このような時期、藩士桜庭太郎左衛門は宝永二年から同七年にかけて三通の「建白書」を藩に差し出している(国史津)。桜庭は為信以来の譜代家臣であり、この時期には藩主信政の近習を務めていた人物である。彼の建白書からは宝永期における藩内の政治・社会状況、そしてその抱える問題点を如実にうかがうことができる。
宝永二年正月二十六日の最初の建白書は、国詰の家中が江戸・上方への公務道中・詰合中の出費を賄うために共同で出資して経費を補填(ほてん)する「茂合(もやい)」において、藩重役と無役の者の間に出金と受け取りをめぐって差別があること、困窮した家中が貸金業者の金に頼り、連帯責任を負った者も難儀していること、家臣の知行米前借りにおいて、その知行米を町人に払い下げた額と家臣に給与する際に換算した額との間に差があり、不当な利鞘を得ているのではないか、という各点を指摘した。そして、こうした状況下で生活が成り立つ家臣は、全体の一〇分の一ほどであると結論づけている。つまり、家臣の窮乏と、家臣間の不公平感が存在するというのである。
宝永五年(一七〇八)、信政の意志により、弘前城の修築を公儀へ願い出ようとする動きが出始める(「国日記」宝永五年八月十九日条)。その財源は、藩士に対して、知行米借上と手伝人足として一〇〇石に付き一ヵ年一二人の差し出し、農民・町人に対しては三年間高掛かり一〇石に付き五匁が徴収されることになり(『平山日記』)、また藩から貸与される夫食(ぶじき)(凶作の際、領主が農民に貸し付けて救済を図ろうとした食料)・種籾の取り立てなどが想定された。
同じ年の十月三十日、家老瀧川統伴(むねとも)は免職、閉門を申し渡された。このほか、家老大湯五左衛門、郡奉行対馬万右衛門、寺社奉行岡三太左衛門ら四二人がこれに連座し処分を受けた。盛岡藩の家老席日誌である「雑書」(盛岡市中央公民館蔵)がこの事件に関して記している(「雑書」宝永五年十二月七日条)。「津軽風説書」とあるように、南部領内に伝わった津軽領の風聞をまとめたものであるが、それによれば、瀧川の免職は青森への新宅取り立てに諫言(かんげん)をしたことが原因であり、大湯は御城御普請役銭徴収について百姓たちが逼迫している旨を訴訟した「もち田」村(津軽領内に該当する村落名は見いだせない)肝煎(きもいり)を独断で籠舎(ろうしゃ)としたことに対し、閉門処分を科せられたものであるとしている。また、家老の盛岡元隆(もとたか)・大道寺直聴・津軽広庸(ひろやす)が、領内から先年の不作の際与えられた御助米と城普請役銭を取り立てるという信政の意向に対して、下々の困窮を理由に拝借米の年賦償還を上申したところ、信政の怒りに触れて前々どおりの御用を命じられなくなったことなどが述べられている。城普請とその財源をめぐって、藩の首脳部内に信政と異なる意見が存在し、それに組みした者が大幅に排除されたといえよう。
消極的な意見を持つ重臣層がいる一方、信政の意向に忠実で城普請に積極的な人々もいた。「御城御普請」の実務を担当していた勘定奉行武田源左衛門ら、郡方・勘定方を掌握してきた出頭人たちがそれに当たる。藩の支配層は、藩主に直結する出頭人グループ、城普請に消極的な門閥層(藩重臣)、桜庭が建白書でその存在を指摘した困窮する藩士層に分かれ、このうち出頭人グループと門閥層が城普請をめぐって対立した。この段階では信政の意向を背にする出頭人グループが、門閥層を抑えたのである。この結果、城普請実現に向けての動きは加速し、十一月二十八日には、藩士に対する借り上げが強化された(「国日記」宝永五年十一月二十八日条)。
このような中、宝永六年(一七〇九)正月、桜庭太郎左衛門は二通目の建白書を差し出した。桜庭は、まず家中の窮乏を指摘し、下級武士の貧困、役料が上納され小身の者の役儀に差し障りが出てしまうことなどを指摘している。次いで村落と農政について過酷な収奪によって逐電する百姓が多いことを指摘し、早急な対策の必要性を述べる。さらに、町方支配・流通機構についても、前年の御用金賦課で青森の町人の中に退転する者が出ていること、過重な役銀のために入津する船が減少し物価が高騰していることなどを述べている。そして、城普請計画とそれに絡んで引き起こされた前年の政争がより危機的な状況を招き、家中窮乏と領内荒廃が進行しているとして、出頭人グループ主導の藩政を批判している。
宝永六年十一月から翌年夏までの津出の見込みによれば、前年に比べて三万石多い一三万石余となり、そのうち売却した後「御城御普請料」に充てられる米は四万石とされた。しかしながら、この見込みは実現可能なものではなかったのである。また、「御城御普請」の財源として見込まれていた百姓からの拝借取り立て分についても、当局者が見込みの甘いことを認める状況にあった(「国日記」宝永六年十二月二十四日条)。さらに取り立てたもののうち、「御普請料米」の一部が大坂の蔵元への借銀返済に流用されるなど、出頭人グループの見込みどおりには行かなかった。
表20 宝永7年津出予定石表 |
払い項目 | 石・斗・升 |
金銀切米代 | 1,530. |
小納戸金代 | 3,956. |
材木入付銀代米 | 4,857. 8. 7 |
浜下米駄賃・運賃金代米 | 3,150. |
松前買物代米 | 40. |
橘屋売貸米 | 4,000. |
橘屋呉服代米 | 348. 3 |
江戸扶持米代竹内 与兵衛取替分 | 1,749. |
大坂廻米 | 40,000. |
江戸扶持米 | 10,000. |
蔵田屋・万屋・早野 ・大原・九屋返済米 | 23,858. 9. 8 |
御普請料大坂廻米 | 40,000. |
10月から現在まで 町米沖出の積もり | 1,500. |
総 計 | 132,094. 1. 5 |
注) | 「国日記」宝永6年11月6日条により作成。 |
このような中、桜庭太郎左衛門は宝永七年(一七一〇)二月十八日付の三通目の建白書を提出する。この中では、領内を覆う困窮と藩士が武士らしさを失っている原因を、素行派の家老で元禄十年(一六九七)に知行を召し上げられ永御暇となった津軽政実(まさざね)が「御仕置之御手伝」を担ったことと、元禄の大飢饉以来の財政逼迫に求めている。政実が藩政の執行者であったことを藩政の乱れの原因とすることは、政実に代表される素行派と、彼らとともに藩政の執行に当たった出頭人グループを非難していることに他ならない。そして建白書提出の理由を知行の借上策によって、江戸・国元ともに困窮の極みに達したためとする。そして、困窮の状況が江戸や他国にも知れ渡っていることなどを述べた後、藩主側近で出頭人グループの「本阿ミ光通・佐々木万次郎」「川原甚左衛門・小川新次郎」らへの合力米を支給することへの不満、「御城御普請」手伝が困窮を理由に一〇分の一免除されたものの、家中救済策が示されず不評であること、表向き加増されても知行米の換金率が下がるために実質が伴わないとして、彼らが十分詮議しないためにそれらが信政の失政ととらえられていると述べる。さらに、出頭人たちが上意に迎合し、さきざきを考えて行動しないと非難する。その上で、打開策として、状況を幕府老中に伝えて大名課役や江戸での交際を控えるべきと主張する。さらに、予定される幕府の巡見使来訪の際、困窮の状態を失政によるものと受け取られてしまうことを恐れている。そして、藩主信政が隠居した場合、隠居料の確保は「御譜代之侍」の召し放ちによるような状況で、新藩主が跡を継いでも領分困窮で「貧士」が多いような状況では、物事がうまく運ばないとする。そして最後に、信政が藩主として仕置に長年苦労したのは忠義の人がいなかったためだとして、「若殿様」信重(のぶしげ)(後の藩主信寿(のぶひさ)、一六六九~一七四六)への取り次ぎを依頼し、筆を置いている。
桜庭の建白書は、信重への提出を目的としていることがうかがわれる。これは、桜庭自身が現在の藩政状況に見切りを付けて、新しい藩主のもとでの藩政の展開に期待し始めていたことを示すものである。桜庭にとって期待すべき藩政とは、建白書の中でたびたび批判の対象としてきた出頭人たちの総退陣と、自らを含む譜代家臣層の困窮からの救済であろうことはいうまでもない。
宝永七年二月二十一日、家中からの借り上げを現行の半分とする旨の達しが行われた(「国日記」宝永七年二月二十一日条)。そして、四月二十九日には、郡奉行から農村に対する米四〇〇〇石の夫食米(ぶじきまい)の貸与が申し立てられた。その理由として、夫食米拝借の返済取り立て、および「御普請料・高懸金」の上納、そして町人からの夫食米の元利返済で、百姓の耕作ができなくなる事態となったため、再び町人に夫食米貸し出しを命じたところ断られたため、耕作の遅滞、荒地の増加が考えられたのである(「国日記」宝永七年四月二十九日条)。このように、領内困窮という状況を背景に、藩政はここに徐々にではあるが転換を始めた。
このような中、「御城御普請」はついに幕府へ申請されなかった。そして、宝永七年十月十八日、津軽信政は弘前城中で死去する。信政を失ったことを契機として、その後の藩政は大きな転換を迎えることになる。