本高四万五〇〇〇石は豊臣政権による検地の高で、新田高五万七四六八石余はその後の開発による高である。この新田高のうち、弘前市域の分を抽出してまとめたものが表10である。ここにみられる村は、初期の新田開発によって取り立てられたものといえよう。平賀郡の新田村は八村であるが、弘前城下からみると、津軽野村と向外之瀬(むかいとのせ)村は北、高崎・高田・福田・新里(にさと)村は東、下湯口・原ヶ平村は南にそれぞれ位置する。いずれも、岩木川の南に位置している村々である。この内、下湯口村は他の史料からみて、悪戸(あくど)村を指すものと思われる。「元和年中御家臣姓名大概」(『津軽史 第八巻』一九七八年 青森県文化財保護協会刊)には、越後転封に際して供を申し出た八十三騎の中に、「百石 悪戸村喜右衛門」とあり、村名がみえている。この時期、下湯口村と称していたらしい。津軽野村は天文十五年(一五四六)に成立したという『津軽郡中名字(つがるぐんちゅうなあざ)』(資料古代・中世No.九一五 以下同)に「津合流野 近代津軽野トモカク」として地名が載っており、古い村であった可能性が高い。新里村は建武四年(一三三七)七月日の曽我貞光申状案(同前No.六七七)によれば、前年七月に堀越とともに楯(館)が築かれ北朝方の拠点の一つになっている。『津軽郡中名字』にも「新里」と地名がみえ、「元和年中御家臣姓名大概」の八十三騎の中に、「二百石 新里村惣兵衛」とあり村名がみえている。寛永十七年(一六四〇)に三代藩主信義が弟の津軽百助(ももすけ)に与えた、五〇〇石の黒印知行宛行状にも村名がみえており、古い村であった可能性が非常に高い村である。これらの村が新田として扱われた理由は不明である。
表10 初期の新田(弘前市域) |
平賀郡新田村名 | 石 高 (石・斗・升) | 鼻和郡新田村名 | 石 高 (石・斗・升) | ||
1 | 津軽野村 | 877.71 | 1 | 土堂村 | 478.12 |
2 | 下湯口村(悪戸村ヵ) | 552.90 | 2 | 萢中村 | 446.92 |
3 | 向外之瀬村 | 122.35 | 3 | 船水村 | 217.44 |
4 | 新里村 | 719.73 | 4 | 折笠村 | 186.52 |
5 | 福田村 | 720.51 | 5 | 三世寺村 | 302.08 |
6 | 高崎村 | 299.53 | 6 | 青女子村 | 212.92 |
7 | 原ケ平村 | 290.43 | 7 | 薬師堂村 | 223.00 |
8 | 高田村 | 793.95 | 8 | 鶴田村 | 132.00 |
9 | 篠森村 | 351.00 | |||
10 | 貝澤村 | 24.48 | |||
11 | 大森村 | 27.52 | |||
計 | 4377.11 | 計 | 2602.00 | ||
平賀郡新田高合計に占める割合 | 28.0% | 鼻和郡新田高合計に占める割合 | 32.6% |
注) | 正保2年(1645)「津軽知行高之帳」(弘前市立図書館蔵)から作成。 |
一方、鼻和(はなわ)郡の新田村は一一村で、弘前城下からみると大体北西に位置する村が多い。いずれも、岩木川の北に位置している。このうち、土堂(つちどう)村は元和九年(一六二三)三月八日の革秀寺(かくしゅうじ)宛ての二代藩主信枚の黒印寺領宛行状に村名がみえている。船水(ふなみず)村は建武四年(一三三七)七月日の曽我貞光申状案(同前No.六七七)によれば、前年正月二十日に貞光が南朝方の拠点の一つになっている船水楯(館)を攻めており、当時すでに地名がみえる。また、『津軽郡中名字』にも「船水」として地名がみえ、古い村であった可能性が高い。折笠(おりかさ)村も『津軽郡中名字』に「縫笠(ヲリカサ)」として地名がみえている。三世寺(さんぜじ)村は貞和五年(一三四九)十二月二十九日の陸奥国先達旦那系図注文案(同前No.七〇二)に「津軽三郡内しりひきの三世寺に別当ハ」とあって、三世寺という寺院があったことに、村名が由来していることがわかる。『津軽郡中名字』にも「尻引(シリヒキ)」と「三世寺」の地名がみえてる。三世寺村の産土(うぶすな)神であった神明宮の境内には、現在付近から集められた板碑が七基安置されているが、年号が彫られているものが五基ある。元応二年(一三二〇)・元亨四年(一三二四)・文和五年(一三五六)の三種類で、この五基は貞和五年(一三四九)の陸奥国先達旦那系図注文案が作成された時期とほぼ同時代のもので、熊野信仰と関連があるものと推定される。三世寺は鎌倉時代から室町時代にかけて、すでに存在していた可能性が高い村である。青女子(あおなご)村は『津軽郡中名字』に「青女(アヲナコ)」として地名がみえており、また、前述の津軽百助に与えた五〇〇石の信義黒印知行宛行状にも村名がみえている。鶴田村は吉田(賀田)村(現岩木町賀田)付近にあった鶴田村を指すようで、鶴田村の八幡宮が弘前築城時に移され、現在弘前市にある八幡宮となったといわれている(『永禄日記』・『平山日記』)。篠森(ささもり)村は『津軽郡中名字』に「篠森」として地名がみえており、為信の津軽統一時に協力した垣上(館主)の一人に、「篠(サヽ)森勘解由」の名前が見えている。しかし、「津軽知行高之帳」の村名記載を最後に、あとの時代の史料には村名がみえなくなるのである。鼻和郡の新田にも成立が中世までさかのぼる村が含まれているのだが、それを新田として扱っている理由は不明である。なお、参考として「津軽知行高之帳」にみえる弘前市域の古村名を表11に作成した。
表11 初期の本村(弘前市域) |
平賀郡本村名 | 石 高 (石.斗 升) | 鼻和郡本村名 | 石 高 (石.斗 升) | ||
1 | 堀越村 | 611.10 | 1 | 中畑村 | 300.73 |
2 | 門家(外)村 | 361.72 | 2 | 櫻庭村 | 200.24 |
3 | 福村 | 379.71 | 3 | 國吉村 | 301.54 |
4 | 境関村 | 460.21 | 4 | 蒔苗村 | 382.05 |
5 | 撫牛子村 | 298.83 | 5 | 外野瀬村 | 138.52 |
6 | 和徳村 | 1235.81 | 6 | 町田村 | 408.34 |
7 | 左(小)比内村 | 164.40 | 7 | 中崎村 | 212.42 |
8 | 取上村 | 413.10 | 8 | 獨狐村 | 490.06 |
9 | 清水森村 | 410.68 | 9 | 宮舘村 | 229.52 |
10 | 大澤村 | 409.20 | 10 | 中別所村 | 393.93 |
11 | 小栗山村 | 436.57 | 11 | 高舘村 | 502.65 |
12 | 大和澤村 | 159.01 | 12 | 鬼澤村 | 324.18 |
13 | 小澤村 | 230.50 | 13 | 種市村 | 479.20 |
14 | 坂本村 | 31.06 | 14 | 小友村 | 74.36 |
15 | 十面澤村 | 38.32 | |||
16 | 十腰内村 | 1189.74 | |||
計 | 5601.90 | 計 | 4665.80 | ||
平賀郡高合計に占める割合 | 29.1% | 鼻和郡高合計に占める割合 | 32.5% |
注) | 正保2年(1645)「津軽知行高之帳」(弘前市立図書館蔵)から作成。 |