同年、藩庁は寺社門前をそれまでの寺社奉行より町奉行の支配下に置き、町役の負担はこれまでどおり寺社奉行の扱いとした。このことは、同四年に弘前城下の屋敷改めで調査が実施されていること、城下町の拡大に伴い寺社門前の人口も増加し、そこでの犯罪人の出入りは町奉行に担当させた方がよいと判断したことによるとみられる。しかし、町役は出人足であったので、寺社に奉仕させる掃除等の出人足はそのまま寺社奉行の扱いとした。文化二年(一八〇五)の領内の寺社門前は三一一軒、六九八人で、そのうち弘前は二二四軒、二九六人、馬八一匹を数えた。
同六年には標符が交付され、寺社はこれまでの地方知行から変更させられた。これに対し、高岡霊社(現高照神社)祭司役後藤兵司(ごとうへいじ)は藩主から寄進された寺社禄を取り上げたことを痛烈に批判し、耕春院(現宗徳寺)覚源は幕府老中へ乳井の非道を訴えている(長谷川成一「転換期北奥藩の政治と思想 津軽藩宝暦改革の研究」一九九三年 文部省科学研究成果報告書)。
このような急激な財政再建は領内経済を混乱させ、標符の廃止、乳井の失脚によって終わったが、寺社領、寺社門前、神職組織に影響を与えた。
寛政四年(一七九二)にロシアの使節ラクスマンが根室で通商を求めると、弘前藩も幕府の命により松前へ藩士を派遣し、この後も蝦夷地の警衛に当たった。文化十年(一八一三)クナシリ方面への出兵に当たって、八幡宮(現弘前八幡宮)は藩命により松前渡海安全の祈祷を行い、守札を発行し、神社の役務を果たした。
享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)は、「貞享検地帳」、正徳の「寺社領分限帳」と照合しており、寺院二七八ヵ寺、神職一一四人、修験者八二人を数えている(田中秀和『幕府維新期における宗教と地域社会』一九九七年 清文堂刊)。これには藩主・藩からの下賜品を細大漏らさず記載したほか、在村小社の堂社の管理者である神職・修験の把握も同時に行った。分限帳として最も完備したものであり、寺社の財産目録でもあった。
図191.享和3年の寺社領分限帳
安政二年(一八五五)の「神社微細社司由緒調書上帳」(資料近世2No.四二一)の書上の雛形(和徳稲荷神社蔵)をみると、吉田家より認可された官職宮かどうか、境内地が除地か年貢地かの区別、保存する棟札、末社、神職の由緒を詳細に提出することを要求したものであった。これは最勝院配下の神職に限られているが、大行院支配下でも実施されたことが伝来する書上の控から判明する。よって寺社奉行により領内の全堂社の把握が行われたことになる。また、同じ年、真教寺・法源寺の由緒書が藩庁へ提出されていることから、浄土真宗のみならず全宗派にも要求した可能性は捨てきれない。このころ、津軽のみならず日本沿岸に異国船が出没し、社会不安が起こってきた。このような社会状況の中で、弘前城下では太平楽で人寄せをしたり、青森町では夢想で妄言をいう新しいタイプの宗教家が現出してきた。三奉行が相談した結果、不届きな言動には当たらないとして取り締まりの対象から外した。しかし、慶応三年(一八六七)、在方において届け出のない旅僧の宿泊と弟子の取り立ては、取り締まった。よって、安政二年の一連の寺社書上帳は、藩が正統性を認める既成の宗派と、それ以外を識別するため作成されたとみられる。
図192.神社微細社司由緒調書上帳
慶応元年(一八六五)、藩は軍制改革に着手し、寺社奉行は神職・修験・浄土真宗に対して武芸稽古を命じた。これは三者とも家族を持つことが認められ、家族に成年男子を抱えていたからであった。最勝院配下の社家頭が、社家隊に他の別当寺院に属する神職も加えて編成し、命令系列の一元化を図っているのは、自らの権限強化をねらったものであった。明治二年(一八六九)、奥羽列藩同盟の攻撃に対し社家隊は深浦方面、修験隊は赤石方面へ出兵したが、同三年に士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵されて役割を終えた。