二代信枚の動向

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為信の死後、信枚は江戸に下り、慶長十二年十二月二十一日に幕府から跡目(あとめ)相続を許されている(同前No.二四八・二四九)。信枚は新藩主として翌年四月に国元入部しており、幕府から服部康成(やすなり)が後見同様として付き従った(資料近世1No.二五三)。しかし、五月信枚の相続に反対する為信の孫大熊(おおくま)は、幕府年寄衆である本多正信(まさのぶ)・本多正純(まさずみ)父子に対して、叔父信枚を廃して自分に津軽家相続の権利があることを主張して提訴した(同前No.二五四)。その論拠は、為信死去後「惣領宮内」つまり信建が相続するはずだったが、信建が亡くなったため、信建の子で為信の嫡孫である自分に相続権があるというものである。「惣領之筋目」を主張し、信枚の襲封を「庶子之国」となったとして非難している。正信・正純父子を宛名としたのは、正信が将軍秀忠のいる江戸におり、正純が大御所家康のいる駿府にいることを十分把握していたためである。津軽大熊事件と呼ばれるこの事件は、慶長十四年正月に幕府から裁定が下り、大熊の後見とされる津軽左馬助建広(たけひろ)の津軽追放と、信枚の津軽仕置権が承認されて決着をみた(同前No.二六〇)。幕府から出された老中奉書本多正信大久保忠隣(ただちか)の連署であり、正信は秀忠の、忠隣は家康の意志を表していることはいうまでもない。
 なお、建広はこの後江戸において、本多正信の背中にできた腫物の治療をした功績により、外科医として家康に仕え、二〇〇俵を給されている。死亡したのは寛永十八年(一六四一)九月五日のことであった。子孫は二家に分かれ代々幕府医師として仕えている(『新訂寛政重修諸家譜 第十二』一九六五年 続群書類従完成会刊)。大熊は、その後江戸において元和八年(一六二二)十二月二十八日に死去した(資料近世1No.二六四)。なお大熊に関しては、天藤騒動なるものが伝えられている(同前No.一六一)。すなわち慶長七年(一六〇二)、為信とともに黒石の城にいた時、顔や髪に大火傷を負った。堀越城にいた父信建は、天藤兄弟を使者として大熊を堀越城へ連れ帰そうとした。しかし、天藤兄弟が使命に失敗したため、信建は彼らおよび妻子を殺させたという。しかし、この話は信建の残忍さを強調することにねらいがあるようで、いささか信が置けない。
 さて、信枚は二代藩主として幕府からの軍役負担を果たしている。詳細は本章第一節二の「江戸幕府からの軍役負担」に譲るが、慶長十四年下総国海上郡銚子築港の普請、慶長十六年の禁裏修造役、慶長十八年越後高田城の普請、慶長十九年大坂冬の陣への参陣、慶長年間の花山院忠長をはじめとする流罪人の預かり、元和年間の将軍上洛に伴う供奉などがそれに当たる。

図61.津軽信枚画像

 一方、領内に目を向けると、慶長十三年(一六〇八)に為信の菩提寺である革秀寺の建立がなされている。翌十四年からは、小知行藩士をはじめ寺院へも知行宛行(あてがい)の黒印状の下付が行われた(同前No.二六三・二六六・二六九~二七二)。これは、藩主となった信枚が行った代替りの知行宛行である。また、白取世兵衛に対しては、濱の長峰(比定地不)と浪岡の内である鞠沢(まりのさわ)(現五所川原市前田野目)両村の派立(はだち)が命じられている。詳細については、本章第三節三で述べる。
 信枚時代の最大の事業は、慶長十五年(一六一〇)に幕府検使の検分を得て高岡に築城をし、翌十六年に城下の町割りを定め、堀越から寺社・商工民・家臣団を移転させたことである(資料近世1No.二八三)。高岡への町屋派立は、為信時代の慶長八年(一六〇三)に命じられているが(同前No.一七九・一八〇)、実際にはどの程度であったのか、一次資料がなく不な点が多い。詳細については、本章第三節一で述べることにする。
 さて、信枚時代の次の大きな出来事となったのは、秋田藩との境目の決定であった。慶長八年六月十日に為信は佐竹義宣家臣大野蔵人へ書状と祝儀をわし、入部後の佐竹氏と友好関係を結ぶことを希望しているが(同前No.一六八)、その後藩境の協議をした形跡はない。秋田藩との境目交渉が急に問題化するのは、元和四年(一六一八)九月からであり、その裏には幕府の意向が働いている。幕府側の担当者は町奉行島田利正(としまさ)であるが、彼は単に町奉行というより、はるかに大きな政治力をもった幕閣クラスの人物であった。
 この境目交渉の動きについては、残念ながら津軽側には資料がほとんどなく、秋田藩境目交渉検使であった梅津政景の記録が中心となる(以下の記述は、福井敏隆「元和・寛永期の津軽藩の家臣団について―『大日本古記録 梅津政景日記』の分析を通して―」『弘前大学国史研究』八四 を中心に述べていく。なお、資料近世1No.三五五~三五八に『大日本古記録 梅津政景日記』の関係部分が載っている)。九月二十五日に、町奉行島田利正のあっせんにより、秋田領津軽領との境界について、津軽弘前藩家老服部康成・白取瀬兵衛から秋田藩家老梅津憲忠(政景の兄)のもとに、来月五日ころに「すこの山境目」(青森県岩崎村と秋田八森町の境界須郷の神宮を指す)で両藩の検使が落ち合って取り決めをしようという内容の書状が届いたのが始まりである。たまたま憲忠は仙北地方へ出かけていたため、政景が交渉に当たることになった。十月五日には弘前藩側の高屋豊前守寺尾権兵衛中村内蔵丞と政景・佐藤源右衛門が境目の検分をするが、双方の主張には食い違いが出る。弘前藩側は神社、やたての槻、打はらい川・とはらい川の存在を挙げて、須郷(すご)の神社の場所を境目と主張した。
 一方、秋田藩側は佐竹義宣秋田実季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら、角ヶ沢を境目と主張し、その場所へ両者が赴くが、そこは境目と主張できる場所ではなかった。そこで、政景は比内矢立(ひないやたて)の境目交渉と一緒に決定してはどうかと逃げるが、弘前藩側は比内境については交渉しないようにと藩主信枚から命があったとして拒否している。このため、政景らはいったん八森(はちもり)に引き返した。その後、十月八日に政景は藩主佐竹義宣からの書状を受け取り、八森境の件は義宣の指示で弘前藩側に譲歩する方針が決まった。この後、比内矢立の境目交渉に移り、十月十九日に弘前藩側の検使と落ち合うことになる。弘前藩側は尻合石を境目として主張し、秋田藩側は矢立の杉を境目として主張し、ここでも両者に食い違いが出る。弘前藩側は、八森境は矢立を主張し、比内矢立境は尻合石としながら、中途を取って境とする案を主張するが、政景は比内矢立境は矢立でないのは合点がいかないと不満を述べ、比内矢立境が決定しなければ、八森境も決定できないとして両者物別れに終わった。両者から「塩味(えんみ)」(譲歩のこと)の打診がなされるが、交渉はなかなか進展せず、津軽側は八森境は矢立・比内矢立境は尻合石だが峠切りに、秋田側は両所とも矢立境でなければ境目は決定しないということで膠着状態に陥ったのである。このため政景らはいったん久保田に帰り、十月二十八日には政景と佐藤源右衛門藩主佐竹義宣の元に赴き、両所の境目交渉の状況を説し、この度は決めることができなかった旨を言上し、義宣からもっともなことであるという同意を得ている。この後、『政景日記』には境目交渉の記事はしばらくみえなくなる。
 しかし、十一月二十五日に津軽弘前藩から寺尾権兵衛戸田茂兵衛が使者として久保田に来ており、この時に境目交渉に進展があったものと考えられる。次いで、十二月二十六日には弘前藩から境界交渉終結慶賀の使者として寺尾権兵衛が久保田に来着し、翌日義宣に若大鷹一羽・山帰太(やまがえりおおだか)一つ、憲忠に若兄鷹(わかしょうだか)一羽が贈られた。憲忠に若兄鷹が贈られているところをみると、最終的には家老梅津憲忠津軽側との交渉をうまく取りまとめたものと考えられる。最終的には八森境矢立境も矢立を境目とすることで決着した。
 なお、弘前藩が従来領地であった比内地方を秋田藩に譲り、弘前藩が代わりに青森県西海岸の深浦南方の地を得たという説があるが、この境目交渉の過程から判断して、そういう事実はなかったことが判する。

図62.碇ヶ関堺之図