具体的に慶長三年を例にとってみると、秋田氏の知行高五万二四四〇石に対し、同氏が代官として任命された太閤蔵入地の石高は二万六二四四石八斗三升であり、秋田領の二分の一に当たる石高がそれに該当した。そして、この二万六千石余の太閤蔵入地の二割に当たる五一九九石五斗が年貢として決定され、この年貢から約二五パーセントに当たる一二七八石六升が杣人(そまびと)の飯米(はんまい)、秋田山から船着き場への材木の山下げ代、かすがい等の分として差し引かれ、残った四二二一石余から二三三三石八斗五升一合が秋田領より越前の敦賀湊までの運賃として支払われている。
この秋田から敦賀までの廻漕は、表3のように秋田氏自身のほか、小野寺、戸沢、本堂、六郷、仁賀保、赤宇曽、滝沢、内越、岩屋、そして津軽氏が担当しており、彼らは杉板を秋田山から山下げし、それを秋田領内の港から敦賀港へ廻漕するまでの役割を担っていた。「秋田家文書」所収の文禄五年分の「於秋田御材木入用之帳」によれば、杉板の運上について「右之板隣郡之衆へ渡し申候分」と記されている。津軽氏のほか秋田・仙北・由利郡の大名・小名は「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として編成され、その新たに「隣郡之衆」として編成された大名衆をもって杉板を運上している。この「隣郡之衆」による杉板運上は、以後慶長四年まで継続しているが、伏見作事板は、北奥羽の大名・小名の場合、秋田実季らの大名を個人的に秀吉政権に直結させて杉板の運上を実現するのではなく、あくまでも「隣郡之衆」として編成することによって実現することを意図していたのである。前述のように、秋田領内に設定された太閤蔵入地は、まさにこの杉板廻漕のために設定されたものであって、朝鮮出兵を含めた全国政権としての秀吉政権の維持のための機能をこの秋田氏の太閤蔵入地は担っていたのである。
表3「隣郡之衆」に賦課された伏見作事杉板 |
年代 大名 | 文禄4年 | 慶長元年 | 慶長2年 | 慶長3年 | 慶長4年 | 計 |
秋田実季 | 820間 | 225間 | 350間 | 350間 | 350間 | 2095間 |
小野寺孫十郎 | 90 | 145 | 145 | 145 | 525 | |
戸沢九郎五郎 | 100 | 160 | 150 | 160 | 570 | |
本堂伊勢守 | 22 | 66 | 66 | 66 | 220 | |
六郷兵庫 | 11 | 33 | 33 | 33 | 110 | |
仁賀保兵庫 | 10 | 30 | 30 | 30 | 100 | |
赤宇曽孫次郎 | 11 | 33 | 33 | 33 | 110 | |
滝沢又五郎 | 7 | 21 | 21 | 21 | 70 | |
内越孫太郎 | 4 | 12 | 12 | 12 | 40 | |
岩屋孫太郎 | 2 | 6 | 6 | 6 | 20 | |
津軽右京亮 | 90 | 145 | 140 |
なお、太閤蔵入地は、この秋田氏のほか、由利郡や仙北の小名、そして津軽氏の領内にも設定されていた。津軽氏は、知行高三万石に対し約一万五〇〇〇石が太閤蔵入地として設定されていた。この津軽氏の太閤蔵入地も伏見作事板の廻漕費用に充当されていた。設定の目的は、主に太閤鷹の保護と上方への運搬、さらに日本海側に位置する北羽地方の大名・小名たちと同様「隣郡之衆」の一員として遂行する伏見作事板の廻漕であり、津軽氏の太閤蔵入地はそれら課役を遂行する際の財政補てんとなっていたのである(長谷川前掲書)。
津軽為信は、慶長元年には九〇間、慶長二年から四年までは一四五間の杉板を運上するよう下命されている。しかし、津軽氏は、慶長元年に秋田山から杉板を受け取り廻漕しただけで、それ以後慶長二~四年までの分について、「此板津軽請取不申候」(慶長二年)、「つかる手前へ可相渡御朱印御座候条、度々申届候へ共、于今不請取、秋田山中ニ在之」(慶長三年)、「津軽右京山出し不仕候」(慶長四年)と秋田氏の算用状には記されている。津軽為信は、再三にわたる秋田氏からの催促にもかかわらず、この三年間秋田山から杉板を受け取らず山出しをしていない。
理由は、津軽氏が独立大名たらんとして「隣郡之衆」として編成されることを拒否したとも、また、この時期津軽氏が庇護していた比内の浅利氏と秋田実季との間に浅利騒動が起こり、秋田氏との関係が悪化したためとも考えられている(『能代市史』資料編 中世二)。慶長三年は、浅利騒動の裁定のため津軽氏が庇護していた浅利頼平と秋田氏が伏見にやって来ており、このような自分に不利な時期に為信はあえて上洛を避け、また、対立する秋田氏を中心とする「隣郡之衆」として編成されるのを拒否したものであろうか。
なお、南部氏も秀吉から伏見作事板の運上を下命されている。慶長二年正月二十五日、南部信直の子利直は、作事板を秋田山にて実季から受け取り、京に廻漕する旨の朱印状を発給され、実際、米代川中流域に当たる山中で伐採し、それを能代港まで川下げして敦賀へ廻漕した。また、翌慶長三年、秋田・仙北の大名・小名衆とともに伏見作事板運上の秀吉朱印状獲得を待ちわびていた南部信直は、秋田氏や小野寺氏に遅れること三週間後の三月二十七日、次のような秀吉朱印状を発給された。
図31.南部信直へ杉板伐採と廻漕を命じる豊臣秀吉朱印状
このように南部信直は、秋田・津軽・南部領内のいずれの山からでも杉を伐採し敦賀まで廻漕するよう命じられているが、同年分の「於秋田御材木入用之帳」には南部信直が廻漕したことがまったく記載されていない。また、前年の慶長二年(一五九七)には秋田山で伐採したものが、この年は秋田・津軽・南部領のどの山でも伐採を許可されており、南部信直は秋田氏を中心とする「隣郡之衆」に組み込まれておらず、単独で杉を運上していたのである。南部領には太閤蔵入地は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・由利・津軽の大名らとは別に、直接南部氏に杉材を求めるルートを確保していた。
秋田山からの杉板の廻漕の担い手は、慶長二年を例にとれば、近江国では前川五右衛門・二郎右衛門、越前国敦賀では道川三郎左衛門・高嶋屋(たかしまや)次郎左衛門、越中国では柴草屋(しばくさや)六兵衛・氷見(ひみ)五郎兵衛、出羽国庄内では佐藤助九郎、能登国では酒屋兵衛らであり、いずれも日本海沿岸部の豪商であった。特に、敦賀の道川三郎左衛門は、南部利直から慶長五年七月二日付黒印状によって船役の免許状を獲得し、領内のいずれの湊へでも出入りすることが許可されている。奥羽の諸大名は、これら北国海運を担っている豪商との深い関係を持っていた(山口徹『日本近世商業史の研究』一九九一年 東京大学出版会刊)。