ビューア該当ページ

(一)南宗寺

600 ~ 619 / 897ページ

第九十四圖版 南宗菴改稱偈文

 
 
 南宗寺龍興山と號し、【位置】南旅籠町東三丁にあり、臨濟宗大德寺派の別格地である。【沿革】始め堺南莊舳松に一小院あり、古嶽宗亘小憩の地とし、大永六年八月舊號を改めて南宗菴と稱した。(古嶽南宗菴改稱偈)同菴の位置に就いては、古嶽の偈文に堺南莊とあるが之は舳松村ではなく、寺地町東三丁大阿彌陀經寺の門内なる住吉の末社舳松神祠のあつた邊を指すのである。併し、南宗菴の位置は今的確には知られてゐない。斯してこゝに大林宗套古嶽の鉗鎚を受け、古嶽の法嗣で宗套の法兄である傳庵宗器は、南宗菴の第二世となつたが、天文二年三月示寂して主なきに及び、宗套は古嶽の命によつて德禪から南宗に移つた。(泉州龍山二師遺藁)【三好長慶の經營】當時三好長慶深く宗套に歸依し、天文二十一年五月河内飯盛城に在つて、祖考の爲に南宗菴を改築して大禪刹となさんとし、高野、比叡の二大刹を始め、箱根、三島等著名なる社寺の繪圖を求めて設計の參考とし、先づ菴を宿院の南方に移し、東西八町、南北三十町を劃し、境内に總門、山門、佛殿、七重大塔、法堂、齋堂、浴室、東司、經藏、鐘樓、方丈、小方丈、庫厨、大書院、小書院、大會所、小會所、對面所、知客寮、施藥所、休息所、渡御所、寶藏十棟、土藏十棟、九十二間の廻廊、百八宇の塔頭其他三好神廟、住吉社、春日社、八幡宮、天滿宮、南宗君祠、花月大殿等を建てんとし、同年八月造營に着手し、長慶自ら工事を督し、弘治二年七月七重大塔と三好神廟との斧始めを行ひ、(全堺詳志卷之上)菴號を改めて寺號とし、宗套を請して開山とした。(泉州龍山二師遺藁)【三好神廟】又三好神廟には祖父長輝の靈を祀り、廟内には靈代として武裝乘馬弓箭を持つた高さ八寸の黃金像を安置し、社頭には十二間の寶藏を建てて長輝の武器を藏めた。南宗君祠は父元長の靈を祀つたものであらう。同三年五月河、泉兩州にて油田三萬石を寄進し、内外の結構略々成るに及び、六月(細川兩家記に據る)海雲元長)の供養と慶讚との大法要が營まれ、開山を導師とし、諸山の高僧及び大德錫を曳き、大檀越三好長慶は一族と共に參列し一代の盛儀を極めた。爾後每年五月十二日を例祭として洵らなかつた。(和泉名所圖會卷之一)是より先、【紹鷗の計畫】武野紹鷗も南宗の舊菴を一新して宗套を開山となさんとし、志を果すを得ずして歿した。長慶建設の工を興すに及び、紹鷗の親族等は先志を繼いで工を援けた。故に紹鷗等も開寺後十檀越の數に加へられた。(大林和尚塔銘幷序)次いで永祿年中松永久秀は亡婦勝善院殿仙溪宗壽禪尼菩提の爲に勝善院を創建した。同七年七月長慶歿し、越えて三囘忌に當る同九年には、六月三七日間、養子義繼施主として當寺に於て晝夜修法、誦經、寫經等の供養が執行せられた。次いで同十一年正月大林和尚示寂し、笑嶺宗訢後を嗣いで第二世となつた。(泉州龍山二師遣藁)
 【舊南宗寺の位置】當寺の位置については、泉州龍山二師遺藁には宿院の南方に移轉せられたことを記し、寶山叢書所收烏焉集に據ると、寺地は中之町及び宿院町の寺町にあり、開山大林和尚の塔は今の妙法寺の南、慈光、寶光兩寺の北の境界の大溝のところに建てられ、茶室の井は宿院寺町の北角卽ち調御寺の前に當るところにあつたよしを記され、又妙法寺中興之末興隆古老所傳幷日遙現見記錄には、現妙法寺南宗寺移轉址へ同寺の引移つたことを記して居る。是等を綜合すると、當寺の位置は今の中之町東三丁にある現妙法寺を中心とする四周の地域であつたらしく、或は南宗菴の地域をも包括したかのやうに思はれる。弘治以來建營に努めた當寺の規模は、第二世笑嶺宗訢に至つて殆んど完備の域に達した。是に於て慶讚供養を行ひ(泉州龍山二師遺藁)山を龍興、塔を曹溪、方丈を獅子窟、殿を大雄、書院を正法眼藏、小書院を梅影と稱し、又十境を選定した。所謂宿鷺池、坐雲亭、甘露門、潮信橋、金剛峯、雙峨峯、大仙岩、萬代山、護國廟、宿院卽ち是れである。(名僧行錄五)元龜四年六月將軍足利義昭は陞して禪院十刹の一に加へた。當時堺南莊の一尼僧は谷口にある海眼菴を獻じたが、和尚は一住の後之を法嗣僊嶽宗洞に附與した。是より海眼菴は當寺境外塔頭の一となつた。(泉州龍山二師遺藁)斯くして造營殆ど成らんとしたが、三好氏の勢力漸く衰へ、【松永久秀の亂入】天正二年三月松永久秀の亂入によつて三好神廟を破壞せられ、黃金像を掠奪せられ、且放火によつて堂舍の過半を失うた。(全堺詳志卷之上)續いて笑嶺宗訢は同十一年十一月遷化し、歷代相嗣ぎ、第七世一凍紹滴の時寺域の北隅に厚德菴を創建した。(一凍和尚行實宗寺歷世年譜)【澤庵と小出氏】次いで澤庵宗彭は慶長十二年八月第十二世住職となり、朝野の信仰を集め、殊に慶長十八年二月小出吉英より寄進された白銀百兩を以て鐘樓を建て、次いで大阪役の直前には、澤庵形勢を察して戰禍の及ばんことを恐れ、京都より來つて開山の伽梨及び先師一凍和尚の證書を携へて大德寺に歸つた。斯くして翌元和元年四月、果して堺は焦土となり、當寺も燒失したのである。【大阪役後の復興】既にして大阪役後、澤庵燒跡を視察し、十一月聚光院に歸つて笑嶺和尚の三十三囘忌を修し、再び日光教寺、天下村極樂寺に轉々し六月當寺に入つた。(東海和尚紀年錄)然るに堺市街の復興計畫に當り、妙法寺に配當せられた地域は南方に偏在せるにより、比較的中央に近き地域を得んとし、妙法寺では有力なる檀越京都の茶屋新四郞、堺奉行北見勝忠を動かして、遂に新妙法寺と舊南宗寺との間に地域の交換が行はれた。(妙法寺中興之末興隆古老所傳幷日遙現見記錄)
 【復興の豫定工事の着手】斯くして澤庵は昭堂、方丈、小書院、文庫、庫司、衆寮、米倉、鐘樓、浴室、鎭守、外門及び塔頭集雲、海會、海眼、勝善、利德、德雲、住中、移春、心甫各寺菴の位置、廣袤に至るまで、自ら新南宗寺の詳細なる豫定圖を作製し、(澤庵南宗寺地割圖)堺の東南端現南旅籠町の地に經營の步を進め、寺域八千坪、繞らすに溝渠を以てし、開山塔、鐘樓、外門等は元和三年春の交より建築に着手し、同五年の夏には方丈及び庫院建設せられ、初秋の候には再興工事の竣功を告げた。(東海和尚紀年錄)【印寺領】寺領は豐臣氏先きに百十石の印を寄せたが、開山堂の建設後間もなく、元和三年八月將軍德川秀忠大鳥郡築尾村に於て百十石の寺領を寄せ、(德川幕府印狀)明治四年上地の際に至つた。斯して、將軍德川秀忠、家光父子の來堺して當寺に風光を賞したのは、元和九年七月並に八月のことであつた。既にして再興粗々成るや、【塔頭の復興整理】澤庵は更らに諸塔頭の復興と整理とに力めたが、勝善菴、厚德菴及び靈松、在中の兩菴は原より寺内にあり、海眼菴は域外にあつた。元和二年復興の際、海眼庵は中之町寺町にある心甫菴後の一甫菴の地を配當せられたが、寺内に編入の希望あり、一甫菴はもと靈松庵と稱し、在中庵と共に大岑宗弘首座の兼住であつたが、災後弘首座が二菴の同一寺内にあるを不可とした爲に、一甫菴の位置に海眼菴を移し、海眼菴移轉豫定地へ此菴を移し名を一甫菴と改めた。(烏焉集)海眼菴の移轉は泉南熊取中道哲の寄進によつたものである。(全堺詳志卷之上)集雲菴も亦此際域内に入り、心甫菴は茶宗伊丹屋紹無の菩提所で中之町寺町にあつたが、是亦塔頭の一に編入せられた。(數寄者名匠集)卽ち當時復舊或は再興し、或は新に塔頭に加へられたものに、移春菴在中菴心甫菴利德菴勝善院海眼菴德雲軒集雲菴厚德菴及び海會寺がある。敷地の規模は移春菴は北向面七間五、奧行六間三在中菴は北向面十間半、奧行十二間、心甫菴は東向面十四間、奧行十一間半、利德菴は始め竹林菴と號し、西向面九間、東南は土居で限られて居た。勝善院は同面六間、奧行十二間半、海眼菴は同面九間、奧行十四間半、德雲軒は同面七間、奧行九間、海會寺は同面十四間、奧行二十間、集雲菴は外門の東北隅にあり、東西二十六間、南北十四間であつた。(南宗寺諸法度)

第九十五圖版 南宗寺地割圖

 
 
 【海會寺の復興と境内移轉】是等諸塔頭の復興に就いて、最も問題を起したのは海會寺であつた。同寺は正平六年乾峯士曇の開山で、東福寺塔頭莊嚴院に屬し、大町東三丁の邊にあり、東西三十三間、南北四十八間の廣大なる寺域を有したが、(諸事文見記錄)當時清巖宗渭住職し、看坊の幽庵は澤庵と子弟の關係があり、爲めに再興の援助をなさんとした。然るに是より先、富豪谷正安澤庵を開山として一寺を創建せんとするの意があつたので、此機會を利用し海會寺を復興して寺内へ移轉せしめ、同寺址へ新寺を創立して正安の意を達せしめんとし、元和元年八月正安をして判金二十枚(實は銀八貫六百匁)を以て、海會寺と寺地交換の契約を結ばしめた。當時海會寺の新地域は東西二十間、南北十四間であつた。尋いで同四年當寺内へ海會寺を復せしめ、寬永二年二月禪樂寺宗怡、看坊幽庵、長慶寺宗策連署の換地請取書を得、愈々海會寺址へ新寺を創立した。是れ卽ち祥雲寺である。(海會禪寺由緖之略記、本菴諸末寺略傳寫、祥雲寺略記)斯くして海會寺は當寺内へ移轉後は同寺塔頭の一として取扱はれ、寶永八年の本寺末寺改書には、明に塔頭として屆出られ、寬永十一年の南宗寺諸法度にも、南宗寺塔頭として取扱ふに毫も不都合のない旨を記した。(南宗寺緖法度、本末雜亂改正記)
 【海會寺の不服】然るに海會寺の客殿は大德寺塔頭天瑞寺の客殿に移され、龍興の山號は南宗寺に奪はれ、寺領も亦南宗寺に於て處分し、印狀を始めとし、開山の法衣、念珠、過去帳等に至るまで、澤庵清巖との兩人嚴重に封函し、之を南宗寺内に保管し、曝暑の際と雖も、監視を附して海會寺側の瞥見をさへ許さなかつた。(本末雜亂改正記、堺御奉行所江差上ル訴狀控)斯くして海會寺では開山の遠忌に法要を行ふ事も出來ず、幽庵の弟子士艮首座大に之を怒つたが、當時澤庵の勢力強く如何ともせられなかつた。偶々正保二年澤庵の示寂に際し、直に南宗寺境内を退き、隣接大安寺の一隅に小庵を結び、開山の木像を始めとして、海會寺の什物を取出し獨立を企て、【末寺復活の訴訟】同四年正月寺社奉行所へ末寺復活確認の訴訟を提起した。此訴訟は板倉阿波守、井上河内守の掛りで、或は兩者を對決せしめ、或は幕府の公簿を參照した結果、訴狀を提起してより十四年後の萬治四年四月に至り、兩寺社奉行より判決を下され、卽ち海會寺の獨立を認め、舊の如く東福寺莊嚴院末とし、寺地は依然南宗寺境内たるべきことゝせられた。(本末雜亂改正記、海會寺之儀に付江戸願一件幷御裁許狀之寫)斯くして多年の紛紜解決し、海會寺南宗寺境内を占めつゝ塔頭を脱することとなつた。
 諸塔頭の復興と整理とは、澤庵によつて實現せられたが、深く將來を憂へて、元和五年五月大仙院宗印、芳春院宗珀、高桐院宗良等より、【獨住地】南宗寺澤庵在世中は之を獨住地とし、其歿後は大用庵、松源院、養德院、大僊院と同じく、三玄、古溪兩派の輪番地とすると云ふ連署の契約書を提出せしめ、以て將來軋轢の禍根を絶つた。(大德寺執事狀)
 【當寺法度の制度】次いで寬永十一年九月朔日澤庵は二十九箇條より成る法度を制定して、當寺の據るべき規準を示し、復興事業は内容外觀共に完璧を見たのである。
 次いで正保二年澤庵遷化の翌年一派の長老等相議して、【中興開山】和尚を當寺の中興開山と定め、位牌を開山堂に安置した。(東海和尚紀年錄)紫野の喧齋、大佛工師法橋康知をして木像を造らしめて之を寄進し、天祐紹杲は掛眞料として白金二百三十有餘兩を寄附した。次いで圓相を文庫に、木像を祖塔の側に安置し、同三年七月開眼供養を修行した。爾後澤庵の年月の忌齋及び諸般の佛事は、總て始祖大林和尚同樣に扱つた。(澤庵和尚木像胎内書銘)【輪番制】澤庵歿後の南宗寺は輪番制實行せられ、江月宗玩以下七十有餘世の交替を見た。(南宗寺歷世年譜)
 【清巖復興に努む】清巖宗渭は當寺内に德泉菴及び臨光庵を開き(松江宗安墓誌)又正保四年六月海部屋甚右衞門中村家久)の喜捨によつて、山門卽ち甘露門を造營した。(南宗寺山門棟札)【江雪十境及び諸堂の稱號を定む】江雪宗立は明曆二年十二月曩に第二世笑嶺和尚が名づけた當寺十境及び諸堂稱號の亡はれたるを遺憾とし、古記を搜つて十境と諸堂との題銘を定め、揮毫を諸方の耆宿に需め、自らも亦足らざるを補ふた。境内の變遷により、もとの萬代山、宿院の兩所を除き、新に翫月橋と功德海とを加へて十九軸とした。今左に其名稱と執筆者を擧げやう。
   潮信橋(山 門 前)  清巖    翫月橋(總 門 前)  實堂
   金剛峰(金 剛 山)  實堂    雙峨峰(二 上 嶽)  江雪  大仙嶺(仁 德 帝 陵)  清巖    放生池(鎭 守 祠 前)  傳外
   小書院(梅   影)  僊溪    大書院(正 法 眼 藏)  玉舟
   方 丈(獅 子 窟)  天祐    功德海(西   海)  江雪
   山 門(甘 露 門)  玉舟    鐘 樓(坐 雲 亭)  天室
   佛 殿(大 雄 寶 殿)  清巖    開山塔(曹   溪)  江雪
   護國廟(鎭 守 祠)  僊溪    東 司(妙   觸)  翠巖
   浴 室(清 淨 心)  乾英    衆 寮(十 方 同 聚)  清巖
   庫 厨(禪   悅)  天堂
 等である。敍上の中曹溪の分には、特に明曆第二歳舍丙申仲冬二十七日龍興住山江雪宗立書とし、執筆の歳次を明記して居る。(南宗寺十境及諸堂題銘箱書、同題銘十九軸、全堺詳志卷之上)
 【天倫の重興】次いで第二十七世の住職天倫宗忽は中村宗治(法號宗貞)の寄進により再興工事に着手し、延寶七年大悲殿、開山堂、祠堂等の寺容を舊觀に復した。(天倫和尚語錄、法鑑禪師年譜)而も德川時代二百數十年の間隆替變遷の數を免れず、【諸塔頭の變遷】寬永十一年の南宗寺諸法度には九塔頭を擧げ、其中海會寺は獨立し、德泉菴は慶安元年、臨江庵は寬文年間に創立せられて塔頭に加はり、貞享四年八月薩州侯の祈願所として、密玄宗要によつて本源菴創立せられ、(堺史料類纂)十一支坊となつた。【元祿年中の塔頭】元祿二年の堺大繪圖には、在中、寶光、德泉、集雲、厚德、海眼、本源、心甫、臨光等の諸菴と勝善院の名が見え、寬永の塔頭移春菴利德菴德雲軒の名を沒し、新に本源、寶光の二菴が加はつた。寶光菴山本堅峰の隱栖寂照軒を改めて寺院としたものである。(堅峰全圖居士畫像贊)元祿八年の堺繪圖には利德菴の名再び現はれ、寶永元年の堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳に移春菴見え、新に吸江菴の名が現はれ、德泉菴内に圓成菴の名がある。享保三年八月本源菴は本源院に、海眼菴天慶院と改稱した。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)天慶院高志芝巖の別墅を移して再建したもので、時の住職大拙義戒が改稱したものである。(全堺詳志卷之上)斯くて塔頭も次第に整理せられ、【弘化年間の塔頭】弘化三年十二月の寺院組合帳に據ると、當時塔頭は天慶院在中菴心甫菴吸江菴集雲菴德泉菴、臨光菴、寶光菴本源院勝善院厚德菴移春菴等十二支坊の名稱が見えて居る。是等の塔頭の中には長藏月の間に、世態の變動と共に屢々無住或は兼住の時代があつた。
 【開山堂の修復】開山堂は延寶六、七年の交を始めとし、享保、明和、天保年中屢々修復を加へられ、(棟札銘)【大林和尚の塔牌成る】又同堂に安置せる開山大林和尚の塔銘牌は、承應三年武野宗朝が祖父紹鷗の百囘忌法要を營まんとするに當り、造立したものである。(大林和尚塔銘幷序)
 【東照宮社殿造營】開山堂の北方に隣して東照宮の廟がある。現在の社殿は文化十三年の創建に係つてゐる。當寺は幕府巡見所の一に加へられ、(文化十年手鑑、寺社役覺書)奉行新任の際には參拜を例とし、(寺社役覺書)【奉行及び惣年寄の參拜】正月には奉行及び惣年寄等參拜し、特に四月十七日權現祭には奉行自ら之に臨み、市民一般の參拜を許した。(一色山城守御用書類)【無銘塔と家康に關する傳説】開山堂床下の無銘卵塔安國院無銘塔といふ。寺傳元和元年大阪夏ノ役、德川家康平野に陣したが、敵方の地雷火に襲はれ、身を以て葬輿に乘り、遁れて蕀池に至つた。偶々後藤基次の紀州より歸來するに出會し鎗を以て其輿を刺され、終に起たず、侍臣竊に遺骸を奉じて當寺に入り、之を昭堂の下に斂葬した。役後之を久能山に改葬し、更らに日光山に移葬したと云はれてゐる。(明活三十五年寺院提出書類)一説には其際堺絲割符商人に命じ、密に遺骸を此處に葬り、上に紫雲石を置いたが、當時之を知るものなく、唯石を祀ること神の如く、頗る鄭重を極めたが、(絲割符由緖書)後此神石を幕府より日光廟に移すことを命ぜられ、絲割符年寄並に天神常樂寺の僧侶は之を供奉して同山に赴いた。(絲割符由緖書、臺德院殿堺御政所江入御之舊記其他)是實に家康の遺骸を改葬せんが爲で、此祕密の由緖により爾後絲割符年寄は每年正月交互に參府謁見の上、日光廟に參拜し、當地に在る年寄は當寺に參拜するを例とした。(絲割符由緖書)前記秀忠、家光父子の臺輿當山に入つたのは、實は此無銘塔を拜せんが爲であつたと云つてゐる。然し何れにしても取止めのない風説に過ぎなかつた。【德川時代末期の狀態】德川幕府末期第八十六世剛堂宗剛以後、卽ち天保頃より明治維新後に亙つては輪番住職の名さへ明瞭にされてゐない。恐らくは久しく無住となつたものであらう。
 【維新後の狀態】明治維新排佛毀釋の際にあつては、反つて其擧を喜び、寺僧は明治元年鎭守八幡宮を主體として、之を神社に變改せんとし、既に願書を提出するに至つた。然るに此議を探知した淺井某は、信徒日野屋又七に通じ反對運動を起し、(友淵楠麿氏談話)當局に對して八幡宮は山本琳昌個人の寄附で、南宗寺の本體に非らざるを主張して覺書を提出し、一面寺内に神社を存してゐるのは、物議を釀す基なりとて、もと念佛寺奉祀の辨財天像を得て社殿に納め、辨天堂に更へんとした。爾來幾多の波瀾を惹起したが、遂に又七の誠意を認められ、同年十一月四名の住僧は、大德寺の高桐院以下の塔頭へ、謝罪狀を出して事件は解決を告げた。八幡宮の神體は又七方に遷され、翌二年四月辨財天の遷座式が擧行せられた。(友淵氏文書)此事件以來大德寺に於ても輪番制度の非を悟り、爾後一定の住職を置くことゝなつた。(南宗寺史)【大德寺派の專門道場となる】斯して亦、明治二年本山一派の專門道場を建て、(明治三十五年寺院提出書類)牧宗翌三年入寺し、禪堂方丈の改築に着手し、(喜捨簿)又明治初年本源院の梵鐘を買收し、新に鐘樓を建築した。滴水は牧宗に次いで力を經營に盡し、(滴水禪師遺事)珴山其後明治二十四年當寺に入り、同二十六年澤庵の二百五十囘忌を修した。(峨山禪師言行錄)
 明治九年より同十年に亙つて、【博覽會場】寺内に堺縣主催の博覽會が開催せられた。【實相菴移轉再興】實相菴が當寺内に移轉されたのは、此時會場の茶席に充てんが爲めであつた。同菴は千利休が、鹽穴寺に造設以來既に久しく荒廢して、殊に明治初年の交には、屋宇壞れ、壁落ち、復修理を加ふる者もなかつたが、(明治三十五年寺院提出書類)此機會に日下元隆、竹中作五郞、古家彌太郞、赤澤哲三郞、正井喜平治等瓶笙社同人の主唱と盡力とにより、茶席と、俗に金龍水と稱する四疊半の次の間とを、當寺に移轉せしめたものである。(明治三十五年寺院提出書類、南宗寺史)博覽會開催中は、每日釜を懸けて茶席を開いた。爾來一、三、五の月には二十八日の利休忌、二、四、六の月には十九日の宗旦忌に茶會を催すことを例としてゐる。(南宗寺史)
 前代に在つた諸塔頭も、【維新後の塔頭】明治維新前後には本坊と同じく荒廢に歸した。卽ち集雲菴は全く退轉し、其他も多くは荒廢し、僅に德泉菴寶光菴天慶院臨江菴等を殘すのみとなつた。(社寺明細帳)
 天文二年此地の阿佐井野氏が、【南宗論語】論語集解二冊を上梓したのは我國古刻史上顯著なる事蹟である。其版木何時の頃よりか當寺に傳はつたのを、文化八年仙石政和飜刻し、(飜刻南宗論語)明治二十五年十月細川潤次郞亦數十部を再摺した。大正五年八月に至り住職梅山玄秀等重ねて之を再摺して有志に頒つた。(天文板論語考、大正五年刊天文板論語序)
 【風致】當寺往時は南に鹽穴池を湛へ、西に幅員十六間の公儀堀あり、堀に一橋を架して臨江庵に通じ、境内に幅三間、長さ二十九間半の水道を通じたが、(元祿二年堺大繪圖)今は東南に土居川を繞らし、境域一萬九十坪餘を占め、佛殿、方丈、昭堂、僧堂、東照宮祠、辨財天堂、影堂、坐雲亭、庫裏、茶室、浴室、鐘樓、總門、山門等布置せられ、【本尊】佛殿中央には本尊釋迦牟尼佛、左右に文殊、普賢の兩菩薩を、方丈内陣中央には華嚴會上釋迦如來を安置し、昭堂に開山普通國師の木像、左右に毘沙門天及び澤庵和尚の木像を祀つてゐる。【什寶】什寶の主なるものに、華嚴會上釋迦如來木像一軀、鍍金毘沙門天立像一軀、同上厨子(外面青貝總繪内部土佐繪)、傳空海辨財天座像一軀、韋駄天立像一軀、開山普通國師木像一軀、澤庵和尚木像一軀、顏輝筆達磨畫像一幅、雨宮元叔筆十六善神一幅、唐畫觀音像一幅、同釋迦誕生繪一幅、同出山釋迦像一幅、顏直筆野臺繪一幅、唐小僊筆漁樵問答二幅對、狩野元信筆達磨像一幅、雲谷等與筆十六羅漢十六幅、伊達綱宗傳來達磨外猿鶴圖三幅對、大應國師自畫像一幅、大燈國師畫像一幅、古嶽和尚自贊畫像一幅、大林和尚自贊畫像一幅、徑山虛堂和尚畫像一幅、三好長慶畫像一幅、山名豐國畫像一幅、小出吉英畫像一幅、大燈國師墨蹟一幅、大鑑禪師清拙和尚筆漏月菴三大字一幅、古嶽和尚筆大林號偈一幅、後奈良天皇綸旨一幅、大林和尚禪師號宸翰一幅、大林和尚筆偈一幅、同遺偈一幅、大林和尚書狀(圓光座元宛)一幅、同(宗忠宛)一幅、僊嶽和尚筆證明一幅、雲英和尚筆佛祖正傳宗脈一幅、澤庵和尚筆近衞關白(信尋)駕拜謝偈一幅、同和尚筆圓相一幅、同和尚筆與雲英長老偈一幅、同和尚書狀二幅、玉舟和尚書狀一幅、江月和尚書狀一幅、澤庵和尚筆龍興山南宗寺諸法度一册、同和尚筆南宗寺地割之圖一鋪、天文版論語板木二十三枚、泉州龍山二師遺藁板木十六枚、三好長慶傳來躑躅胴陣太鼓一個等がある。【清拙和尚筆漏月菴書幅】就中清拙和尚の墨蹟漏月菴三大字は曆應二年五月十七日京都建仁寺の禪居菴で入寂した臨終の日に、小笠原貞宗に與へた絶筆で、三大字を橫書したものである。後足利義政の手に歸し慈照寺東求堂の茶室の扁額として揭げられたが、薨後再び小笠原家に復歸し、軸物として保存せられ、轉々して當地の中村家久之を購ひ、享保十年十月家久の五十囘忌に、其孫宗雪之を寄進して爾來當寺の什物となつたものである。
 【墓碑】墓地には牡丹花肖柏武野紹鷗千利休並に千家一門の塔、茶宗隱岐宗沕壽碑、堺奉行贄安藝守正壽、中村一數(夷竹道白居士)、同家久(本室宗有居士)、歌人尾崎正明、國學者渡邊重春等の墓碑がある。