二 北奥宗教界を彩る中世的寺社

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 前項一においては、『津軽一統志』によりながら、弘前を含めた北奥津軽の古代・中世における寺社群を表化した。その上で、古代における当該地域は、坂上田村麻呂を開基と伝える神社が大半を占め、あわせて僧円智に例をみるように、天台宗が布教した地域であることを確認した。
 本項では、それを受けて、『新撰陸奥国誌』によりながら、弘前地域に限定した寺社世界の中世的な展開相を眺めてみることにしよう。
 今日の「禅林三十三ヵ寺」や「新寺町」が政治的に形成されたのは、近世期のことであり、その意味で、今日の寺社群がそのまま中世的なありようを伝えるとは限らない。むしろ、今日のたたずまいは、中世的なものを近世的に改編した姿であると見なすべきであろう。
 したがって、その中世的な原形を偲(しの)ぶためにも建立当初の所在地をまず確認した上で、それが何時(いつ)、弘前に移転したかに留意しつつ表化したのが、次に掲げる「弘前中世寺院」である。また、『弘藩明治一統誌 神社縁録』によりながら、祭神を検証しつつ表化したのが「弘前中世神社」である。「弘前近隣における古代・中世の寺社」は、前項一でみた『津軽一統志』のなかの、主要寺社から、弘前と深いかかわりを有するものを摘記(てっき)して、『新撰陸奥国誌』のなかに、史料検証したもので、「弘前中世神社」とセットをなし、私たちに弘前における中世神社の原形もまた、古代の坂上田村麻呂の開基伝承と僧円智の天台布教(とりわけ高伯寺の事跡)によるところが大きいことを教示してくれる。
表3「弘前中世寺院」
名称宗派本寺開基年次開基開山建立地現在地備考
最勝院真言宗八幡村
(岩木町)
銅屋町弘前八幡宮の別当。寺伝では、天文元年(一五三二)僧弘信が堀越に建立した金剛山光明寺に始まるという。天正年間(一五七三~九二)猿賀山神宮寺(尾上町)の別当。
円明寺浄土真宗東本願寺明応八
(一四九九)
念西坊油川
(青森市)
新寺町念西坊の俗名は下間右近佐宗時。慶長十一年に城下寺町を経て、現在地。
法立寺日蓮宗京都本 満寺天文二
(一五三三)
日尋賀田村
(岩木町)
新寺町堀越を経て、慶長十一年に城下寺町そして正保年間(一六四四~四八)に現在地へ。
本行寺日蓮宗京都本 圀寺天正八
(一五八〇)
日健堀越
(弘前市)
新寺町慶長十一年に城下寺町を経て、正保年間に現在地へ。
貞昌寺浄土宗岩城専称寺永禄年間
(一五五八~七〇)
為信の生母岌禎大光寺
(平賀町)
新寺町同右。寺号は為信の生母の法号・桂屋貞昌大禅尼にちなむ。
西福寺浄土宗貞昌寺慶長(一五九六~
一六一五)以前
不詳不詳堀越
(弘前市)
城下寺町を経て、慶長年間に貞昌寺内に引移る。
西光寺浄土宗貞昌寺建仁年間
(一二〇一~〇四)
金光上人中野
(浪岡町)
新寺町当初、浪岡城主・北畠氏の保護、のち為信が再興し寺町を経て現在地。
徳増寺浄土宗貞昌寺三世寺村
(弘前市)
新寺町承応二年(一六五三)、貞昌寺六世無角上人が改めて、現在地に開基。
天徳寺浄土宗貞昌寺弘治年中
(一五五五~五八)
光蓮社良心田舎館村慶長年間、城下寺町に移転。
真教寺浄土真宗東本願寺天文十九
(一五五〇)
浄理坪見
(岩木町)
新寺町大浦坪見→堀越→城下寺町を経て、一六五一年現在地へ。
専徳寺浄土真宗同右天文元
(一五三二)
誓円町田
(岩木町)
新寺町慶安年間(一六四八~五二)に城下寺町に移り、のち現在地へ。
法源寺浄土真宗真教寺文明十三
(一四八一)
敬了油川
(青森市)
新寺町天正十年(一五八二)、浪岡に移り、大浦を経て慶長年間(一五九六~一六一五)に城下寺町に移転、のち現在地へ。
長勝寺曹洞宗金沢宗徳寺大永六
(一五二六)
大浦盛信種里
(鯵ケ沢町)
西茂森大浦盛信が亡父光信の菩提寺として創建。賀田村(岩木町)→堀越→慶長十五(一六一〇)、現在地へ。寺内に「嘉元鐘」あり。
隣松寺同右長勝寺不詳花厳春光真顛賀田村
(岩木町)
同右慶長年間、現在地に移る。
陽光院同右隣松寺不詳梁悦桜庭村
(弘前市)
同右同右
 
名称宗派本寺開基年次開基開山建立地現在地備考
宝泉院曹洞宗隣松寺不詳雲鶴鬼沢村
(弘前市)
西茂森慶長年間、現在地に移る。
長徳寺同右同右天正十一
(一五八三)
高杉某関応泉也高杉村
(弘前市)
同右同右
清安寺同右長勝寺天正年間
(一五七三~九二)
為信の室の清安密田同右長勝寺三世密田和尚の隠居庵。
宝積院同右隣松寺元亀年間
(一五七〇~七三)
中別所玄蕃中別所村
(弘前市)
同右慶長年間、現在地に移転。
海蔵寺同右長勝寺明応年間
(一四九二~一五〇一)
大浦盛信江山智永種里
(鯵ケ沢町)
同右堀越→大浦坪見を経て、慶長年間、現在地に移る。
泉光院同右藤先寺慶長七(一六〇二)察庵大光寺
(平賀町)
同右慶長十七年、現在地に移転。察庵は藤先寺二世。
梅林寺同右長勝寺慶長以前盛岡源三郎
(中興)
格翁舜逸
(中興)
湯口村
(相馬村)
同右慶長年間、現在地に移転。
満蔵寺同右耕春院弘長年間
(一二六一~六四)
平時頼常陸阿闍梨藤先村
(藤崎町)
同右藤崎町護国寺の遺跡。護国寺は、堂教院→霊台寺→護国寺と名を改め、臨済宗から改宗して曹洞宗満蔵寺となった。長勝寺の「嘉元鐘」は、もと護国寺にあった。
高徳寺同右隣松寺天正年間
(一五七三~九二)
新岡但馬春香(隣松寺四世)新岡村
(弘前市)
同右新岡氏滅亡後、退廃。慶長年間に現在地に移る。
嶺松院同右耕春院天正十(一五八二)蒔苗氏龍外能鑑蒔苗村
(弘前市)
同右慶長年間、現在地に移転。
勝岳院同右同右天正年間
(一五七三~九二)
床舞村
(森田村)
同右同右
寿昌院同右長勝寺不詳賀田村
(岩木町)
同右新里村を経て、元和元年(一六一五)現在地に移転。
鳳松院同右耕春院慶長以前金庵喜種里
(鯵ケ沢町)
同右慶長年間、現在地に移転。
京徳寺同右長勝寺享禄三(一五三〇)北畠具永松澗梵栄五本松
(浪岡町)
同右北畠氏の滅亡後、慶長年間に現在地に移る。
宗徳寺同右金沢崇徳寺天正年間
(一五七三~九二)
武田守信明室禅哲堀越村
(弘前市)
同右武田守信は為信の実父。旧名は耕春院。明治五年の焼失後、京徳寺に仮隅。
安盛寺同右耕春院慶長以前深浦村
(深浦町)
同右慶長年間、現在地に移転。
永泉寺同右同右文禄二(一五九三)中山正種新屋村
(平賀町)
同右同右
藤先寺同右天正年間
(一五七三~九二)
津軽為信の子と室忠岳藤先村
(藤崎町)
同右同右
正光寺同右長勝寺文禄元(一五九二)然宗猿賀村
(尾上町)
同右同右
盛雲院同右耕春院元亀年間
(一五七〇~七三)
乳井氏善種乳井村
(弘前市)
同右同右
 
名称宗派本寺開基年次開基開山建立地現在地備考
月峰院曹洞宗長勝寺沖館
(平賀町)
同右同右
寿昌院同右耕春院慶長以前賀田村
(岩木町)
同右新里村を経て、慶長年間に現在地。
恵林寺同右常源寺永禄年中
(一五五八~七〇)
体岩(常源寺二世)小比内村
(弘前市)
同右慶長年間、常源寺内に移転。
天津院同右天正年中
(一五七三~九二)
大浦政信津梁和徳村
(弘前市)
同右同右
誓願寺浄土宗岩城専称寺慶長元(一五九六)為信岌禎大光寺
(平賀町)
新町為信が貞昌寺を建立したとき、岌禎の隠居所にしたのに始まる。慶長十五年、現在地へ。
専求院同右誓願寺文禄年中
(一五九二~九六)
為信念夢同右同右慶長年間、現在地に移転。
久渡寺真言宗最勝院未詳円智坂本村
(弘前市)
坂元慈覚大師の聖観音を安置していた。

表4「弘前中世神社」(『弘藩明治一統誌 神社縁録』)
名称開山開山年次祭神備考
岩木山神社坂上田村麻呂延暦年中(七八二~八〇六)顕国玉神・多都比姫命・坂上刈田麻呂命
弘前八幡宮大浦光信の中興不詳誉田別尊・息長足姫命もと賀田村(岩木町)、あるいは八幡村(岩木町)に鎮座。大浦城の鬼門守護神として再興。
熊野奥照神社坂上田村麻呂大同二年(八〇七)伊弉那岐命・伊弉那美尊
弘前神明宮もと、松神村
(鰺ケ沢町)
不詳天照大神慶長七年(一六〇二)、為信の時に大浦に移し、のち弘前に移転。
和徳稲荷神社坂上田村麻呂延暦年中倉稲魂命・猿田彦大神・大宮能売神
胸肩神社坂上田村麻呂延暦年中市杵島比売命・田心比売命
鬼神社坂上田村麻呂延暦年中伊邪那岐命・伊邪那美命
巌鬼山神社坂上田村麻呂大同五年(八一〇)大山祇神
龍田神社坂上田村麻呂延暦年中(七八二~八〇六)天御柱命・国御柱命相馬村紙漉沢に所在。現在、上皇宮という。
羽黒神社坂上田村麻呂大同三年(八〇八)倉稲魂命岩木町に所在。

表5「弘前近隣における古代・中世の神社」
名称所在地開山開山年次宗派備考
岩木山神社岩木町坂上田村麻呂延暦年中(七八二~八〇六)別当寺院は百沢寺
百沢寺岩木町施暁延暦十年(七九一)真言宗開基は坂上田村麻呂
高伯寺大鰐町真言宗大鰐村蔵館村は『阿闍羅山の記』に、大同年中に田村麻呂の参詣あり、東夷征伐を誓うと伝える。また、唐僧円智が大日を神岡に、観世音を護国山に、不動尊を古懸山に安置すとも伝える。
大円寺大鰐町大円坊文亀年中(一五〇一~〇四)真言宗初め、種里村(鰺ケ沢町)の一ツ森に建立。のち、門外村→大浦を経て弘前に移る。明治の神仏分離で高伯寺の旧地の大鰐町に移転。
 
名称所在地開山開山年次宗派備考
国上寺碇ケ関村
(もと古懸村)
円智推古天皇十八年(六一〇)真言宗古懸村の浪不寄八幡は、延暦中に田村麻呂の建立と伝え、この八幡の別当は国上寺の塔頭・蓮性院であったという。また国上寺の中興は北条時頼と伝える。
猿賀神社尾上町
(もと猿賀村)
坂上田村麻呂延暦年中(七八二~八〇六)
猿賀神宮寺尾上町
(もと猿賀村)
天台宗猿賀神社の別当、もと深沙大権現と称す。寺中に十二坊あり。

 「弘前中世寺院」のなかで最も古いのは真言宗久渡寺であるが、これも本来的には前項一で検証したように、円智の開創ののち、慈覚大師円仁の造せる聖観音を安置すると伝える天台宗寺院であったと考えられる。この天台宗から真言宗への改宗を伴う久渡寺に次いで伝えるのは、藤崎町の護国寺の旧跡の満蔵寺である。
 執権時頼の開基と伝え、当該地の「唐糸」伝説をもとどめるこの護国寺は、史料的制約の多い中世寺社のなかで、多少の史料をも伝えるまったく稀有(けう)な存在で、そして執権時頼の開基と伝えるように、中央権力との深い関係のある名刹(めいさつ)である。
 次に、この鎌倉幕府護国寺との史的かかわりを中心にして、北奥津軽鎌倉幕府の間に展開して宗教史的な様相を眺めてみることにしよう。