陸上交通網の整備

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津軽弘前藩の陸上交通網の実態がらかになるのは十七世紀半ばのことである。幕府によって調製を命じられた国絵図である正保二年(一六四五)「陸奥国津軽郡之絵図」(以下「正保国絵図」と略記、資料近世1口絵)には、藩内の各村を結ぶ道路網と一里塚が描かれている。この絵図の道路網の解説書に当たるのが、慶安二年(一六四九)二月成立の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(資料近世1No.一〇四九、以下「大道小道帳」と略記)である。これと類似したものに承応(じょうおう)二年(一六五三)十一月成立の「津軽領道程帳」(弘図古、以下「道程帳」と略記)がある。両者の違いは、前者は支線道路の記述や古城跡の記述があるのに対して、後者には主要道路の記述しかないが、一里山(一里塚のこと)の記述がある点である。また大道小道帳は領内の主要道路を、大道筋小道脇道磯辺路に分けているのに対し、道程帳大道筋脇道浜道という分類をしている。
 両帳に大道筋として記載されているのは、表現に若干違いはあるものの、①秋田領境之明神堂(さかいのみょうじんどう)~大間越深浦鰺ヶ沢十腰内(とこしない)~弘前藤崎~浪岡~新城(しんじょう)~油川(あぶらかわ)~青森浅虫小湊(こみなと)~狩場沢(かりばさわ)~南部領、②弘前堀越大鰐碇ヶ関秋田領杉峠、の二本の道筋である。①は当時の参勤交代路である西浜街道(鰺ヶ沢街道)と、羽州街道弘前油川間と、奥州街道油川狩場沢間を合わせたものであり、②は後に参勤交代路となる羽州街道弘前大鰐碇ヶ関間を指している。ともに津軽領秋田藩領・盛岡藩領を結ぶ道路であり、弘前城下を中心として藩領外へ通じる道が大道筋として認識されていたと思われる。正保国絵図では、①の秋田領境は「秋田領八森村江出本道」、南部領への道には「南部江出本道」、②の秋田領への道には「秋田白澤江出本道」とあって、いずれも本道という記載がなされている。
 小道脇道磯辺路浜道として両帳に共通して記載されているのは、大道小道帳では西根小道とある弘前~百沢を結ぶ百沢街道、同じく東根小道とある大鰐黒石~浪岡を結ぶ乳井(にゅうい)通り、同じく下ノ切(しものきり)小道とある下十川(しもとがわ)~原子(はらこ)~飯詰(いいづめ)~金木~相内(あいうち)~十三(じゅうさん)を結ぶ下之切通りである。大道小道帳では磯辺道として鰺ヶ沢~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田油川が一本の道として扱われているが、道程帳では鰺ヶ沢小泊間と油川竜飛間が浜道として二本に分けられて記載されている。鰺ヶ沢小泊間は十三街道油川蓬田三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので、道程帳の扱いの方が現実に即しているといえよう。
 大道小道帳ではこの他にも小道脇道の記載が多数あるが、浪岡~高田荒川~浜田~青森間の大豆坂(まめさか)通り、藤崎川辺~堂野前~黒石間の黒石街道百沢街道途中の宮地(みやじ)から国吉(くによし)~桜庭(さくらば)~中畑(なかはた)~田代(たしろ)~村市(むらいち)~砂子瀬(すなこせ)~川原沢金山間の目屋(めや)街道弘前上湯口(かみゆぐち)~水木在家(みずきざいけ)~相馬~藍内(あいない)間の相馬街道などは重要であろう。また黒石津軽家が成立する以前の史料であるためか、弘前から黒石に向かう場合は直通道路が記載されておらず、羽州街道和徳村大道から境関~日沼~田舎館樋(たかひ)を経由して、乳井通りを経由して黒石へ行ったものと思われる。

図83.大道小道帳の表紙と内容の一部
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