天
明の
飢饉後も
津軽弘前藩の
藩財政は好転することはなかった。たとえば、寛政三年(一七九一)には
江戸・
大坂の
銀主に借金返済の繰り延べを依頼する事態となり、年限が来た同五年に
家老津軽多膳(たぜん)らが
大坂に赴き、年三万石の
廻米確保を約束させられている。さらに寛政元年(一七八九)の
寛政蝦夷蜂起の後、寛政九年(一七九七)から、
蝦夷地第一次
幕領化を経て文政四年(一八二一)に至るまで、同藩は恒常的に
蝦夷地警備を幕府から命じられており、一層
藩財政が圧迫された。
当時の
弘前藩の会計は「
金方」と「
米方」に分かれていたが、
金方における
蝦夷地警備費(「
松前方入用」)は、
幕領化前の寛政・享和期で三〇〇〇両から七〇〇〇両、ロシア人の
樺太・エトロフ襲撃事件で
蝦夷地の緊張がピークに達した文化四年(一八〇七)で一万五一一〇両に達し、以後同六年まで毎年一万両以上にわたる出費があった。
金方収入における警備費の割合は、寛政九年以降、二、三年の例外を除いて一〇パーセント以上を占め、文化四年には三六・五八パーセントにも達している。その後文化十年に至るまで、収入のほぼ二〇パーセントが警備費に充てられているのである(表60)。なお、その後はしだいに
減少し、
松前や吉岡
台場など渡島(おしま)半島部に
勤番地が縮小された文化十二年(一八一五)以後は、三〇〇〇両以下になっている(浅倉有子『北方史と
近世社会』一九九九年 清文堂刊)。
年 代 | 警衛費 | 比率 |
寛政 9.10~同10.9 | 7,927 両 | 19.19% |
10.10~ 11.9 | 6,320 | 15.30 |
11.10~ 12.9 | 5,042 | 12.20 |
寛政12 | 3,750.3 | 9.08 |
享和 1 | 5,837.2 | 14.13 |
2 | 5,458.2 | 13.21 |
3 | 3,358 | 8.13 |
文化 1 | 3,264 | 7.90 |
2 | 4,291.3 | 10.39 |
3 | 4,544.3 | 11.00 |
4 | 15,110 | 36.58 |
5 | 13,261 | 32.10 |
6 | 11,777 | 28.51 |
7 | 9,406 | 22.77 |
8 | 8,674 | 21.00 |
9 | 8,141 | 19.71 |
10 | 8,594.02 | 20.80 |
11 | 5,769 | 13.96 |
12 | 3,216 | 7.78 |
13 | 2,347 | 5.68 |
14 | 1,880 | 4.55 |
文政 1 | 1,993 | 4.82 |
注) | 文化13年の金方収入41,312両に対する比率。 |
但し,小数第3位を四捨五入した。 |
一方、この間の藩全体の収支状況は、「当子年納御米賦」および「当子年御金賦」(いずれも国史津)によると、文化十三年(一八一六)の藩の収支は、
米方の収入が全体で一九万五六〇九石余、安永期(安永六年〈一七七七〉)に比べると、三万三〇〇〇石の増加であるが、これは主として豊凶の結果によるものである。そのうち
年貢米が一四万四四〇〇石で七三・八二パーセントを占め、
年貢米に基盤を置く
構造は基本的に変わりはない。他に
家中の
知行米・
切米の買上が四万石で二〇・四五パーセントを占めるが、この量もほぼ安永六年と同程度である(表61)。
家中からの買上が
年貢米補填の手段として恒常化していた。
| 費 目 | 米 高 | 比率 |
① | 当子年収蔵米 | 144,400石 | 73.82% |
② | 家中知行切米の内買上米 | 40,000 | 20.45 |
③ | 郡所開発米 | 2,500 | 12.20 |
④ | 家中貸渡米・流木代米 | 2,646 | 1.28 |
⑤ | 家中小普請金等代米 | 250 | 1.35 |
⑥ | 黒石打出米 | 32 | 0.13 |
⑦ | 子年十月へ持越米 | 5,780 | 0.02 |
合計 | 195,608 | 2.95 |
注) | 比率は小数第3位を四捨五入した。 |
「当子年納御米賦」(国史津)より作成。 |
また、
金方の収入は四万一三一二両で、その内訳は自他領への米の売却(「
払米」)が二万七七八八両で約六七パーセントを占め、他に米穀・酒の
津出料が多く、あとは田畑への
高掛金(たかがかりきん)、酒造役金などであるが、米穀収入に基盤を置く体制に変わりはない。安永六年(一七七七)と比べると約九〇〇〇両の増額であるが、これは
払米の売却代金が豊作によって増加したためであって、特に新規の財源が生じたわけでない。
新規の財源がなければ、
蝦夷地警備費の増大が経常経費を大きく圧迫するのは当然で、藩では
家中への
倹約の徹底など、思い切った緊縮財政をとらねばならなかった。文化十三年は安永六年より約四〇年が経過しているが、経常経費には大きな増加はみられず、一定の成果があったと思われる。しかし、これだけでは自ずから限界があり、
江戸・
上方の
蔵元(くらもと)や幕府の
公金からの借財が増加していった。幕府からの援助は、
拝領金の貸与(たとえば文化四年には五〇〇〇両を貸与している)のほか、「
蝦夷地御用米」として優先的に米を買い上げる制度などはあったが、十分に財政を補填するものとはなりえず、窮乏した藩は大名間の交際費を縮小せざるをえなかった。
一方、支出は
米方で二五万四〇九五石余、
金方で五万三九九九両余であり、
米方では五万八四八七石余、
金方では一万二六八七両もの赤字になっている。
米方の支出は
国元・
江戸・
上方でそれぞれ計上されているが(表62)、そのうち一二万六五八石、すなわち全体の半分弱が
国元の支出である。
国元の支出の中心を占めるのが人件費たる
藩士の
知行切米扶持米で、六万五三〇〇石と
国元の支出の半分以上に及び、藩全体の支出でも四分の一に相当した。
| 費 目 | 米 高 | 比率 | 備 考 |
⑧ | 家中知行切米扶持米 | 65,300石 | 25.70% | |
⑨ | 両浜払米,一番相場払米等 | 41,220 | 16.22 | |
⑩ | 代官手代・浦々町同心等賄米・扶持米 | 2,377 | 0.94 | |
⑪ | 公儀買上米 | 3,000 | 1.18 | 御渡金2.000両の内公儀より拝借年賦金,朝鮮人来聘国役金,紙蔵買下代,江戸常用にそれぞれ500両ずつ相廻候筈 |
⑫ | 囲米2万俵摺立方代米 | 4,800 | 1.89 | |
⑬ | 弘前・青森貯米 | 1,644.999 | 0.65 | |
⑭ | 御手山入用賄米,杣子飯料 | 1,032 | 0.41 | |
⑮ | 松前詰人数賄米,手船方糧米 | 900 | 0.35 | |
⑯ | 御膳穀物代米 | 195 | 0.08 | |
⑰ | 寺社供米 | 136 | 0.05 | |
⑱ | 用達町人へ下され米 | 53.21 | 0.02 | |
合 計 | 120,658.209 | 47.49 | |
| 費 目 | 米 高 | 比率 | 備 考 |
⑲ | 江戸廻米 | 37,362.5石 | 14.70% | 江戸常用金25,000両の内公儀買上米代差引24,500両分代米 |
⑳ | 家中扶持米 | 6,625 | 2.61 | 8,000石の登米より運賃差引 |
㉑ | 松本平八郎へ元利返済 | 29,508.75 | 11.61 | 元金18,000両,利息9ヶ月分 |
㉒ | 津軽屋喜太郎・鳥羽屋清次郎元利返済 | 11,407 | 4.49 | |
㉓ | 郡代金利息900両の代米 | 1,372.5 | 0.54 | |
㉔ | 黒石様増金代米 | 1,525 | 0.60 | |
㉕ | 津軽屋年賦米口々返済分 | 722 | 0.28 | |
合 計 | 88,522.75 | 34.84 | |
外 | 7,942.2 | 来4月迄江戸常用金不足補5,000両才覚備金の返済米 |
| 費 目 | 米 高 | 比率 | 備 考 |
㉖ | 大坂借財元利23,000両の代米 | 35,075 石 | 13.80% | 江戸・大坂常用不足にて借財 |
㉗ | 京・大坂常用2,100両,紙御蔵買下品代金800両分の代米 | 4,423 | 1.74 | |
㉘ | 別段才覚元利返済 | 2,516.25 | 0.99 | 元金1,500両利息10ヶ月分共 |
㉙ | 大坂諸銀主口々年賦返済米 | 2,100 | 0.83 | |
㉚ | 京・大坂御用米 | 800 | 0.31 | |
合 計 | 44,914.25 | 17.68 | |
(1)~(3) 総計 | 254,095 石 | 100.00 | |
注) | 比率は小数第3位を四捨五入した。「当子年納御米賦」(国史津)より作成。 |
江戸での支出は八万八五二二石余で、藩全体の三五・八四パーセントにも及ぶ。そのうち半分近くは、
江戸廻米の三万七三六二石が占め、藩全体の支出でも一四・七パーセントに当たる
高率である。この
廻米は
江戸で売却され、
江戸藩邸の一年の常用金二万五〇〇〇両の財源となるものであった。常用金は
藩主の家族の生活費、
江戸詰めの
藩士・
足軽・女中等への
金給や諸手当、交際費・進物費などに充てられる。ほかに
江戸詰めの
藩士への
扶持米が六六二五石あり、この両者が
江戸藩邸の運営費というべき性格のものであった。残りはほとんど借金の返済に充てられている。大口が
商人松本平四郎への元利返済で二万九五〇八石(元金一万八〇〇〇両、利息九ヵ月分に相当)、ほかに同藩の
江戸の
蔵元津軽屋・
鳥羽屋への返済と、
公金である「馬喰町郡代屋敷貸付」の返済などがあり、その合計は四万三〇一〇石にも及び、藩邸の運営費をしのいでいる。
上方の支出は四万四九一四石で、藩全体の一七・六八パーセントである。費目として
京・
大坂の常用金二一〇〇両の財源となる
廻米四四二三石(買下品の代金含む)と、「
京・
大坂御用米」の八〇〇石があるが、その他はすべて借金の返済分に充てられているとみてよいであろう。大口として
大坂借財元利二万三〇〇〇両の代米に三万五〇七五石が充てられており、
上方の支出の七八パーセント以上にも当たる。これは累積した
江戸・
大坂常用金不足で借用したものであった。
江戸・
上方での借財の返済分を合計すると八万二七〇一石余で、全支出の三二・五五パーセントに達し、同藩の財政を大きく圧迫していた。両都に比べると金額は少ないが、
国元の
商人からの借金もあった。
国元では直接
金方で処理されているが、「郡代金返済」と、「用達調達金元利返済」というのが二口あり、計六九五〇両、
金方支出全体の一二・二〇パーセントに相当する額が計上されている。文政二年(一八一九)の藩の借財
高は
江戸で用達
商人からと考えられる二万九〇〇両をはじめ、幕府
公金からの借財を含めて六万四一一両、一方
大坂からの借財は三万九八〇〇両で、
国元での借金も併せると一〇万九〇〇〇両の巨額に及んでいる(「御相当調之儀ニ付大要抜書」弘図岩)さらに、この年の暮れに藩は
大坂において
茨木屋・
鴻池などの
大坂商人から新たに計一万一〇〇〇両にわたる借金を行った。
図188.御相当調之儀ニ付大要抜書
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