元禄の大飢饉と家臣召し放ち

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元禄八年(一六九五)の凶作は、従来貯蔵していた米穀を売り払ってしまうという藩の失政も手伝って大飢饉を引き起こし、領内で多数の餓死者を出した(その被害状況や飢饉に対する藩政の対応については、別項において改めて触れる)。
 この飢饉は領民だけではなく家臣団にも大きな影響を及ぼした。家臣団に向けて出された最初の達(たっし)は元禄八年九月朔日のもので、不作への対応として節倹を命じ、さらに先例遵守を求めている。さらに九月二十八日には知行米を規定どおりに渡すことができないため家中に節倹を求めるものと、一〇〇〇石以上の大身の家臣に対しては、来月朔日以降知行米を渡すという達が出されている。さらに十月朔日には、知行取に対しても飯米を与える措置が取られており、状況が深刻化したことがうかがえる。
 知行米削減が具体的に打ち出されたのは、十月七日に扶持米取に対してのものが最初であり、不作につき扶持米取の人々に対して、当面の間切米(きりまい)の月割支給、二人扶持以上は半分、それ以下は一〇分の一の上納、賄扶持削減、職務怠慢者の詮議などが定められている。一方知行米取に対しても、十一月二十八日に、知行半減などが伝達された(資料近世1No.八六八)。またすでに前借りしている分については来年次の返納を免じ、また軍用銀を今・来年分を赦免し、軍用に馬を所持すべき五〇〇石以上の者に対して所持を勝手次第としたこと、小普請銀を払っている者に対しては今・来年分を半納とすること、儀式の軽減などの施策が打ち出された(「国日記」元禄八年十月七日条)。消費都市である江戸詰め家臣たちは、国元より優遇されているものの、知行俸禄は減額して支給された(「国日記」元禄八年十二月九日条)。藩では、当初下級家臣である扶持方の人々のみを対象とする知行米削減措置によって藩財政逼迫を切り抜けようとしていたが、その範を権力の中枢を担っている知行取層まで拡大せざるをえなくなり、その見返りとして軍役を軽減する措置をとったものであった(浪川健治「津軽藩政の展開と飢饉―特に元禄八年飢饉をめぐって―」『歴史』五二)。
 さらに藩では、家臣召し放ち(家臣に対して暇を出すこと)によって飢饉とそれに伴う財政難に対処しようとする。まず、元禄八年十月八日、当年はまれな不作であって、上級士も逼迫するという状況でもあり、各組の病者などに対して暇を出すので、今日中に対象者の名前を書き出すよう達した(「国日記」元禄八年十月八日条)。十月十日には早くも暇を出される者が現れ、以後国元江戸を問わず不作を理由に暇を出される者が続出した(資料近世1No.八六三)。
 さらに、元禄九年四月十三日・十七日・五月九日には馬廻組手廻組などの与力七一人(同前No.八六四)、八月二十三日には留守居組四一人(同前No.八六五)、同二十四・二十六・二十八日には手廻組馬廻組に属する家臣に対して暇が出された(同前No.八六六・八六七)。
 ただ、この時暇を出された者の多くが藩から扶持米等を支給されていた職人町扶持人足軽小人(こびと)、中間(ちゅうげん)であり、藩士が大量に暇を出されたわけではないようである。藩が勘定奉行に命じてまとめさせた「減少人数」の総計は一〇六〇人で、そのうち国元の者が一〇一二人、江戸での者が四八人で、知行の総計は三万八七五七石五斗七升五合となり、実際に支給される米のでは二万三七四四石五斗四升五合に相当した(「国日記」元禄十年二月七日条)。元禄八年段階の全藩士知行高が一四万四一六五石四斗二升五合である(「元禄八乙亥十一月廿一日改弘前家中分限帳覚」『津軽史』八)から、減少人数の知行は全知行高の二六・五パーセントを占める。暇を出された一〇六〇人が藩士全体に占める割合は、元禄八年時点での藩士の総人数は一九三〇人である(同前)から、五四・九パーセントに当たる。暇を出された人数と知行高の割合を勘案してみると、知行高では平均三六・六石で、召し放ちの主要な対象が下級家臣たちだったことがらかである。
 家臣団召し放ちによる影響は支配機にも影響を与えることになった。弘前城下においては、町同心が暇を出されたことにより城下の治安維持に支障をきたすことになり、そのため、元禄九年一月二十一日には出火の際の火消役を臨時に、昼夜の別なく郭外・侍町・町中を見回るよう命じたり(「国日記」元禄九年正月二十一日条)、「町廻常番役」(「盗賊改役」)を設け、同様に郭外・弘前町中・侍屋敷の見回りを命じる(同前同日条・二十四日条)などの対策がとられた。しかし、従来の体制に比較して弱体だったことがらかにされている。また蟹田・野内・今別・十三・大間越町奉行配下の同心が新たに命じられていることから(同前元禄九年二月十日条)、地方でも治安維持に腐心していたことがうかがわれる。
 組士(くみし)が多く暇を出された番方(ばんかた)では、元禄九年九月朔日に組の再編が行われた。その特徴は、親が別に何らかの役職についている子供が多く組士となっていることである。これらいわば親がかりの組士は、「減少」による一般組士の不足を補うとともに、知行宛行の必要がなかったから、藩財政面では経費節減になった。番方召し放ちの影響が最もよく表われた留守居組の場合、四一人が暇を出されているが、これはそれまでの留守居組士の全員に当たると思われる。組士三六人の内三四人が親がかりの組士で、年齢のわかる者三三人の平均年齢は十二・五五歳、中には二歳・三歳・五歳・七歳の者までおり、とても組士として勤まらない者が含まれていた。さらに、手廻組馬廻組留守居組の中には、組頭のいない組もあった。
 馬廻組士の二〇人が組士からはずれて代官となり、郡奉行の支配に入ったことも支配機上見逃せない(「国日記」元禄九年八月二十六日条)。馬廻組士が代官を務めるということは従来もあったが、それは一時的に務めるという場合で、馬廻組士があくまでも本来の役職であった。藩ではこの事態に配慮して、藩主信政から家老津軽広庸(ひろつね)に対して、今回代官になった者の子供の番入り(手廻・馬廻組士になること)はそのままに差し置く一方、また今後代官の子供の番入りは従来どおりにはいかないので心得るようにと命じている。(福井前掲「津軽藩における支配機の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として―」)。