水取入口(水路入口)から水車場に通ずる水路(第1図参照)については、安政4年(1857)3月21日、箱館奉行所詰梶山米太郎らの見分けによれば「ムサ川を堀割水車を以堰上ケ鉄砂製錬之見込之由堀割場所之義ハ地杭打立有出候得共いまだ取掛不申」とあるので、ムサ川から凡そ10町の堀割を作って水路としたものであるが、この時はまだ着工しておらず、同年9月9日の同じ報告に「水路にも堀割候趣」とあったので、この頃は堀溝も出来たと思われる。(第2図参照)これを文久元年に至って、深さ2尺、横3尺(蓋板なし)2間樋を建設したのである。
その見積内訳は次の長坂文書に見ることができる。
申(万延元庚申 1860) 十月 ひかえ
熔鉱炉水車場樋御入用積書上
長 坂 庄兵衛 印
覚
一、樋廻長凡拾丁程 此樋数長二間樋二而
三百挺 深二尺 内巾三尺 此御入用積左二
一、据二間の尺四十五寸八角より七寸角まで
挽立厚仕上一寸板二而
此材木石目 凡二石八升 代四貫二百四十三文
挽賃 二貫六百十文
一、桟木据一丈五寸角一本 代四百二十五文
但十文字ニ挽割四分板六本致片面四本折 挽賃 百三十文
一、四寸釘 百十本 平均一挺分 代三貫八百五十文
一、大工二人半 代一貫三百七十五文
一、手付人足一人 代四百五十文
〆拾三貫八十三文
此金一両三分ト永百七十三文九分
一、運送
但御当地ニ而切込出来候御入用積ニ付シリキシナイ コブイ辺迄運送之儀ハ百石ニ付金拾五両位見込に御座候得共切込出来之上船相雇次第運送人馬高奉申上候積リ同所より熔鉱炉迄人馬相雇賃金積書奉差上候積リ
右之通御入用ニ而被仰付被下置候得者聯簾末無御座候様御保方丈夫ニ出 来可仕候 巳上
申十月 長 坂 庄兵衛 印
御掛中様
樋を見積もったのは万延元年(1860)10月であるから、庄兵衛は他の長屋、板蔵、水車場小屋よりも早く着工し、翌年2月頃迄には完成したとも取れる。切り組は箱館でしてきたので、現場では延人数、大工2.5人、手付人足1人で間に合い、1日でもできる工程である。ただ、冬季に入り、着工困難とのこともあり、樋には蓋板が施されていないので、越冬凍結を慮(はか)って、翌文久元年(1861)の融雪期4月中には、他の諸工事よりも早く完成したと思われる。
樋の長さは約10町であるから、用水取入口と水車場小屋との距離は約10町というわけで、前述の「村垣公務日記」の「十丁上より分、水車ニ掛ル積リ」及び前述の菅野潔の北游乗に「引湍水十町許」と符合する。
第6節 長屋
安政5年(1858)1月迄には熔鉱炉に付属する役宅1棟、熔鉱炉建設の職人、大工を収容する長屋2棟(棟続き)を完成した。(第2図参照)長屋は、間口5間奥行10間、坪数50坪、これが3棟、長坂庄兵衛の請負で増設された。
此所では、溶鉱炉で製鉄作業労働者全員を収容することが出来得る計画であった。これだけあれば100人程度の収容は容易であったと考えられる。
建築見積書は、文久元年正月の諸用材の分と、同年2月の諸色の分と2口になっているが、何としても建築用材の準備が第一になる訳で、1か月のずれがあった訳であろう。
延人数大工770人、手付人足114人で、業者常識上、大工10人宛として、77日即ち、2か月半を要しているので、1番長く掛かっている。12月箱館で切組、4月着工として、同年6月半ばまでに完成したと推定される。
見積書上は、諸用材分は長屋の外、板蔵、水車場小屋の分も含めて一括した、次貢の表紙が付してある。
なお、万延2年は文久元年にあたる。
万延二辛酉正月
材木積
熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積書上
長 坂 庄兵衛 印
次に、長屋見積の内訳を示せば次ぎの如くである。
覚
一、御長屋 間口五間 奥行十間 但一丈建三棟
此御入用材木
一、土台 二間六寸角 七二本
一、柱 二間五寸角 八七本
一、側柱 一丈五寸角 八六本
一、梁 二間六寸角 一一七本
一、同 四間 巾尺二寸 厚七寸 二本
一、梁挾 二間六寸 三〇本
一、上り口 土敷居 二間八寸角 一三本
一、根太 二間六寸角 六五本
一、指物 二間 一五本
一、入口まくさ 七尺 一五本
一、桁 二間五寸角 一〇五本
一、貫 二間八寸角 二三本
但二挽八枚割両口ハ除キ 四寸厚一寸 貫板三百六十枚
一、敷鴨居 二間五寸角 但二ツ二挽割 七十八枚 三九本
一、塚柱 二間五寸角 一五本
一、目返 二間六寸角 但五枚割 幅六寸厚一寸二分 板数三十枚 六本
一、破風 二間八寸角 但六枚割 幅八寸厚一寸三分 板数十八枚 三本
一、猿頭 七尺ノ五寸角 七本
但六枚割 三ツ切 幅五寸厚八分 板数百廿枚
屋根廻り
一、垂木 二間七寸角 二〇本
但竪積凡三ツ割九本二挽立二寸三分角百八十本
一、同 二間二尺ノ七寸角 一七本
但竪横共三ツ割二寸三分位ノ角十本ニ分立百五十本
一、小根太椴柱共二間五寸角 四五本
但十文字ニ分割二寸五分挽角 百八十本
一、檜皮打付木舞二間六寸角 五本 五本
但三ツ挽十枚割幅二寸厚六分木舞数 百五十本
一、炉縁木 一尺ノ六寸角 但十文字ニ挽割荒取三寸角 四十八本 一二本
一、炉板 六尺ノ角 但十三枚割七分こと板数 九十枚ニ而十五間 七本
一、窓縁 六尺ノ角 但柱数割厚三寸こと板数 四十五枚 五本
一、窓骨 六尺ノ八寸角 但八枚割板 四十八枚 六本
一、屋根板 六尺ノ角尺 六〇本
但五分こと廿枚取板数 千二百枚ニ而二百間
〆 九百廿七本
外に内割板五分こと二百七十間
五尺の尺角なみ板 五本
次に諸色の見積も、板蔵、水車場小屋の分一括して、次の表紙を付している。
酉は文久辛酉(1861)である。
酉 二月
諸色積熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋諸色御入用積書上
長 坂 庄兵衛
長屋3棟の諸色内訳の見積は次の如くである。
覚
一、御長屋三棟 間口四間 此坪百五十坪願出
奥行拾間 尺 寸入テ屋根面百十三二間坪五尺
此御入用諸色
一、四十二貫文 但一枚七百五十文 戸五十六枚
一、八十三貫文二百文 但一枚八百文 障子百四枚
一、百七十貫百七十文 但十畳ニ而金一両三分之見込 畳百四十三畳
一、百九十貫百七十五文 但一把一〆文 椛皮大把百七十三把二分五厘
一坪ニ付一把積
一、三十九貫文 但一坪二百六十文 檜皮百五十坪
一、十九貫八百文 但一把一〆百文 並五寸釘十八把
一、二貫七百五十文 但一把三百五十文 三寸釘六十五把
一、九貫七百五十文 但一把百五十文 大板釘六十五把
一、三十四貫八百文 但一把百文 小板釘三百四十把
一、凡四〆五百文(朱) 但一ツ廿五文積見込(朱) 大敷石百八十
一、五十一〆文(朱) 但一枠一分見込(朱) 一面石三十枠
一枠ニ而屋根面六坪江敷ならし
一、大工七百五十人 代四百八十七貫五百文
一坪五人積ニ而 一人六百五十文
一、同二十人 代十三貫文
大工十五人之内熔鉱炉ニ罷出大工凡五人引残十人往返
御手当奉願候
一、大工手付人足百十四人 代六十八〆二百文
大工付五人ニ而御長屋一棟切組凡六十日手付人足
一日に人ツ外ニ人足往返共
一、三十四貫六百五十文 屋根葦並石上ケ人足代屋根 一坪ニ付キ二百文
一、九貫九百分 御長屋三棟分地形突堅メ人足代 十八人分
大敷石面之代之外
〆 千二百十五貫二百九十九文
以上に拠って、2か月かかる大規模のものであったことが分かろう。
第7節 板 蔵
板蔵は、製造された銑鉄を保管する木造倉庫である。規格は、間口3間、行間5間、15坪高さ1丈の建物1棟であり、堅牢な建築物であった。片流れ屋根の様式と思われる。
これも、庄兵衛の見積りで彼が請負ったのであるが、文久元年3月以降の着工であり、延人数は、大工135人、人足20人で、業者常識上、大工3人宛として、45日即ち1か月半の工程であるから、3月箱館で切組、融雪期の4月に着工としても、同年5月半ばには完成したと思われる。
見積書上は前述の如く、諸用材文(文久元年正月見積書上)と諸色分(同2月見積)とに分けられて、内容が示されているので、長坂文書により先ず板蔵の用材分を次に示そう。
一、板蔵 一ケ所 間口三間 行間五間 但一丈建
此御入用材木
一、土台 二間七寸角 八本
一、柱 二間五寸角 四本
一、側柱 一丈五寸角 一二本
一、棟木 三間半 幅尺一寸厚八寸 一本
一、同 二間半 幅尺一寸厚八寸 一本
一、大黒柱 二間 一尺ノ八寸角 一本
一、登り木 二間五寸角 二六本
一、入口指物並敷居 二間ノ八寸角 二本
一、股糸 一丈五寸角 二本
一、桁 二間五寸角 一〇本
一、根太 三間九寸角 四本
一、小根太 七尺ノ五寸角 但二ツ割三十六本 一八本
一、風返 二間六寸角 但四枚割 一本
一、破風 二間八寸角 但五枚ニ挽割 一本
一、猿頭 九尺ノ五寸角 但六ツ割四分切 二十四枚 一本
一、落板 六尺ノ角尺 但八枚割寸二分こと板数二百枚 二五本
一、屋根板 六尺ノ角尺 但五分こと廿枚割板百廿枚ニ而二十間 六本
一、敷板 二間八寸角 但六枚割厚寸三分板数五十四枚ニ而十八間四分 九本
〆 百十四本
次に、板蔵の諸色の内訳を示せば次の如くである。
一、板蔵 一ケ所 但十五坪願出 十尺五寸入テ
屋根面十九坪二分五厘
此御入用積諸色
一、五貫文 大戸一枚
一、六貫文 錠鍵とも十二12
一、三〆五百文 屋根板打付三寸釘十把
一、三貫八百五十文 敷板打付三寸釘十一把
一、十九貫二百五十文 椛皮十九把二分五厘
一、四百十五文(朱) 大敷石十七
一、十五文見込(朱)
一、五〆四十文(朱) 一枠十文(朱) 一面石三枠二十
一、大工百三十五人 一坪九人積
代八十七〆七百五十文 一人六百五十文
一、大工手付人足二十人 大工切組凡十日人足一日
代十一貫文 二人宛
一、三貫八百五十文 一坪二百文積候 屋根葺人足前同断
一、人足六人 代三貫三重文 地形突堅〆入用
〆九百十三貫五百文
〆千三百六十七貫九十五文
此金二百十両三分ト永四百十三文四分
金高二百三十七両一分ト永四百十三文四分
外ニ大敷一面石代九両ト永二十丈三分(朱)
惣金高二百四十九両ト永六十七文七分(朱)
(付箋)
一、金二十三両
細工小屋取建繩莚具代入用其外 後掃除人足代諸色十二
一、金十二両三分
別書諸色凡百五十石目運賃
但百石目八両ニ二之見込
なお、樋、水車場小屋、長屋、及び板蔵を合わせての用材は560石9斗8升1合であった。即ち次の如くである。
〆 千五十本
六尺ノ八寸角 此石二石三分四厘 六斗 六本
八尺二寸五分角 六石八斗 一石七升五合 三本
七尺ノ五寸角 四石三斗七升五合 二斗五升二合 五本
七尺ノ六寸角 三石二升四合 三斗三升六合 一二本
七尺ノ六寸角幅八寸厚六寸 此石五石四升 二斗二升五合 一五本
九尺ノ五寸角 二斗五升 一本
一丈ノ五寸角 三十一石二斗五升 十三丈 三斗二升五合 一二本
二間ノ五寸角 三〇七本
九十九石十七升九合 此石四石五斗五升 四斗六升二合 一四本
二間ノ五寸角 二九六本
二間ノ七寸角 二八本
二間ノ八寸角 一三〇本
二間ノ幅尺一寸 厚六寸 一五本
二間尺ノ八寸角 十五丈 十三丈五合 一本
三間二升ノ七寸角 一七本
二間半 幅尺一寸 厚八寸 此石一石四升八合 二十二丈 一本
一、三間半 幅尺一寸 厚八寸 此石一石八斗四升八合 一本
二十五丈 二石一斗
一、四間 幅一尺二寸 厚七寸 四石二斗 二本
一、〆百八十石
五百六十石九斗八升一合
第8節 結論
以上、7節に亘って、新史料長坂文書を中心として、松前地箱館六カ場所古武井熔鉱炉に就いて、その築造の経緯、即ち箱館奉行の女那川仮熔鉱炉の使用を前提とする反射炉の着手(安政3年・1856)予算と睨み合わせて、それを中止し、安政3年後半古武井熔鉱炉に着工(4年から本格的)安政5年(1858)1月18日迄には、川上レンガ製造所のレンガで築造した高炉完成と、役宅1棟、長屋2棟、水路の堀溝、水車場小屋の竣工、同5年中火入、これは失敗。更に文久元年(1861)7月末には、高炉の手直し、水路の樋、水車場小屋、長屋3棟、板蔵、と一連の熔鉱炉再建を終えたこと。及び指導者武田斐三郎の8月、黒竜江で貿易よりの帰箱を待って、9月に再び火入れ、2,300磅の製鉄に成功したことを詳述したのである。安政3年(1856)より文久3年(1863)に至る8か年の「炉」の運命は、開港に伴う箱館の国際的環境と箱館奉行の行政政策と、財源を大局的に考察しなければ解決しない問題である。失敗の原因たる、高炉の胴張を石垣にするよう幕府に訴えても、二大工事後に職人を廻すから待てということで、朽ちるに委したことに依る。
この事業は失敗したが、箱館奉行には、竹内保徳(野州)、堀利煕、村垣範正(淡路守)、津田正路ら幕府一流の人物が配置され、江戸幕府棹尾を飾る、松前蝦夷地の統治と箱館の守備・発展を期し、五稜郭、弁天砲台の二大工事、西蝦夷地久遠場所、臼別寄場、古武井熔鉱炉、箱館丸・亀田丸、銭座設立等の築造計画を実施したのである。
古い日本の製鉄法が、赤粘土の炉と木炭と吹子の組み合わせで行ってきたのを、高温度に耐える炉と、燃料を一定温度に燃え続けさせるための送風機(吹子)と、それによって高温を発する燃料の発明こそは、金属の精錬を左右する三大要素で、この組み合わせの転換をしたのは製錬技術史上画期的なものであった。
顧みれば、安政元年(1854)12月、竹内下野守、堀織部正は「箱館表御台場其外見之趣台意取調奉伺候書付」の中に「御筒之儀も是亦一時御鋳造相成兼可申候得共、蝦夷地海岸鉄砂多く候ニ付、地理相見立、松前伊豆守申談候上、熔鉱炉並反射炉相製し、鉄筒を鋳候ハバ、御費少ニ出来可仕哉ニ奉存候(1)」と述べている如く、砂鉄を持って大規模な製鉄業を行わんという計画を持ち、同月着任。この築造係に武田斐三郎を任命、彼の計画実施により、反射炉築造については(条件整わず)手が伸びなかったが、熔鉱炉を安政4年(1857)末、完成させたのである。結果として失敗に帰したことは遺憾至極であるが、後に、これが王子の反射炉成功の基礎となった。
斐三郎が、フランス人の指導(2)と一蘭書を手引きとして、高度の技術を以て完成したことは絶賛に値するものである。パンペリー(Pumpelly)は「The incident, however, is an illustration of Japanese entreprise」とは言え、この事業は日本人の進取の気性を表明したものである。と、激賞しているのも肯けるのである。
昭和8年よりの長崎俵物の研究は別にして、筆者、武田斐三郎の黒竜江で貿易の研究を発表したのが昭和14年3月であるから、もう27年の昔になる。爾来、武田斐三郎の研究、臼別寄場の研究を進め、本論文では古武井熔鉱炉の問題に触れ、一連の研究として、その問題の解明に一歩を進め得て、些かの満足を覚えるしだいである。
同時に長坂文書が、文献不足に悩む古武井熔鉱炉の究明に、貴重な資料となったことを喜ぶと共に、市立函館博物館、道の発掘調査による実態的研究と相俟って、古武井熔鉱炉の正しい評価がなされる事を今後に期待するものである。
第4図 文献に依る熔鉱炉(高炉)想定図
註
(1)蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類(新撰北海道史第5巻1,500頁)
(2)拙稿 五稜郭フランス式築城論
(3)R, Pumpelly, Geological Reserches in China, Mongolia, and Japan, 1886 PP.88
松前地古武井熔鉱炉考証年表
寛政12年(1800)箱館奉行、尻岸内で箱館町人のタタラ吹きを計画す。(新撰北海道史 第5巻 779頁)
享和元年(1801)幕府、箱館六ケ場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追)を「村並」とし、山越内を華夷の境と定め、文化元年(1804)山越内に関所を設く。
安政元甲寅年(1854) 斐三郎 28歳
3月25日 ・武田斐三郎、松前並蝦夷地へ為御用御目付堀織部御勘定吟味役村垣与三郎手に付可相勤(水野行敏編、竹塘武田先生伝)
3月27日 ・村垣淡路守蝦夷地へ向けて、勘定吟味方改役青山弥惣右エ門、同青山金左エ門、勘定猪股英次郎、支配勘定安間純之助を随行し出発
5月 5日 ・斐三郎、箱館出張、ペリーに応接
6月 3日 ・斐三郎、宗谷に参着、蝦夷地・樺太巡後箱館居残り
8月30日 ・プチャーチン箱館来航、斐三郎も応接。この前後、箱館弁天町松右エ門、タタラ吹分製鉄場を開く?
9月 4日 ・斐三郎、プチャーチンに面接
12月24日 ・斐三郎、当分箱館表御用居残り
「熔鉱炉並反射炉等相製鉄筒を鋳候ハバ御費少ニ出来可仕哉ニ存候」(蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類)
安政2乙卯年(1855) 29歳
3月 3日 ・斐三郎、箱館詰
5月 6日 ・斐三郎、器械製造並当分之内爆薬製造之御用取扱
5月18日 ・箱館奉行申上候、同所ニ而出来候反射炉雛形(斐三郎作成と思う)江書面相添伊勢守殿録助を以御下、同所ニ而ハ弐百両ニ而出来之由
5月21日 ・箱館奉行差上候反射炉雛形、川口鋳物師ともへ下ケ遺シ候旨申上 海防掛リ廻シ
6月17日 ・箱館奉行差上候反射炉雛形、先達而御下ケ、右直下ニ不及候哉、弥十郎承合候処、下野守へ問合、御下ケ切ニ而宜旨申聞候間鋳立場江御預リ之積リ平作江談シ置
9月 ・仏艦コンスタンチーン号(7月29日入港)副艦長より砲術書之趣二冊奉行へ贈らる。反射炉仕様絵図面等有之斐三郎写取り、毎日或は隔日の如く教授を受く(大日本古文書幕末外国関係文書之十三)
9月27日 ・仏艦コンスタンチーン号出帆
安政3丙辰年(1856) 30歳
(月日不詳 ・斐三郎指導により、川上レンガ製造場着工、4年4月19日以降完成
1月13日 ・竹内、河津、笠原等六ケ場所金銀銅鉄山其外諸産物類見分(交易一件留取扱大意)
2月13日 ・大島高任の築いた水戸反射炉、モチール銃製造に成功(佐久間貞介反射炉目録)抄出
3月22日 ・斐三郎、夜、尻岸内客舎にて、イへイの分析書(検討的有効なる分析術の系統的便覧、蘭書)訳了(蝦夷入北記)
・仮炉着工「ヒヤミツ川添ニ二十丁ニコウキヤウヘント号則熔鉱炉略形ニ有」箱館弁天町松右エ門ト申者願請自分入用を以取建右ニ而鉄砂製方仕候由右場所(安政4年3月21日)見分仕候処二間四方二丈余程ニ築立火勢の模様強盛ニ相見実ニ破裂等之義も有之間敷とも難申見積申候(梶山米太郎外一名箱館六ケ場所所之内金銀山鉄砂其外産物出所稼方等為見分罷超候趣申上候書付 市立函館図書館蔵)
3月 ・堀奉行、箱館在勤となる
6月23日 ・竹内下野守より差出候仮回焔炉略説並雛形之儀ニ付申上候書付け(斐三郎著「鉄炉略説」)
7月23日 ・竹内、堀、村垣三奉行「蘭名ホーゲオーヘン取建候儀申上候書付」8月許可
8月 ・箱館奉行支配、諸術調所を置き、武田斐三郎を教授役とする諸術教授御付候旨
・分析所取建之儀伺候書付之通取計、分析所の唱も不宜候間、諸術調査と唱候様御書取添御渡し
・村垣淡路守箱館奉行となり江戸在駐、シリキシナイ熔鉱炉建築御用
・この月より反射炉着工と推定
8月21日 ・武田斐三郎被召出御扶持方拾人扶持被下、上下格
10月15日 ・菅野潔(白華、狷介(けんすけ))、松浦武四郎に会う
10月16日 ・松浦武四郎、目賀田帯刀、市川十郎、菅野潔会合、同日目賀田船にて江戸へ出航
11月 8日 ・村垣淡路守箱館在勤
11月 9日 ・熔鉱炉、囘火火炉(反射炉)産物掛りにて取捌、別段下役以下掛り無出処、諸術調所掛り出来候上は右掛にて専取扱、地鉄砂鉄取出し方等之儀ハ、産物掛ニテ申入方然旨伺出ス小印済
11月 ・弁天砲台、亀田役所土塁(五稜郭)工事掛を河津祐邦、斐三郎に命ずる。
・この月、弁天砲台着工、*亀田は4年6月着工
12月17日 ・村垣淡路守蝦夷地廻浦へ
12月末 ・仮熔鉱炉(蘭名「コウキヤウヘン」高さ約20尺)鉄沙吹立所完成の後休止、吹立所は「長方形ニシテ長サ七尺、幅四尺、高サ五尺ニシテ泥土ヲ以ッテ築造セリ」仮炉は「三ケ年間鉄砂ノ製造ニ従セシト云ウ」(来曼氏地質測量初期報文摘要・新撰北海道史第6巻132p)粗悪ながら砂鉄の精錬をする。我国最初のものなり也、この完成火入は安政四年三月二一日以降
・現地から発掘採取した鉱滓の分析により明らか(高木幸雄、古武井熔鉱炉に関する研究)
・ライマンは明治6年にこの完成を「今より一七年前」(前掲書)と述べているが逆算して安政3年にあたる。
・吹立所の竈出来の折柄間違有之其後休居、仮炉は「三ケ年間鉄砂ノ製造ニ従」は順当であれば安政5年迄となるが、休止や、本炉の未完成等によって5年以降も継続したと見られる。
・反射炉経費416両2分余 年末これを中止、熔鉱炉建設準備工程に入る。
安政4丁巳年(1857) 31歳
3月 ・熔鉱炉建設に本格的にとり掛かる。
3月13日 ・島団右ヱ門(義勇)松浦武四郎を訪問する(横山健堂、松浦武四郎71頁)
3月21日 ・(村垣)根田内より磯辺半行て古武井より半道ほど厚沢ニ添ひて入込、武佐の台といふ。熔鉱炉場所地形出来、川有、十丁上より分、水車ニ掛ル積リ、夫より少々戻りて練化石焼竈(煉瓦焼き場)見分、出来の練化石も見る。斐三郎、外川作蔵出迎案内致す。夫より一里尻岸内に着。御用状到来一見。昼飯
「小屋取建候間四方に根切いたし地形中地杭打掛候儘ニ而寒気罷在候由猶此程より取掛候趣地形石を凡二百五十余石寄有之右ムサ山を堀割水車を以堰上ケ鉄砂製煉之見込之由堀割場所之義ハ地杭打立有之候解共未だ取掛不申水車等道具付属之品々も出来取解小屋ニ内積入有之候」(梶山米太郎外一名。箱館領六ケ場所之内金銀山鉄砂其産物出所稼方等為見分罷越候趣申上候書付)
後又立出、元之道へかかり、山手に入り、半道ヨにて松右エ門引請之鉄砂吹立所、仮之容広炉一見、当時休居。夫より旅館へ帰る。七時頃也。
一、松右エ門代徳兵衛小屋居、冷水沢(女那川付近)といふ。(中略)
吹立所休居故、早々取掛り候様、精々為談候事
一、三平次男、高橋靭負、鉱山(椴法華の金堀沢の鉱山。砂鉄が不成功これを使った?)見込有之同所へ参リ居ル、旅館えも来る、箱館にて面会之積り申遣ス。靭負は仮炉指導者なり。
4月 1日 ・斐三郎帰着面会。恵山明礬、天工之硫黄花斐三郎持参
4月 4日 ・斐三郎御筒拝借願
4月 5日 ・米国貿易事務官ライス捕鯨船に乗じて箱館に着、斐三郎就きて英語を学ぶ
4月12日 ・土佐藩士手島季隆、下許実重松前入(5月8日箱館出立)
4月18日 ・堀奉行と村垣奉行交代、堀は閏5月11日廻浦へ11月帰府、村垣奉行は箱館在勤
4月19日 ・手島季隆ら斐三郎を訪う。斐三郎曰「造容鉄干鉄沙浜尋将製返(反)射竈」(探箱録)斐曰「熔鉱炉巳成別造反射竈」(北征漫録)
4月21日 ・目賀田帯刀、脇石省助明日出立暇乞ニ来ル
4月27日 ・玉虫義及び菅野潔(狷介、白華)箱館奉行堀利煕、村垣範正に随行して、尻岸内に来る。
「同村冷水沢、竹(武)田斐三郎等取立テノ瓦焼場アリ。是ハホウギヨヘン、ハンシャロ等ニ用ユル由。瓦工数十人各共職ニ付キ働キ居ル仮ノホウギヨウヘンアリ。是又斐三郎取立テト見ヘタリ。御旗元高橋三平殿御次男靭負ト申サル方其傍ニ小芦ヲ構ヘ世話致サレケル(中略)夫ヨリ一里余リニシテムサハト云ウ所ニ至ル。此所、斐三郎取リ立テノホウギヨヘン本場所ナリ。未ダ半分モデキズシテ漸ク材ヲ打チ込ミ居ル。今日鎮台御見分ユヘカ材ヲ打チ込ム声四方ニ達シナニカ大普請ヲイタスヨウ見ヘタリ。平日ハサダメテカクアルマジト思ヒタリ。其外水道堀割リ等逐一ニ見ルニ四百間ノ長サ中々容易ノ事ニハアルマジ。斐三郎儀三郎、鎮台ニ申シ上ゲルニハ当秋マデニハキツト成就イタスベシト。是又覚束ナキ事ナリ。去年春ヨリハンシャロヘ取リカカリ、半バニシテホウキヨヘンヘ移ルトモ少シハ成功アル筈ナルニ、只今漸ク材ヲ打込ミ居ル次第、姦吏上ヲ欺クノ所為実ニ悪ムベシ。」(玉虫義、入北記、九)
4月28日 ・手島季隆、市川十郎を訪う。
5月 3日 ・季隆ら菅野潔を訪う。
5月 5日 ・潔、手島季隆を訪う「三更過而帰」
5月 5日 ・季隆ら堀奉行に謁す。堀曰「鉄沙浜熔鉱炉巳成別造反射竈以熟鉄製器械」探箱録、「北征漫録」に記事なし。
5月 7日 ・季隆ら島団右エ門(義勇)と箱館七面山に遊ぶ。
5月11日 ・自分(村垣)並ニ三郎太郎筒鋳込ニ付此間江戸ヨリ相廻リ御貯ニイタシ置候銅之内八拾貫目領受イタシ受取斐三郎ヘ渡ス一熔鉱炉御入用三百両渡シ、廻シ済、是迄渡シ高千両也
5月19日 ・誠終舎開講式、菅野潔孟子を講ず(26日菅野開帆大間へ)
5月26日 ・一熔鉱炉御入用三百両渡し廻し済、是迄渡し高千両也
5月 ・大橋高任、大橋(釜石)高炉建設着手(12月10日出銑に成功、高任書簡による)
6月 3日 ・三百五十三両ヨ。熔鉱炉御入用並御手当相渡候事
6月26日 ・熔鉱炉御内借弐百両渡し之廻し済
7月 4日 ・熔鉱炉石垣、喜三郎積立、七四両二分ヨ、右直段にて最初より掛り候土地之職人引受候事。これは基壇で胴張は木材。
7月19日 ・向山栄五郎、武田斐三郎、栗原十兵衛、代島剛平、御普請役、井狩慎平、熔鉱炉其外見廻、今朝出立届出ス。
8月 ・斐三郎箱館奉行諸術調所教授となる。(白山稿、武田斐三郎の教育・函館教育研究第1輯 昭和29年1月)
9月 3日 ・勝之助、斐三郎熔鉱炉見廻り、今朝出立
9月 8日 ・「高五尺五間四方ニ土台石垣此程近々皆出来相成右石垣上江枠取建練化石とも追々組方仕候手続ニ而且水路にも堀割候趣水車等道具付属之品小屋ニ取解積入有之」(箱館付六ケ場所之内金銀山其外産物出所地所見分仕趣申上候書付)8日以後月末迄に完成。
9月11日 ・熔鉱炉御入用五百両、昨年来渡シた千六百二十五両也熔鉱炉立会之儀申し上候旨伊左エ門江達ス
9月12日 ・野州(筆頭奉行竹内保徳)熔鉱炉御取建場所立会之義申上候書付。右進達之義申遣す
9月15日 ・箱館産物会所普請出来ニ付同所ニ於テ御用向取扱候義申上候書付
10月12日 ・熔鉱炉当年手引ニ成、二百両渡し。当年渡し高、合千六百三十両ヨ
11月 6日 ・弁天町松右エ門、鉄砂五十貫目差上候ニ付金五両為御遣候旨申渡し
11月23日 ・森町実行寺庵室地所見分、作太郎遣し、序に金銀山熔鉱炉見廻り之積、
小印済
○4,5年頃、大島高任が萩の小倉健作から斐三郎に紹介状を依頼された点から、斐三郎と高任は既に知己であったろう(阿部・道南郷土夜話93頁)
○熔鉱炉経費3,4年分2千772両余(後出)は殆ど本年分と考える。
○去辰8月中より御取掛相成候熔鉱炉云々(箱館領六ケ場所之金銀山鉄砂其外産物出所場所見分仕候趣申上候書付)は反射炉と推定
○年末には高炉完成、堀溝、水車場、役宅1棟、長屋1棟(棟続)完成(目賀田帯刀、真図)
安政5戊午年(1858) 32歳
1月 4日 ・熔鉱炉御取建場所立会之儀ニ付申上候書付
覚
熔鉱炉御取建候場取彼是在勤之御勘定方見廻り候様可渡旨御勘定奉行へ相達候旨可被得其意候事
右 十一月廿六日備中守殿早川庄次郎を以承付御下げ写来る(9月11・12日記事参照)
1月18日 ・市川十郎(目賀田帯刀等)六ケ場所出立届出る。
・目賀田帯刀熔鉱炉を描く。
3月 8日 ・熔鉱炉御用同心2人熊皮願受
3月 ・竹内奉行箱館在勤となる。(安政6年回浦11月帰府)
3月14日 ・辰巳(安政3・4)御入用調出来す。
・416両2分ヨ反射炉御入用。2千772両ヨ熔鉱炉御入用
3月16日 ・熔鉱炉御入用200両、代島剛平出立ニ付渡し(修理代)。
3月19日 ・目賀田帯刀、脇屋省助、市川十郎、イワナイより江差通り、松前領廻リ出凾ニ付相越面会致ス両三日ニ而出立致すヨ
8月26日 ・斐三郎入来面会承る。この年、高炉火入れ(失敗)(以上、古文の中、脚注なき文書体のものは、村垣淡路守「公務日記」−幕末外国関係文書、付録之1−4所収−による)この記事後間もなく、村垣は9月江戸に帰ったので、熔鉱炉の記事なし。
12月21日 ・斐三郎熔鉱炉御普請御用之儀ハ初メテ之事諸事見合モ無之処格別骨折ニ付金七百匹被下(竹塘竹だ先生伝)
安政6己未年(1859) 33歳
5月12日 ・尻沢部村硝石丘取建(交易1件留取扱大意)
○六年末出来栄之儀申上凡御入用積モ申上置候云々(小出箱館御用留)
7月 ・斐三郎、前島密、箱館丸にて海産物を積み西廻り長崎に至りて、東廻り宮古の桑ケ崎港にて越年、大島高任の設置した大橋及び橋野の熔鉱炉を見学、(前島密、鴻爪痕)翌年一月帰る。
○御本丸炎上ニ付差延置(道史5巻1379頁)
万延元庚申年(1860) 34歳
2月 ・箱館奉行、南部藩へ熔鉱炉職人十人雇い入れを依頼し、謝絶さる。
4月~7月上・前島密ら長崎交易。
10月 ・長坂庄兵衛、熔鉱炉の樋御入用積書上提出。
11月 ・堀利煕自殺。
○前年起工した箱館大町海面埋立。
○箱館の医師相謀り医学所を設く。翌年病院竣工。
○鈴鹿甚左エ門、長坂庄兵衛、太田山道・狩場山道開鑿竣工。
文久元辛酉年(1861) 35歳
1月20日 ・竹内奉行、外国奉行に転出。
1月 ・庄兵衛、熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御入用木積書提出。
2月 ・庄兵衛、熔鉱炉御長屋並板蔵水車場御小屋諸色御入用積書上提出。
同見積書に「熔鉱炉ニ罷出大工凡五人云々」は高炉修理。
4月 ・庄兵衛請負の通水の樋は、前年11月着工とすればこの頃までには完成したと思われる。本年着工なれば本月完成。
・長屋3棟、板蔵、水車小屋建設に着工、7月中にはそれぞれ完成していたと推定。
7月17日 ・村垣奉行退職
7月18日 ・大島高任同志共箱館抗学校を開く。
8月 ・アメリカ地質学者ウイリアム・ブレーク、ラファエル・パンペリー桑港発 9月・3月、斐三郎、黒竜江出貿易に出発8月帰着、したがって熔鉱炉再度火入れは9月以降と推定される。(2,300石旁の製銑に成功)
10月 ・長坂庄兵衛請負の臼別寄場完成。
○山越内の関門を廃し自由に通行を許す。
文久2壬戌年(1862) 36歳
4月 ・大島高任務砲教並御据筒方挺教等取調方命ぜられる。
5月 ・今月、中迄に熔鉱炉操業中止
6月 7日 ・ウイリアム・ブレーク、ラファエル・パンペリー、斐三郎・高任と共に道南地質調査のため古武井に来る。
「武田氏は政府から外国式で鉄を熔かす大熔鉱炉建設を命ぜられたが、日本では初めての事で、和蘭の化学上の仕事よりは、より計画的で詳細なものではなかった。武田氏が円筒衡風優秀な水車に依って回転する装置のついた、極めて見事な型によって作ったもので、高さ三十口尺の熔鉱炉を建設した。不幸にも彼の所持して居った唯一の書物には、その問題に関する全ゆる詳細な説明が欠けて居ったので、出来上がった衡風装置は求めていた所のものの、ほんの端片に過ぎなかった。建設に用いられた煉瓦は使用し難いと言う訳ではないが完全なものでなかったので、二、三百(磅)の鉄を鎔解した後は失敗に帰してしまった」(パンペリー著 支那蒙古日本の地質学的調査 80頁 筆者訳)従って休業は6月以前である。
○長坂庄兵衛請負、臼別寄場及び奥尻寄場出張所開場
○赤川村に商人共自分入用ヲ以テ熔鉱炉出来、火入不成功ニシテ廃ス(自元治甲子11月至明治戊辰2月箱館御用留)
文久3癸亥年(1863) 37歳
3月31日 ・弁天砲台竣功
6月14日 ・暴風雨にて高炉(古武井熔鉱炉)大破、水車居小屋崩壊、復興を中止する。(自元治甲子十一月至明治戊辰二月箱館御用留)
10月 ・栗本鋤雲、徴され江戸へ還り、昌平黌頭取を命ぜられ上に進み七百石を賜る。「箱館叢記」に「箱館近接の漁区に六ケ場所と称するあり。其内の尻岸内と云う場所の海岸に鉄沙頗ぶる多く、汰して以て鎔解せは精鉄を得可しと云ふを以て、竹(武)斐三郎氏をして西式に拠り、反射炉を作りしめしか、煉化石未だ其法を得去りしや、一回試みて則ち止たり」(匏庵遺稿361頁)
○大島高任等遊楽部鉛山で初めて火薬爆発で採鉱を行う。
○煉火石、安政2年より本年までの支出129両3分、収入181両1分(筥 経済)
元治元甲子年(1864) 38歳
5月 ・五稜郭竣功
8月 ・武田斐三郎、箱館を去る。
11月14日 ・斐三郎、王子反射炉建設御用取扱
慶応2丙寅年(1866) 40歳
1月 ・パンペリーの「支那蒙古日本の地質学的調査1862~65年」出版 (Geological in Researches China Mongolia and Japan During the years)
明治4年(1871) 45歳
10月 ・開拓使教師トーマス・アンチセルはケプロンの命により、ワーフィールドと共に北海道に出張、古武井に来る。(新撰北海道史6ノ52頁)
「アンチセルハ仁多内(根多内)の近傍及び乙骨内(ユーラップノ南方海汀ヨリ大凡1里許ノ処)ニテ製造所ノ旧跡ニ個ヲ見ルニ、仁多内ニ在ル者ハ麁粗(そそ)ナル練瓦石ヲ以テ建築シタル竈室ニシテ、己ニ破頽(はたい)シ起風水車ヲ設置シタル木材等ハ尽ク廃折シ、多年休業ノ状態ヲ証セリ」(アンチセル氏製鉄ノ儀建言写 明治5年3月刊『開拓使日誌第7号』)彼は英和対訳辞書(荒井郁之助 明治5年)に舎密鉱山の語を選んでいる。
○文久2年6月7日にパンペリーと同行したウイリアム・ブレークの報文でる。
古武井ノ鉄
「噴火湾畔ノ古武井ニハ沙鉄ノ沖積スルモノ多キガ故ニ日本人ハ大ニ之ヲ採集セント、欧法ヲ以テ爰(ここ)ニ火炉ヲ設立セリ。然レト共其火炉ハ斯ル細沙ヨリハ粗粒ノ鉱ヲ熔解スルニ用ユルニ一層能ク適シタルモノナリ。其鉄沙ハ頗ル純粋ナルモノノ如ク、多分其鉄鉱ハ銅鉄ヲ製スルニ宜シカルベシ、且処々ニ於テ崖ヲ開セバ同様ナル鉄銅ノ堅銅ヲ採ル事ヲ得ベシ。是其酸化ノ分子ハ膠糊ノ一種ト共ニ凝結セシモノナルガ故ナリ。」
(地質兼鉱山学師 ウイリアム・ブレーク博士報文摘要新撰北海道史 6ノ44頁)
明治6年(1873) 47歳
○開拓使4等出仕物産関係事務担当官榎本武揚視察
11月 ・アメリカの地質・鉱山学者ベンジャミン・ライマン、秋山地質助手と共に本炉・仮炉を視察、11月10日函館より東京へ帰る。
T, Kuwada. Outline of the activities of Mr Lyman ( Giogra-phy of B.S.Lyman.P85)(本炉)武佐川の山手半英里(十町)ノ地十五年前(安政五年)其初年ニ於テ廃棄セシトイフ。若干のチタニウムを含ムト見エ奥津内ノ打鉄炉(フローマリー・ホルジ)ニ於テ之ヲ製セシニ甚ダ堅シ。故ニ古武井ノ沙鉄ヲ半分混和シテ其質ヲ軟ラカナラシメタリ(来曼氏地質測量初期報文摘要 新撰北海道史6ノ130頁)
(仮炉)函館ヨリ二十五英里(十里)ニシテ古武井ニ隣レル海岸ノシリキシナイニモ沙鉄小層アリ(中略)其沙ハ甚ダ富ルトモ見エス、凡ソ十七年前(安政三年)頃メノコナイ川口ヨリ二英里(三十町)許上ニ鎔炉ヲ設ケ三ケ年間此鉄沙ノ製造ニ従事セシト云フ(中略)其鉄最良ナラザレ共軟カニシテ可ナリ良品ナリト。但鉄鉱ノ分量些少ナルニヨリ廃棄セシト云ヘリ(新撰北海道史6ノ132頁)
・大橋(釜石)の場合耐火煉瓦を重視し特別吟味して作ったこと。石灰を媒溶剤として使用したことで成功。石灰石媒溶剤の利用を特に注意し鉄鉱石1〆目に1分匁の割合で石灰石を混用して成功したが、古武井の場合は、(新撰北海道史6ノ284頁)に記載されている「石崎村ノ西端ナル海浜ニ灰色及ビ白色ニシテ純粋ニ見エル石灰石露出シ」ていたのを利用したらしい。
明治7年(1874) 48歳
11月19日 ・ライマン「北海道記事」をケプロンに呈す。ライマンは明治6,7,8の3か年間、本道の炭田、油田、鉄・金・硫黄・石炭等の調査、18冊の調査報文、26枚の地形図・地質図を作る。
明治13年(1880)
1月28日 武田斐三郎、疾に罹て歿す。享年54歳
明治37~8年(1904~5)
○地主が6尺程のロストルを掘り出して売る。
明治42年(1909)
○三好又右エ門口述という「尻岸内沿革史」出る。(村吏員、上級庁報告のため大正7年再調査)
大正元年(1912)
・大日方順三 報文「古武井川近傍の鉄砂は石英砂と磁鉄鉱砂の混合したもので、この鉄砂には鉄31.76%、チタニウム2.9%を含んでいて、この鉄砂から製鉄の困難であったのはチタニウム含有量の多かったためであったろう」(農商省鉱物調査報告第12号)
昭和8年(1933)
・古武井熔鉱炉跡地、字・地番改正により字高岱となる。
6月 ・函館図書館長、岡田健蔵・田畑幸三郎氏視察。
昭和18年(1943)
○太平洋戦争中、金属回収のため発掘来たり高炉発掘。
昭和31年(1956)
9月10日 ・文部省の黒板技官古武井熔鉱炉跡地調査(道新9・10掲載)
9月30日 ・函館中央病院顧問、阿部竜夫氏調査
10月 3日 ・稿 阿部たつを「武田斐三郎と溶鉱炉」(32・11・10刊 函館郷土手帖所収)
昭和32年(1957)
10月30日 ・稿 阿部たつを「武田斐三郎は反射炉も作ったか」(33・11・10刊 道南郷土夜話所収)
○北海道大学応用地質学専攻、牛沢信人氏調査
昭和33年(1958)
9月 ・北海道学芸大学、渡辺亮治助教授・図書館、高木幸雄係長調査
昭和36年(1961)
2月11日 ・高木幸雄 研究論文発表「古武井熔鉱炉について」(人文論究第21号)
4月 ・北海道文化財専門委員、北海道大学高倉新一郎教授、現地視察。
6月 ・北海道学芸大学 白山友正教授、長坂文書中より熔鉱炉関係史料筆写。
昭和37年(1962)
2月17日 ・白山友正稿「箱館に於ける長坂庄兵衛の事業」(市立函館図書館刊、函館郷土史研究会諸講演第3集)
2月17日 ・川上レンガ製造所尻岸内文化財に登録
10月27日 ・長坂文書市立函館図書館に寄託
11月22日 ・22~24日、市立函館博物館、武内館長・石川・西田館員、尻岸内村、浜田・玉谷、川上レンガ製造所調査
11月25日 ・調査の結果、略全容を確認
昭和38年(1963)
2月 ・浜田昌幸「古武井熔鉱炉など一連の施設について」報告
3月15日 ・浜田昌幸「同上 補遺」報告
3月 ・高木幸雄「古武井熔鉱炉に関する研究」(北海道科学研究報告 第4集)12月25日
・玉谷勝、川上遺跡の破壊と調査(北海道青年人類科学研究会連絡紙29)
昭和39年(1964)
1月 1日 ・浜田昌幸「尻岸内村女那川先住民俗遺跡調査・煉瓦製造所跡発掘報告(1)
4月15日 ・同右 「同右・女那川煉瓦製造所について」(2)
6月10日 ・同右 「 同 右 」(3)
7月10日 ・同右 「 同 右 」(4)
9月 1日 ・同右 「 同 右 」(完)
10月10日 ・同右 「古武井熔鉱炉など一連の施設について」
以上(道南の歴史研究協議会機関紙「道南の歴史 NO8~12」)
4月 ・新井幸男北海道文化財専門委員、現地調査
11月14日 ・向井晃「諸術調所-幕末箱館の洋学所」法政大学史学会で発表
11月20日 ・市立函館博物館 武内収太館長・吉崎昌一学芸員、恵山地方史研究会員、
~25日 函館ラ・サール高校、函館中部高校、古武井熔鉱炉遺跡発掘(高炉の基壇、油口、フイゴ座の一部を確認)
11月21日 ・遠藤明久北海道文化財専門委員 現地調査
~24日 ・北海道文化財専門委員 高倉新一郎北海道大学教授 発掘現地視察
昭和40年(1965)
10月21日 ・市立函館博物館 武内収太館長・吉崎昌一学芸員、函館ラ・サール高校、
~25日 函館中部高校、高炉近傍地形の測図、川上レンガ製造所及び仮炉現地視察
10月26日 ・武内収太・吉崎昌一・浜田昌幸稿、「尻岸内町古武井本炉及び川上レンガ製造所跡略報(第1回)」(恵山地方史研究会資料通信9)
11月 9日 ・同右 「同右(第2回)」(同右 10)
11月28日 ・同右 「同右(第2回の続き)」(同右 11)
11月17日 ・「古武井熔鉱炉」(北海道新聞 五稜郭物語8)
12月10日 ・中野鉄雄恵山地方史研究会員、原土採取場調査
昭和41年(1966)
1月22日 ・白山友正函館大学教授・浜田昌幸恵山地方史研究会員、本炉、仮炉及びレンガ製造所跡調査
2月20日 ・浜田昌幸・中野鉄雄恵山地方史研究会員、原土採取場調査
付記 本論文公刊に関し、尻岸内町教育委員会援助、並びに浜田昌幸・高木幸雄・西山貞孝・向井晃・武田文夫(武田斐三郎曾孫)諸氏のご教示と福田市立函館図書館長並びに、阿部竜夫氏の著書による学恩に対し深く感謝する。
昭和41年1月30日 稿了
(昭和41年3月10日 補正)
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