初代為信の動向

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関ヶ原の戦い後、家康の覇権が成立するが、政治の中心地は依然伏見大坂であった。その理由は、大坂豊臣氏との緊張関係、朝廷対策つまり征夷大将軍宣下西国の有力外様大名対策、そして江戸城の未完成等が複雑に絡み合ったためである(藤井譲治『日本の歴史 ⑫ 江戸開幕』一九九二年 集英社刊)。このため、為信も津軽上方を往復しており、また長子信建(のぶたけ)も病気がちでありながら、為信不在の場合よく代理を務めていた。この上方滞在中に、為信・信建そして二代藩主となる信枚(のぶひら)(為信三男)の上方における指南役として活躍したのが参議西洞院時慶(にしのとういんときよし)である。一方、信建は「太閤に仕えた」人物であり、早くから上方生活を送っていた。天正十八年(一五九〇)に為信とともに上洛をした「足弱衆(あしよわしゅう)」(資料近世1No.二七)の一人として、秀吉の人質となり、そのまま秀吉に仕えることになったと考えられる。信建の生年は天正二年(一五七四)で、烏帽子(えぼし)親は石田三成だといわれている(『伝類』)。彼は上方の厳しい政治状況の中で青年期を過ごし、政治的感覚や政治動向をみる目を養った。また、信枚は慶長六年(一六〇一)に為信不在のため、「装束」借用の依頼を時慶に申し込んでおり(資料近世1No.八五)、この時点より前に時慶のもとに出入りをしていたのは確実である。

図56.津軽為信夫妻画像

 関ヶ原の戦い後の慶長六年から、為信・信建が亡くなる同十二年までの動きを、家康の動きと比較したものが図57である。これによると、次の三点を特徴としてまとめることが出来る。第一は、慶長六年四月段階で三人全員が在しており、この年八月二十四日に上杉景勝会津若松(あいづわかまつ)(現福島県会津若松市)から米沢(現山形米沢市)へ国替えを命じられるが、為信らは依然在しており、他の東北諸大名とは違い警備のための出陣要請はなかったことである。第二は為信が国元京都の間を頻繁に往復しているのに対して、信枚はほとんどから移動した形跡がないことである。家康が上方に滞在している時は、それに合わせて為信が上方に滞在しているのである。これは、江戸時代の参勤交代に匹敵するものといえる。参勤先が江戸ではなく伏見であったと考えればよいわけである。信枚は国元にはあまり帰国をしておらず、国元との関係が希薄である。第三は、信建は慶長七年八月八日に国元へ帰国するまでは上方におり、居住地は大坂であった。時慶と一番親密な関係を結んでいたことが『時慶卿記』の記事から判する。第四は、三人が同時に上方に滞在したのは慶長六年四月から翌七年二月までで、為信・信枚の二人が在していたのは、途中一時的な不在状態はあるが慶長八年から同十二年までであったことである。
57.津軽藩主家滞在地一覧
年 月 日為 信信 建信 枚徳川家康年 月 日
慶長 6・ 4・13
(1601)
慶長 6・ 4・23
     5・11昇叙()伏見
     9・22伏見    10・12
    11・ 7大坂    11・15
慶長 7・正・ 9
(1602)
江戸
    正・16
    正・22参内慶長 7・正・19
    正・26大坂     2・24
     2・ 5
     2・ 9〈下国〉
     2・26
     3・ 9大坂
     3・10伏見
     4・16(奈良)
大坂
     5・25
     5・27
     6・ 2伏見
     8・ 8〈下国〉
     8・15(江戸着)10・ 2
慶長 8・10・ 9
(1603)

伏見
伏見    12・25
伏見慶長 9・ 3・
慶長 9・ 3・ 7
(1604)
〈下国〉   閏8
     3・23
慶長10・ 2・朔上洛途中慶長10・ 2・
     7・22伏見     9・
慶長11・ 2・17
(1606)
江戸慶長11・ 4・
     3・2412/20
で死去
伏見     9・
慶長12・ 2・12
(1607)
参内
(伏見)
江戸
     3・26駿府慶長12・ 7・ 3
    12・ 5死去
注)長谷川成一「文禄・慶長期津軽氏の復元的考察」『津軽藩の基礎的研究』所収の原図に一部加筆,訂正をした。

 なお、慶長三年ころに為信と信枚は伏見に屋敷をえていたことが知られており(資料近世1No.七一、図40)、為信の屋敷は、伏見城の東端と南西端の二ヵ所、信枚の屋敷は伏見城の南、外の内側にあった。
 それでは、慶長六年から同十二年まで、年ごとの動きをみてみよう。慶長六年には上杉景勝国替えがあったことはすでに述べた。また、この年三月為信は清水森(しみずもり)(現弘前清水森)において、津軽統一で戦死した者の菩提(ぼだい)を弔う大法会を執り行っている(資料近世1No.八四)。慶長七年には、全国的に大名の配置替えが行われた。藩境を接する秋田実季は常陸国(ししど)(現茨城県西茨城郡友部町)へ転封され、代わりに常陸国(現茨城県水市)から佐竹義宣(よしのぶ)が秋田に移ってきた。この動きに対応するためか、為信は二月九日に国元に帰国している。佐竹義宣の移動は七月二十七日であるので、早くから為信は情報をつかんでいた可能性もある。
 為信はこれに先立ち、領内安定を願うため神社の建立を進めており、百沢寺下居宮(おりいのみや)(現岩木町百沢の岩木山神社)の再建に着手し、完成した慶長六年(一六〇一)九月に為信が奉納した棟札が現存する。また、神明宮(現弘前市東城北二丁目)には、完成を期して慶長七年九月に為信が奉納した大神宮宝殿の棟札が現存する(同前No.一五一)。百沢寺大堂(現岩木町百沢の岩木山神社)の完成を期して慶長八年(一六〇三)八月に為信が奉納した棟札も現存する(同前No.一七一)。百沢寺大堂は「二年にてなる」(同前No.一七二)とあるので、逆算すると慶長六年の工事開始となり、下居宮の再建後に着工した可能性がい。そうなると、下居宮の着工も二年前の慶長四年に求められそうである。大神宮宝殿の着工は、規模からみて前年の慶長六年に着工した可能性がい。いずれにしても、関ヶ原の戦い以前から為信は津軽地方を治める領主として、領民が求める精神的支柱の重要性を認識していたのである。

図58.百沢寺大堂棟札

 この後、為信は慶長八年十月九日に上洛をしているが、慶長七年九月から同八年八月までの動向は不である。前述した棟札の存在を考えると、国元にいた可能性がい。慶長七年八月八日には信建が帰国の途についており、彼はその後国元に長く滞在し、再び上洛したのは慶長十二年のことであった。これは病気治療のためであったが、結局信建は同年十月十三日京都鍛冶金道の亭にて死去した(同前No.二二六・二二七・二三八)。なお、信建の位牌(弘前市西茂森 長勝寺蔵)は没年月日を慶長十一年十月二十日としており、前年に死去した可能性もある。『時慶卿記』の慶長十五年(一六一〇)・同十八年(一六一三)・同十九年(一六一四)の十二月二十日の記事に、時慶が親しかった信建の忌日法要を営んでいることを記していることは、慶長十一年十二月二十日死亡説の可能性がいと考えられる(田沢正「「時慶卿記」からみた津軽信建」年報『市史ひろさき』七)。
 為信は慶長九年三月に帰国しており、代わりに信枚が上洛している(資料近世1No.一八五)。信枚は図57からわかるように、ほとんど国元には帰国しておらず、前年に帰った可能性がい。為信は翌十年二月に上洛しているが、帰国時期は不である。この二月上洛は、最後の上洛となった慶長十二年まで続いており、半ば参勤交代化したものと考えてよいであろう。為信は最後の上洛となった慶長十二年に帰国することなく、京都において十二月五日死去した(資料近世1No.二三二~二三八)。なお、信建が慶長九年(一六〇四)八月十七日に遠寺内(とおしない)(現弘前十腰内)観音堂(現巖鬼山神社)に奉納した鰐口(わにぐち)の銘文(同前No.一九四)に、「津軽惣領主」とあることをもって、信建を二代藩主とみる考え方もあるが、当時為信が参勤交代と同様の意味合いで上洛をしていたことを考えると、無理があるといわざるをえない。

図59.津軽信建奉納巖鬼山神社鰐口

 また、慶長九年に為信が津軽に呼び寄せた工の相州綱広(つなひろ)は、三年かかって慶長十一年に大小三〇〇腰の作を完成させている。慶長十二年(一六〇七)二月十二日為信は朝廷五〇腰を献上しており(資料近世1No.二二四)、これが綱広作のものであろう。現存するものが少ないのは、贈答に使用したためといわれているが、この記録はそれを裏づけていよう。なお、現存する慶長十一年作のものには「津軽主為信」が「相州綱広」を呼び下して作させた旨の銘文があり(同前No.二〇五)、銘文には「三百腰之内」ともある。十和田市の個人が所有する同十年作のものにも、「三百腰之内」という部分はないものの、ほぼ同様の銘文がみえている。やはり、津軽の領主は為信であったのである。

図60.日本相州綱広の銘
表(津軽主為信相州綱広呼下作之)
裏(慶長十一丙午年八月吉日三百腰之内)