知行宛行状の発給

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家臣団の成立を裏付けるものとして、藩主から個々の藩士へ出された知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)がある。津軽弘前藩の場合、今のところもっとも古いものは、「国日記」元禄五年(一六九二)八月七日条の記事である。それは、富田村の者が拾った書付七通の内に、為信の知行宛行状の写があり、内容は慶長七年(一六〇二)十月十三日に尾崎村(現平賀町尾崎)の九郎左衛門に為信が一七石六斗六升八勺を与えたものであった(資料近世1No.一五三)。次いで古いものとしては、慶長九年十一月二十二日に、浄土真宗円明寺念西に高米一三石一合四勺歩米三斗九升を鰺ヶ沢にて渡すことを認めた為信の黒印状がある(同前No.一九九)。この史料は弘前市に現存する同藩の黒印状としては最も古いものであり、四代藩主信政が延宝三年(一六七五)三月五日に円明寺から借り出して確かめていることが「国日記」にみえる(資料近世1No.二〇〇)。現在のところ、為信が発給した知行宛行状といえるものは以上二点しか判しておらず、家臣に対してどの程度知行宛行状を発給したのかは不である。

図77.為信の念西宛黒印状

 これに比べると、二代藩主信枚(のぶひら)の発給した知行宛行状は多く残っているといえよう。まず古いものとして、慶長十四年(一六〇九)五月二十四日に、信枚が舞田屋布(まいたやしき)村(現田舎館村前田屋敷)の新地で、三〇石を同村の与三左衛門に宛行(あてが)った知行宛行状の写が存在する(同前No.二六三)。同年七月十八日には、信枚は父為信の菩提寺革秀寺(ぼだいじかくしゅうじ)に一〇〇石の寺領宛行状を発給しており、藤崎村(現藤崎藤崎)・舞田屋敷村川辺村(現田舎館川辺)の三村内での宛行であった(同前No.二六六)。同年八月六日には町田勝右衛門町田村(現弘前市町田)・ミのわた村(現在地不)で三〇石の知行宛行状(同前No.二六九)が、神左馬丞(じんさまのじょう)に館田(たちた)村(現平賀町館田)で一九石の知行宛行状(同前No.二七〇)が、それぞれ下付されている。革秀寺を除いては、いずれも小知行知行宛行状といえよう。また、同年九月十四日には大工の彦左衛門に黒石村(現黒石黒石)と広内村(現平内町)で五〇石の知行宛行状が出されており(同前No.二七二)、御用大工にも知行が与えられていた。

図78.信枚が革秀寺に宛てた寺領宛行状

 この年には、他にも多くの知行宛行状が発給されており、八月七日には浜中村(現岩崎村の内か)孫左衛門に三〇石、斎藤嘉津右衛門(かづえもん)に二六石、七月二十一日に川辺村左馬助に(石高)、成田左助三〇石、閏十月二十四日に関村(現深浦町関)喜右衛門に(石高)、それぞれ知行宛行状が出されたことが、「国日記」延宝三年(一六七五)三月四日の条にみえている(同前No.二六八)。
 慶長十六年(一六一一)二月三日にはとくまい(徳舞)村(現森田村床舞)の野呂二郎四郎に同村内の荒地で三〇石の知行宛行状が発給された(同前No.二八八)。翌十七年六月十二日には服部勘助高屋村(現岩木町屋)をはじめとし計一二ヵ村で五〇〇石の知行宛行状が発給されている(同前No.二九九)。勘助は当時の家老服部康成(やすなり)の息子であり、大身の家臣へ発給された知行宛行状としては、現在最古のものといえる。一二ヵ村の内には乳井(にゅうい)村(現弘前市乳井)・堺関(さかいぜき)村(現弘前境関)が含まれているが、現在の市町村でみると、青森市・弘前市・五所川原市・岩木町・平賀町・藤崎町の三市・三町にまたがっており、勘助が支配できた石高は一村平均四〇石余である。地方知行としては各村の掌握には、かなり骨が折れたものと推定されるが、当時から既に藩自らが支配や租税の徴収に介入していたのではないであろうか。なお、この年には知行地は不であるが、長尾三左衛門三〇石、館山十右衛門二〇〇石、小野源十郎三〇〇石、小山五左衛門一五〇石、新屋(あらや)四兵衛が四五石の知行宛行状をそれぞれ拝領していることが、「国日記」延宝三年(一六七五)三月朔日条にみえている(同前No.三〇〇)。服部勘助の場合と同様、一〇〇石単位の知行宛行状が発給されていたことが判する。
 この後、信枚の知行宛行状が現れるのは元和七年(一六二一)のことである。三月二日に十腰内(とこしない)村(現弘前十腰内)の肝煎(きもいり)八郎五郎に一五石の知行宛行状が発給された(同前No.三九二)。弘前藩では後に庄屋に統一されるが、当初は肝煎であった。この年には、大光寺村(現平賀町大光寺)の三郎左衛門に三〇石の知行宛行状(資料近世1No.三九三)、神左馬丞館田村一九石(同前No.三九四)、舞田やしきの与三左衛門に舞田屋敷村三〇石(同前No.三九五)の知行宛行状が発給されている。神左馬丞と舞田屋敷の与三左衛門の二人は慶長十四年(一六〇九)にも同じ知行宛行状を拝領している。この二人になぜほぼ同じ内容の知行宛行状が、この時期に発給されたのかを分析してみると、信枚は当時、知行宛行状を発給した際、「言(信)長」の黒印で出しており、この黒印を信枚に改めたためと考えられる。また革秀寺には、元和九年(一六二三)三月八日に一〇〇石の信枚黒印による寺領宛行状が出されている(同前No.四一二)。ただし、慶長時のものは、藤崎村・舞田屋敷村川辺村の三村で一〇〇石であったが、元和時は駒越村(現岩木町駒越)・土堂(つちどう)村(現弘前市土堂)・壱町田(いっちょうだ)村(現岩木町一町田)・藤崎村の四村で一〇〇石に変わっており、寺領の村が変わったことが再発給の理由と考えられる。

図79.神左馬丞への知行宛行
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 なお、寛永三年(一六二六)四月六日には森岡采女正(うねめのしょう)に二五〇石(同前No.四四四)の、伊藤六右衛門に二〇〇石(同前No.四四五)の知行宛行状がそれぞれ発給されている。森岡の場合、知行地は波岡の内とらか屋敷(現南津軽郡浪岡町の内ヵ)と浅瀬石村の内下中川河原(現黒石市中川ヵ)の荒地二ヵ所を派立させたあかつきに知行地となるものであった。伊藤の場合も同様であり、金山の内沢(現五所川原市沢)を派立させたあかつきに知行地となるものであった。下中川河原を中川村と仮定した場合、正保二年(一六四五)の「津軽知行高之帳」では同村は平賀郡新田として四八六・七石とみえているので問題はないようであるが、沢村は「津軽知行高之帳」では田舎郡新田として一〇〇石とあり、全村を知行地としたとしてもの半分にしかならなかった可能性がい。同年九月三日には廣田太右衛門一〇〇石の知行宛行状が発給されているが(同前No.四四六)、七〇石は紙すき沢村(現相馬村紙漉沢)、九石が真土(まつち)村(現岩木町真土)、一〇石が五代村(現岩木町五代)、六石がたゝ里田村(現在地不)と、四ヵ村とも荒地に知行地が割り当てられており、おまけに四村の合計は九五石にしかならない状態であった。寛永期になると藩士に派立や開発をさせて知行地とする場合が多くなるように推定される。
 三代藩主信義時代になると、寛永九年(一六三二)二月十日に小知行新里村の太郎左衛門に荒地の四石が冬居(ふゆい)村(現尾上町日沼と田舎館村大袋の付近ヵ)で与えられている(同前No.五二八)。同日に神左馬丞へ荒地で一一石が館山村(現平賀町館山)で与えられているが(同前No.五二九)、これは加増であろう。翌十年四月二十一日には竹内又兵衛に二〇〇石の知行宛行状が発給されたが(同前No.五四〇)、「所付は別紙に有り」とあって、実際に宛がわれた村名は別紙が不なため判しない。知行地の村名を別紙記載にする初期の例として注目される。寛永十一年(一六三四)正月十一日に岩橋杢助(もくのすけ)に与えられた三〇〇石の知行宛行状(同前No.五五〇)には、一五ヵ村の村名が書かれており、竹内又兵衛の場合は特別なようである。岩橋の知行宛行状には鬼沢(おにざわ)村・種市村乳井村・悪堂()村と四ヵ村とも現在の弘前市域の村が含まれている。同日には革秀寺一〇〇石(資料近世1No.五五一)、町田村かち右衛門へ一五石(同前No.五五二)、大工彦右衛門へ五〇石(同前No.五五三)、舞田やしき与三左衛門へ三〇石(同前No.五五四)、神左馬丞一九石(同前No.五五五)の知行宛行状が発給されている。これらは、らかに藩主交替による継目知行宛行状発給である。ここまでの知行宛行状は信吉名で出されている。
 さて、寛永十七年(一六四〇)十一月二日には津軽信隆五〇〇石の知行宛行状が発給された(同前No.六二〇)。信隆は藩主信義の弟であり、家老を勤めた人物である。知行地は四八ヵ村にわたっており、現在の弘前市内に該当する村名が、国吉・中畑・大沢・八幡館・石川・中野・境関堀越・独狐(とっこ)・高杉・宮館・鬼沢・町田・青女子(あおなご)・新里(にさと)・和徳(わとく)・市ノ渡(一の渡)と一七ヵ村にのぼる。これ以降の知行宛行状は信義名で出されるようになる。寛永二十一年(一六四四)正月二十日には、山屋戸左衛門に六ヵ村の内で一〇〇石が与えられており(同前No.六六二)、このうち現在の弘前市内に該当する村名としては上和徳村がみえる。また、同日に野呂次五兵衛に床舞村の内で一〇〇石の知行宛行状が発給されたが(同前No.六六三)、内七〇石は寛永十七年の加増と記載されている。同年二月には重臣杉山八兵衛横沢村(現板柳町横沢)・俵升(たわらます)村(現藤崎町俵升)・たも木派村(現中里町田茂木ヵ)・浪岡本郷村(現浪岡町本郷)の内で五〇〇石が加増されている(同前No.六六六)。四村で五〇〇石というのは一村平均一〇〇石以上となり、金木新田一八ヵ村の一つと考えられる「たも木派村」はこの時に開村された可能性がい。三月には野呂陸右衛門町田村蓑和田村三〇石の知行宛行状が発給されているが(同前No.六六八)、この内一五石は新地で当年加増と記載されている。正保四年(一六四七)十二月に入ると、津軽信隆は掛落林(からばやし)村(現板柳町掛落林)一村の内で五〇〇石の加増を受けた(同前No.六九五)。しかし、同村は正保二年の「津軽知行高之帳」(同前No.一一六〇)によれば、一二二・五石の村であり、五〇〇石の村はないため、信隆は掛落林村の開発に当たったものと考えられる。貞享四年(一六八七)の「陸奥国津軽郡御検地水帳」(同前No.一一六一)では、同村のは八四二・六二七石と約七倍になっており、成果がはっきりと現われている。また、同月には外崎弥五右衛門が水木村(現常盤村水木)と左比内村(現弘前市小比内)で三〇石の知行宛行状を受けた(同前No.六九六)。外崎は慶安五年(一六五二)二月五日に青女子村二〇石の加増も受けている(同前No.七三七)。
 正保五年(一六四八)には、弘前城中において北村久左衛門村山七左衛門に殺害されるという事件が起こった。この村山を唐牛吉太夫が討ち取ったため、二月晦日に唐牛に一〇ヵ村の内で一〇〇石の加増が行われた(同前No.七〇〇)。二月十三日には津軽信隆にまた加増があり、二七ヵ村で三〇〇石が加増された(同前No.七〇五)。この二例からもわかるように、加増の場合は一村あたりの加増は一〇石前後になるように割り振りされていたと考えられる。慶安五年(一六五二)二月五日には、八幡宮主光宮太夫三〇石の知行宛行状が発給されているが(同前No.七三六)、これは神職に出された知行宛行状としては最古のものであろう。