寛政五年九月、藩は永久在宅を打ち出し、強力に土着策の推進を図ったが、翌十月、それを徹底させる政策の一環として、家中潰町(かちゅうつぶれまち)政策を行った。同年十月の「被仰付候御家中潰町之事」(『平山日記』)によれば、次の三六の侍屋敷が町内から消滅したという。
在府町の後ろ通り・在府町新割町・馬屋(まや)町坤の櫓の下・馬屋町橋東の方の行角・馬屋町の中町・荒町(あらまち)へ通る古川通り・荒町川端町・鷹師町の細小路・鷹師町中ほどより江戸町への通り・袋宮寺山道・五十石町の上細小路・五十石町の北詰め行き止り・五十石町より袋宮寺へ通り・若党町の後ろ町・春日町・小人町・長坂町・御徒町(おかちまち)・御徒町川端(かわばた)町・徳田町・田代町・山下町・西川岸町・瓦(かわらけ)町上町・瓦町中町・瓦町南町・瓦町北町・田中町・柳町・坂本町・緑町・片山町・植田町・山道町・住吉町・桶屋町川端町
全体として、城の東側の町域と、宝永期に形成された侍町が対象となっている。そしてこれと並行して屋敷替えも行われ、在府町・相良町・百石町・蔵主(くらぬし)町・笹森町については、これまで一〇〇石以上金一五両以上の藩士が居住していたのを、御目見得以上の藩士に屋敷を与えることとし、代官町・若党町・五十石町・鷹師町・馬屋町については御目見得以下ならびに諸組諸支配の藩士に屋敷を与えることとした。
「秘苑」では、城下の荒廃した状況を、上級家臣の屋敷跡に足軽小人や小給の者たちがわずかな家作をして住居している。また、潰れ町には垣のようなものもない。一円に樹木はなく、草がもうもうと生じ、虫の声ばかりが寂しく聞こえ、狐や狸のすみかとなっている、と記している(「秘苑」寛政六年六月四日条)。藩士が農村部に在宅せざるをえない状況を作り出す潰町政策によって、城下の景観は大きく変容したのであり、城下町の機能にも影響を与えた。武家屋敷が城東を中心に縮小され、下級家臣が城下のあちらこちらに居住している状況では、従来の整然とした町割はくずれてしまったといっていい。これまで述べてきたように、藩士土着策が蝦夷地出兵を背景として打ち出された政策とすれば、蝦夷地出兵は弘前城下の在り方をも変えたのである。
なお、当然の事ながら町屋敷にも変動があった。新寺町・平岡町・西大工町・紺屋(こんや)町の内織屋掛・新(あら)(荒)町・富田町が潰(つぶ)れ地とされ、住民は他町へ引っ越しを命じられている(「秘苑」寛政七年三月二十五日条)。
ところで、この土着策が実施されるということは、城下で家を壊し、農村部で新たに家を建てるということを意味し、そこには莫大な数の職人が必要となってくる。つまり、土着策推進には職人の確保が不可欠であるということである。しかしながら、寛政六年(一七九四)にはすでに困難な状況が生じてきている。「秘苑」同年二月十四日条によれば、城中の普請と在宅藩士が勤仕のために使用する長屋の建設のために諸職人が不足している。したがって、城下の職人は使えないから、それらが済むまで他の一般の普請は差し止めとし、在宅の者は「在大工」を雇うなど「村手ニ而取繕」うようにとの触が出されている。果たしてこのような状況の中で、次々と農村部における新規家作などに対応できたのであろうか。寛政六年の段階で、すでに藩士土着策実施のための基盤づくりにおいて、職人不足という大きな矛盾を抱えていたのである。
さて、寛政十年五月二十七日の土着策廃止令によって、在宅藩士たちは再び城下に居住することとなった。同年七月二十七日の御目付触で「禄定町割(ろくさだめまちわり)」が定められ、在宅藩士の移転先は以下のようになった(『御用格』寛政本)。
元寺町 | 三〇〇石以上 | |
蔵主町 | 二〇〇石以上 | |
元長町 | 二〇〇石以上 | |
在府町 | 三〇〇石より一〇〇石まで ただし小路の分は五〇石。 | |
相良町 | 三〇〇石より一〇〇石まで | |
馬屋町 | 三〇〇石より一〇〇石まで | |
百石町 | 一〇〇石 | ただし鞘師町通りは一〇〇石、細小路大通・鉄砲町入口は五〇石、そのほか元鞘師町御役柄小給の者へ割り渡し。俵子四〇俵・金六両以上で現在住居の者はそのまま。 |
笹森町 | 一〇〇石 | |
長坂町 | 一〇〇石 | |
森町 | 一〇〇石 | |
若堂(党)町 | 一〇〇石 ただし四丁目までは五〇石、五丁目は御目見得以上小給の者。 | |
鷹匠町 | 五〇石 ただし細小路は五〇石以下、小給御目見得以上。 | |
徳田町 | 五〇石 |
この規定ではさらに、これら一三町以外は御目見得以上小給の者は打ち混じり住居すること、一〇〇石の町にこれまで住居していた二〇〇石から五〇石までの者はそのまま住居すること、五〇石以下の小給のため一三町に住居できない者については引き移ることとし他の町に代屋敷を与える、これまで御家中町に住居していた諸組足軽については弘前三街道入り口に長屋を取り立てるのでそこへ引き移ること、同じく諸組支配の者で御目見得以上の者は屋敷割の末に割り入れるが、不足分は品川町後通御徒町に屋敷地を与える、などのことが指示されている。
このほか「禄定町割」と同時に新しく家作を行う場合の規模についても、給禄高の大小によって以下のように定められた(同前)。
母屋五〇坪 二〇〇石 母屋四〇坪 一五〇石 母屋三〇坪 一〇〇石 母屋二五坪 五〇石
母屋二〇坪 右以下一統
母屋二〇坪 右以下一統
以上の一三町を「禄定町」として城下町再編の基本とし、潰れ町となっていた町内はもとの侍町に復活している。
しかしながら、このような町割・屋敷割にもかかわらず、在宅地から城下への移転は必ずしもスムーズには進まなかった。城下からの移転時と同様、侍屋敷地での新規家作のためには多くの職人が必要とされたものの、それが充足されなかったからである。職人の調達ができなかった大きな理由の一つは、蝦夷地警備にかかわっての職人の雇用であった。
寛政十一年(一七九九)四月一日の触れによれば、昨年在宅引き揚げ・禄定町割を仰せ付けたが、「公儀御用」遂行のため、なるべく家を取り壊さないで対応したいとしている(「秘苑」寛政十一年四月一日条)。前節で述べたように、寛政九年から弘前藩は箱館警備を命じられており、また同十一年十一月からは、同年一月の東蝦夷地の仮上知に伴ってウラカワ(現北海道浦河郡浦河町)までの警備を命じられている。ここにみえる「公儀御用」とは東蝦夷地仮上知の動向とかかわるものであり、幕府から蝦夷地警備にかかわる長屋切組を命じられ、さらに諸大工・人夫等を蝦夷地に派遣するように命じられたことから、建築用材木・諸職人の需要が高まり、結果として侍屋敷の建設が順調に進まなかったのである。
寛政十一年末、在宅引き揚げの者は、たいていが仮小屋に住居したり、親類に同居したり、さらには町々の借家に住みながら新年を迎えたとされ(同前寛政十一年条)、この時点ではまだ土着藩士の城下引き揚げは完了していなかったことがうかがわれる。おそらくその完了は、享和二年(一八〇二)九月に知行の蔵入りがなされたことからみて、このころのことであろう。この年の二月、幕府は蝦夷地奉行(のち箱館奉行)を新設し、東蝦夷地を永久上知としている。藩としてはこの幕府の動向に対応していく必要があったのであり、藩士土着策廃止によって新たな方向性を見いだし、その準備を進めて行かねばならなかったのである。蝦夷地警備の問題は、土着策廃止後も城下の在り方に大きな影響を与えていたといえよう。