このような状況下、藩では、寛保元年(一七四一)三月、雑説の流布や政治向きのことを批判したり、落書をする者がいるとして、その取り締まりを命じている(『平山日記』)。不穏な動きが民衆に広まることを恐れたからに他ならない。寛保二年十一月には、相次ぐ不作によって困窮する農村を救い、田畑への手入れを求める対策として、家中・寺社・町方・在方から、一人毎月銭一文ずつを三年間納入させ、集まった金で米を買い、困窮する農民へと貸与することにした(『五所川原市史』通史編1)。
新田地帯を中心に農作物に大きな被害をもたらしたものの一つに「虫付(むしつき)」がある。とくに被害のひどかったのは、「元文の虫害」とよばれる元文二年(一七三七)のものである。六月十二日の時点で、俵元新田の浅井村(あさいむら)(現五所川原市浅井)で虫害が発生した(同前史料編2上巻)。郡奉行や代官の報告(同前)によれば、被害を受けた田は水を落しており、稲一株に一匹から四匹ほどの「栗虫」に似た虫が根に付き、養分を吸い取るため葉は赤くなっていたという。農民たちは、キツネササゲやトコロなど、その葉や茎、根などを用いることで殺虫剤の役割を果たしていた植物を田に流し入れ駆除した(同前通史編1)。このような防御策の外に、藩は虫除けの祈祷札を百姓に配布するなどして、天災に動揺する人心の安定を図ってもいる。
この時期の代表的な凶作・飢饉としては、寛延二年(一七四九)から翌年にかけての飢饉が挙げられよう。寛延二年の春は寒さが戻ったため苗が育ちにくかった。田植えをした後もはなはだ低温で六月中旬まで停滞したが、月末から七月六日にかけて「東風(やませ)」が吹き、それが原因で冷害となったのである。特に外浜の浦町・横内・油川の三組と新田地帯の被害が大きかった。八月に入ると逃散する百姓・町人が相次ぎ、乞食となって領内をさまよい、青森近辺や弘前城下にも姿をみせた。青森では馬喰町(ばくろうちょう)(博労町、現青森市青柳二丁目の一部)・善知鳥町(安方町、現青森市安方一~二丁目の一部)、蜆貝町(しじみかいまち)(現青森市青柳一~二丁目の一部)の家々がほぼ無住となり、往来には盗賊が横行した。藩では救済のために小屋を建てて救米の支給などを行ったが、一人一日一合、一ヵ月一〇日分、一〇歳以上の支給に限定したため、子供の餓死者が増える結果となった。翌年、城下の大圓寺が亡骸を引き取って寺内に埋め、盆中にその供養を行ったが、その卒塔婆にはおよそ八九〇人という人数が書き付けられた。大圓寺が引き取った死体の数でもこれだけであるから、飢饉による人的被害は推して知るべしである(菊池勇夫『近世の飢饉』一九九七年 吉川弘文館刊)。
表28 正徳~宝暦期の津軽領における主な災害 |
年 代 | 月 日 | 災害の種類 | 災害の場所 | 被害の概要・程度 |
正徳元(1711) | 4月 3日 | 風害 | 西海岸 | 破船・難船多数 |
7月 8日 | 水害 | 弘前城下など岩木川・浅瀬石川の高水 | 弘前下町に浸水,田畑にも被害 | |
正徳3(1713) | 4月13日 | 風害 | 弘前城 | 弘前城の屋根が吹き飛ばされる |
6月18日 | 火災 | 碇ヶ関 | 43軒焼失 | |
12月30日 | 水害 | 弘前城下など | 岩木川の高水,橋の流失 | |
正徳4(1714) | 4月13日 | 火災 | 深浦 | 165軒焼失 |
7月12日 | 水害 | 弘前城下 | 岩木川・土淵川高水,浸水,橋の流失 | |
享保元(1716) | 2~ 3月 | 水害 | 岩木川流域 | 岩木川・平川出水,橋の流失,堤防決壊,溜池決壊 |
2月29日 | 風害 | 碇ヶ関,西海岸,青森 | 仮屋・並木松に被害,破船 | |
3月18日 | 火災 | 木作村(木作新田) | 35軒焼失 | |
10月 16~18日 | 風害 | 領内(特に西海岸) | 家屋倒壊,難船など | |
享保2(1717) | 4月20日 | 火災 | 蟹田 | 93軒焼失 |
享保2~7(1722) | 流行病 | 領内 | 「時疫」,藩では5598人に施薬を実施(享保3年) | |
享保4(1719) | 7月 5~ 7日 | 水害 | 岩木川流域 | 岩木川出水,新田地帯に大きな被害 |
風害 | 西海岸 | 破船・難船多数 | ||
7月21日 | 水害 | 堤川 | 堤川出水 | |
9月23日 | 風害 | 外浜・津軽半島西海岸・新田地方 | 家屋倒壊,年貢減収,難船 | |
12月 | 雪害 | 領内山間部 | 凍死,雪崩での圧死合計50余人 | |
享保8(1723) | 3月14日 | 水害 | 岩木川水系流域 | 岩木川高水 |
享保10(1725) | 3月11日 | 火災 | 十三 | 町奉行所を始め,約100軒焼失 |
8月24日 | 風害 | 領内沿岸地域 | 家屋破損,難船多数 | |
享保13(1728) | 7月末 | 水害 | 弘前城下・南津軽・新田・青森 | 河川氾濫,弘前城石垣崩れ,橋の流失,浸水,農作物損耗 |
享保14(1729) | 3月11~14日 | 水害 | 領内河川下流域 | 河川氾濫,新田地帯に大きな被害 |
3月30日 | 火災 | 蟹田 | 116軒焼失 | |
享保18(1733) | 流行病 | 領内 | 感冒流行 | |
享保19(1734) | 9月28日 | 火災 | 弘前城下本町 | 13軒焼失,町年寄松井家ほか,藩医・大商人方が焼失 |
享保20(1735) | 閏 3月18日 | 火災 | 関村(赤石組) | 27軒焼失 |
閏 3月27日 | 火災 | 木作村・上木作村(木作新田) | 96軒焼失 | |
閏 3月28日 | 火災 | 舞戸村(赤石組) | 97軒焼失 | |
4月14日 | 火災 | 深浦 | 46軒焼失 | |
元文元(1736) | 3月24日 | 火災 | 岩崎村(赤石組) | 59軒焼失 |
元文2(1737) | 3月19日 | 火災 | 青森 | 大火,焼失区域安方町・米町・浜町・新町 |
3月25日 | 火災 | 小泊村(金木組) | 89軒焼失 | |
元文3(1738) | 1月28日 | 火災 | 金井ヶ沢村・鴨村(赤石組) | 68軒焼失 |
4月 7日 | 火災 | 板屋野木村(赤田組) | 34軒焼失 | |
7月 | 地震 | 領内 | 群発地震 | |
元文 5(1740) | 凶作・飢饉 | 領内 | 凶作は新田地帯・外浜に深刻な被害 | |
寛保元(1741) | 1月23日 | 火災 | 小泊村(金木組) | 75軒・2ヵ寺焼失 |
1月 | 流行病 | 領内 | 狂犬病流行 | |
2月20日 | 火災 | 青森 | 大火, 134軒焼失。 | |
2月27日 | 火災 | 蟹田 | 町中残らず焼失 | |
7月18~19日 | 津波 | 領内西海岸沿岸 | 死者33,家屋損壊176,破船167 | |
寛保2(1742) | 7月 2日 | 水害 | 津軽半島,西海岸,外浜 | 死者48,流失・損壊78軒、田畑2100町歩損耗 |
7月16日 | 火災 | 油川 | 30余軒焼失 | |
寛保3(1743) | 4月14日 | 火災 | 油川 | 30軒焼失 |
延享元(1744) | 5月11日 | 火災 | 弘前城下 | 大火,焼失家屋409軒など,城下の三分の一が被災 |
6月29日 | 水害 | 岩木川水系流域・外浜 | 死者10人,家屋倒壊・流失,家屋浸水,田畑冠水 | |
延享4(1747) | 3月21日 | 火災 | 青森 | 大火, 140軒焼失 |
5月27日 | 火災 | 平舘村(後潟組) | 30軒焼失 | |
7月 3日 | 水害十川・岩木川流域 | 河川氾濫,田畑冠水 | ||
8月19日 | 水害 | 岩木川流域 | 河川氾濫,家屋浸水,落橋,田畑冠水 | |
寛延2(1749) | 2月 8日 | 火災 | 今別 | 58軒焼失 |
2月20日 | 火災 | 蟹田 | 150軒全焼 | |
6月30日 | 水害 | 平川・十川・岩木川流域 | 田畑冠水 | |
11月17日 | 火災 | 島村・関村(赤石組) | 32軒焼失,凶作・飢饉,領内(特に外浜・新田地方)死者数千人 | |
寛延3(1750) | 3月 7・16日 | 水害 | 岩木川・平川・土淵川流域 | 人家33軒,橋101箇所流失,街道27箇所欠損など |
飢饉,領内,前年度の飢饉が年を越えて深刻化 | ||||
宝暦元(1751) | 6月14日 | 火災 | 深浦 | 40軒焼失 |
宝暦2(1752) | 6月 7~16日 | 水害 | 岩木川・平川・土淵川流域 | 弘前城下家屋浸水多数,田畑冠水 |
宝暦4(1754) | 5月 9日 | 火災 | 青森 | 30軒焼失 |
宝暦5(1755) | 凶作・飢饉 | 領内(特に外浜・新田地方) | 該当地域皆無作,死者なし |
注) | 山上笙介『続つがるの夜明け よみもの津軽藩史』中(1973改訂新版,陸奥新報社刊)より作成。 |
飢饉によって藩財政もダメージを受けた。寛延三年(一七五〇)、藩は、家中の知行・俸禄の五割借上を命じた。藩財政の破綻による非常手段である。その一方、藩は家中が知行地から借米すること(年貢を先納させること)を認め、代官に対して徴収を命じた。しかし、前年が凶作では米が集まるはずもない。日限を切っての徴収は困難を極めた。桜田村(さくらだむら)(現五所川原市桜田)・広田村(ひろたむら)(現五所川原市広田)・半田村(はんだむら)(現五所川原市湊(みなと))などは借米分を皆済した村として「奇特」とほめられたが、この借米徴収が、飢饉で疲弊している領民にとって非常に重い負担となったであろうことはいうまでもない(『五所川原市史』通史編1)。