中世の北国海運

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若狭敦賀(つるが)を中点として、日本海沿岸地域と畿内とを結びつけた北国(ほっこく)海運は、古くから発達していた。室町時代の中ごろに成ったという『廻船式目(かいせんしきもく)』に三津七湊(さんしんしちそう)とあり、そのうち七には越前三国・加賀本吉(もとよし)・能登輪島(わじま)・越中岩瀬(いわせ)・越後今町(いままち)・出羽秋田とともに奥州津軽十三湊(とさみなと)が挙げられている(資料古代・中世No.七四〇)。
 文禄四年(一五九五)からの伏見作事板の運送に、北陸の運送業者が秋田実季(さねすえ)領から敦賀への杉板廻漕を行っていたことが知られる(『能代市史』資料編中世二)。さらに慶長二年(一五九七)六月に、最上義光(もがみよしあき)が能代から船材を酒田の商人を使って取り寄せていることが知られ(『能代市史』資料編中世二)、慶長六年(一六〇一)二月には、若狭小浜城主である極氏の城の大橋に使う板を、若狭の各港の船頭に命じて、能代から取り寄せるための船が派されている(『能代市史』資料編中世二)。ここには、三津七湊に含まれないとして能代を挙げることができる。
 同じように、三津七湊に含まれないには、陸奥田名部(むつたなぶ)・出羽酒田が挙げられる(以下は、特に断らない限り、渡辺信夫『幕藩制確立期の商品流通』一九六六年 柏書房刊による)。このうち、田名部湊は室町期に開かれたといわれるが、具体像がらかになるのは近世初頭で、酒田・敦賀廻船南部氏の船宿・御用達金調達・領主荷の廻漕などを担当し、その代わりとして南部領での舟役(ふなやく)(入出港税)免除の特権を得ていた。
 これら北奥羽の諸の共通点は、大きくいうと、北国海運の諸船の寄港地として発展したことにある。一方、出羽酒田は、北国海運の諸船の寄港地としてばかりでなく、ここに根拠を置いた舟持商人が、北陸などの舟持商人とともに活躍していたことが挙げられる。戦国末期の酒田は、都市の発達・商品流通の発展を背景として、「三十六人衆」が町民の主体となって町政を担当していた。北国海運での酒田の舟持商人の活躍は、こうした町の在り方を反映したものであった。
 また、酒田の舟持商人は、特に最上氏家臣などの蔵元的機能を持っており、上方商人に中継して蔵米の売却を行っていて、酒田と上方(敦賀)間の蔵米廻漕・販売は行ってはいなかったようである。これらは、北国海運廻漕業者の船を雇う形で行われた。したがって、酒田の商人は、米の売買によっての商業利潤を得ることはできなかったのである。
 酒田のにぎわいは、米の集散地として発展していたことにあった。元和八年(一六二二)の最上氏改易後は、最上川流域の米沢山形などの諸藩、および天領の米が一層酒田に集積されることになった。しかしながら、北国海運における酒田港の限界は、雇船がその主体であったことにあろう。

図106.酒田市山居倉庫の荷物積み出し場

 さて、津軽十三湊は、「十三往来」や「十三湊新城記」などの記述から(資料古代・中世No.一一四二・一一四三)、平安末期に起源があるとされる(古田良一「津軽十三湊の研究」『東北大学文学部研究紀要』七)。考古学の発掘調査によって得られた成果によると(『国立歴史民俗博物館研究報告』六四集 一九九五年)、十三湊の変遷は、
①十二世紀後半にとしての活動が始まったという。このころの遺はまとまった形では確認されていないが、北半分のいくつかの地点を中心に遺物が検出されている。また、奥州藤原氏との関連が推測される京都系のかわらけが、岩木川水系の要所で出土しており、十三湊岩木川水系の延長線で掌握されていた可能性がある。

②十四世紀中ごろから、このころに顕著となる瀬戸施釉陶器小型品や、珠洲(すず)の壺(かめ)・すり鉢越前甕貯蔵具・調理具などの流通による日本海交易の転換を背景に、北半部の広範にわたって都市的空間が形成されるに至った。

③十四世紀末以降、最も整備された時期を迎え、自然発生的な港湾町が安藤氏を中心とした領主権力によって再編成される。また、領主がそのものに居をえており、その権力基盤を象徴している。そして、十五世紀前半には、名実ともに日本海屈指の貿易港としての形態を整えていた。

④十五世紀末には、それまでの館の(区画施設)を壊す形で遺が掘られ、急激に遺・遺物がみられなくなる。

⑤十六世紀末から十七世紀初めまでは、生活の痕跡がみられなくなる。南部氏との抗争により安藤氏が北海道に退転したことにより、十三湊が北方の貿易港としての役割をいくつかの港に譲っていった。

⑥十七世紀、弘前藩の力により再興されるが、岩木川水系と鰺ヶ沢の中継港にとどまった。

というものであった。そして、中世の十三湊は、東日本の中核港湾都市というべき物資集散の拠点であった(宇野隆夫「日本海に見る中世の生産と流通」国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』一九九四年 新人物往来社刊)。
 中世の十三湊については、嘉元(かげん)四年(一三〇六)九月に起きた「関東御免津軽船」の一件がある(資料古代・中世No.六〇八)。この「関東御免津軽船」については、十三湊に根拠を置いた安藤氏の支配下にあるとする説と、安藤氏とは無関係であるとするという説とがある(小口雅史「津軽安藤氏の虚像と実像―安藤氏研究の現状と課題―」佐々木孝二編『総合研究津軽十三湖』一九八八年 北方新社刊)。それはともかく、「津軽船」とは、大雑把に船の所属を示したものであり、そして、九州と畿内とを瀬内海あるいは日本海を結んだ「筑紫船」と同じように、津軽と畿内とを結んだ船を・畿内の側から呼んだものであるという。そして、鎌倉時代の末には、小浜敦賀を拠点として、西は「筑紫船」、東は「津軽船」という航路ができていた可能性が示されている(大石直正「関東御免津軽船」北海道・東北史研究会編『北からの日本史』二集 一九九〇年)。
 ④や⑤にいうように、安藤氏の退転により、中世の十三湊はその機能を失い終焉を迎えたともいえる。しかし、弘前町年寄松井四郎兵衛らの由緒書から、十六世紀の中ごろには、日本海交易の拠点としての機能を持っており、松井らは津軽氏の先祖の御用商人として活躍していた可能性があるという。しかも、近世初期の城下商人町方は、北国海運の拠点と何らかのかかわりがあったと伝えられる。津軽地域は、海運を通じて特に上方の経済圏との極めて緊密なつながりを持っていたことが想定されるのである(長谷川成一「本州北端における近世城下町の成立」北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』一九九三年 三省堂刊)。