江戸時代初期の大名課役

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江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、大坂の陣・島原の乱が挙げられる。慶長十九年(一六一四)十月四日、幕府は東北・関東の諸大名に大坂へ参陣するよう陣触を発した(資料近世1No.三二九)。大坂冬の陣の始まりである。諸大名は江戸に参集した後、伊達政宗上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直秋田実季などが将軍徳川秀忠軍に組み込まれて(『大日本史料』)上方へ進発した。津軽家がこの編成に組み込まれていないことから、幕府は津軽家を軍編成から除外していたと考えてよい。にもかかわらず、津軽信枚国元から兵を率いて出陣している。「津軽一統志」では、信枚の出陣を七月下旬とするが(資料近世1No.三二六)、幕府から陣触が発令されない段階で、兵を率いて出陣することなどは考えられないから、この記述は妥当ではないであろう。信枚は十一月二十五日大坂住吉に到着して徳川家康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加することはなかった(同前No.三三二)。この間の事情について、「津軽一統志」(同前No.三二六)や「津軽徧覧日記」(同前No.三二七)ではともに、家康から「東奥ハ遼遠」の地であり、津軽は蝦夷の押さえを担っているから、国元が手薄になることを危惧して帰国を促されたとするが、さきにみたように津軽信枚江戸勤番を命じられたのが事実である。
 この時期に津軽家へ課せられた役のうち、特徴的なものとして、将軍大御所上洛する際に兵を率いて供奉したことが挙げられる。将軍上洛や、徳川家康を祀る日光東照宮将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され、諸大名・幕臣供奉するのが通例であった。これらの供奉には将軍を警護して進軍する意味があり、寛永十年(一六三三)に出された寛永軍役令(かんえいぐんやくれい)によって、翌年実施された将軍家光の上洛への供奉人数が定められた(軍役令規定の「半役」とされた)ことからわかるように、軍役の性格もあわせ持っていた。津軽家の場合、信枚が元和三年(一六一七)(同前No.三四七)・同五年(一六一九)の秀忠上洛、元和九年の秀忠・家光父子上洛(同前No.四一三~四一五)、信義(のぶよし)(初め信吉(のぶよし)、一六一九~一六五五)が寛永十一年(一六三四)の家光上洛(同前No.五六一~五六五)時に命じられている。うち元和三年の上洛については、この年五月二十日付で道中にあっても帰国を命じる老中奉書(同前No.三四八)が発せられ、供奉を免じられている。上洛供奉の出費は多大なものであったとみられ、たとえば、元和五年の上洛に際しては財政難だったため、隣藩秋田藩から大判一〇〇枚を借用している(同前No.三六三)。また、元和九年の上洛の際には徒(かち)の者や又者まで「徳万宝の笠」を被(かぶ)り、「御番鑓錫杖(やりしゃくじょう)の御鍵御持たせなされ」たという(同前No.四一五)。美々しい供連人数の様子からも多額の費用がかけられたことがうかがえる。この上洛の折、津軽家近江国大津町年寄矢島藤五郎から銀子五〇貫を借用している。これも上洛供奉の経費の借用と考えられる(長谷川成一「津軽藩政文書の基礎的研究(二)―拙稿(一)の補訂と新文書の研究―」『文経論叢』二〇―三・人文学科篇V)。
 普請役は、城郭普請がその典型であるように、本来戦陣における課役軍役の一変型とされる。普請役城郭工事と考えがちだが、城郭に限らず、普請とは石垣組みや基礎工事のこと、それに対して作事とは建築工事のことで、武士の役ではなく、あくまで大工の仕事である。したがって、津軽家が担った普請役もこのような基礎工事が主体といってよい。通常、大名に江戸幕府が行う各種の普請を分担させることを、大名に「御手伝」させるという意味から、「手伝普請」と呼ぶ(善積前掲論文)。「津軽徧覧日記」には、慶安元年(一六四八)に津軽家が幕府普請方役人の問い合わせに対し、徳川家康の時代から当時の将軍徳川家光の時代まで、普請役在番などの役を命じられたことがないと回答したと記されている(資料近世1No.七一〇)。しかし、実際のところは、この時期にあっても普請役が課せられていた。
 慶長十四年(一六〇九)四月二十六日付の幕府年寄衆・普請奉行連署奉書(同前No.二六二)によれば、幕府は津軽家に対して下総国海上郡銚子(うなかみぐんちょうし)(現千葉県銚子市)築港の普請役を命じ、石高一〇〇〇石に一人の割合で人夫を差し出す、いわゆる「千石夫(せんごくふ)」の負担を命じた。銚子築港は、他に上杉景勝佐竹義宣相馬利胤らの東北諸大名が動員された。銚子は舟運によって運ばれてきた東北からの物資が集まる、いわば江戸の外港といってよい港となるが、幕府としては利用頻度のくなるはずの東北諸大名へ負担を命じたものであろう。諸大名は通常一〇〇〇石に一人という定められた割合より多く人夫を差し出すのが慣例のようで(たとえば、当時三〇万石たった上杉家は、この銚子築港に規定人数の三〇〇人を大きく超える数千人を派している)、津軽家もそれに倣ったと考えられる。

図48.銚子築港普請役を命じた江戸幕府年寄衆・普請奉行連署奉書

 また、慶長十九年(一六一四)に築城された越後高田城の普請も、伊達・佐竹・南部ら東北越後の諸大名に役賦課がなされている。津軽家も、前年十一月に普請に参加するよう命じられていたが(資料近世1No.三〇七)、慶長十九年四月十四日付で免じられた(同前No.三一五)。これ以外に津軽家江戸時代初期に普請役を務めたという記録として、「津軽徧覧日記」に、寛永十二年(一六三五)、江戸城天守台普請を命じられたことが記されているが(同前No.五八〇)、この普請に関する一次史料が現在確認できず、また幕府や他藩の史料にも記述がみえないため、この記事の真偽は確認できない。このように、確認できる範において、津軽家普請役負担は、同時期の諸大名と比較して非常に少なく、また南部・佐竹といった隣藩の大名とも好対照をなしている。
 朝鮮通信使の来聘(らいへい)は、将軍襲職を祝う外交儀礼であり、休泊地での馳走や道中の行列、江戸市中での道筋警固、乗馬用の鞍を付けた馬を差し出す「鞍馬役」と鞍のみを供出する「鞍皆具役」などの役が、各大名に課された。津軽家が最初に鞍馬役を課されたのは、寛永十三年(一六三六)、通信使日光社参の際である。この時江戸より日光まで鞍置馬三疋を上り下りともに差し出すことを命じられている(同前No.五九二)。その後も、津軽家には「鞍馬役」・「鞍皆具役」が課せられており、たとえば、寛延元年(一七四八)の通信使来聘の際には、山城国淀(よど)(現京都伏見区)から京都を経て遠江国新居(あらい)(現静岡県浜名郡新居町)まで、乗馬一二疋と鞍皆具を差し出すとともに、目付以下、書院番馬役勘定人等総勢一四六人を派しており、このうち馬五疋は大坂まで差し出すよう命じられている。また、帰国の際も鞍皆具を江戸から遠江国舞坂(まいさか)(現静岡県浜名郡舞阪町)まで差し出している(『記類』上)。

図49.朝鮮通信使日光社参鞍馬役を命じた江戸幕府老中連署奉書
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 幕府から罪人として身分のある人物を預けられて管理するのも大名の役の一つであった。弘前藩への預人は、慶長年間の花山院忠長(かざんいんただなが)(資料近世1No.二七三~二八一、五八一~五八三)をはじめとして、それぞれ寛永年間に預けられた、紫衣事件(しえじけん)の東源(とうげん)和尚(資料近世1No.四七四~四七七、五三一~五三二)、柳川一件柳川調興(やながわしげおき)(同前No.五七一~五七七)、相良騒動(さがらそうどう)の相良頼兄(同前No.六一六~六一九)などの著名な事件に関与した人物も含まれ、津軽家預けられたものの弘前に直接来なかった人物を合わせれば一六名を数える。また幕府から禁教とされたキリシタンの流罪は、慶長十九年、近畿地方のキリシタンが津軽に遠流に処せられて(同前No.三〇九~三一四)以降、正保・慶安に至るまで実施されていたようである。預人・キリシタンの管理は、初期の津軽家にとって特徴的な役負担の一つであった。