信義の襲封

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二代藩主信枚(のぶひら)は、寛永八年(一六三一)一月十四日江戸屋敷において四十六歳で死去した(資料近世1No.四九九)。四月一日、信枚の嫡子信義(ちゃくしのぶよし)は三代将軍家光に初めて拝謁(はいえつ)し、十三歳で遺領を継ぐことが許され三代藩主となった(同前No.五一〇・五一一)。この時一緒に襲封(しゅうほう)のお礼をした津軽万吉は、のちに津軽黒石家の祖となる津軽十郎左衛門信英(のぶふさ)である。信義が藩主として初めて国元にやって来るのは、二年後の寛永十年(一六三三)十月三日であり(同前No.五四七)、従五位下土佐守に叙任(じょにん)したのは寛永十一年(一六三四)十二月二十九日のことであった(同前No.五六七)。
 信義は元和五年(一六一九)元旦、上野(こうづけ)国勢多(せた)郡大舘(おおたち)(現群馬県新田(にった)郡尾島町大舘)で生まれ、江戸で育った。母曽野(その)は信枚の側室で大舘御前と呼ばれたが、曽野の父は石田三成の子源吾といわれている。信義の出生地上野国勢多郡大舘(正しくは上野国新田郡大舘)は、藩祖為信が関ヶ原の戦いでの戦功で加増された領地とされる。国元津軽とはつながりの薄い状態で藩主となったわけである。

図73.津軽信義画像

 信義の正室は、松平因幡(いなば)守康元の三男康久の三女富宇(ふう)で、二代藩主信枚の正室満天姫(まてひめ)の姪にあたり、津軽弘前藩の二代・三代藩主の正室は連続して、間接的ではあるが将軍家の血縁者が選ばれた。
 巷間(こうかん)、信義は「ジョッパリ殿様」と呼ばれ、エピソードには事欠かない人物である。ただし、そのエピソードは後世の記録によって語られているものであり、同時代の記録ではそれらのことをうかがうことはできない。その一方で、新田開発治水事業に意を用い、領内開発に大いに力を注いでおり、その成果が現われていることも否定できないのである。以下、信義の藩主在職中の事績について概観してみよう。
 新田開発に関するものとしては、寛永十六年(一六三九)に飯詰野(いいづめこうや)村(現五所川原市野)の開村(同前No.六〇九)、同十八年(一六四一)に下柏木(現板柳町柏木)の派立(同前No.六四二)、正保元年(一六四四)に板屋野木(いたやのき)村(現板柳町板柳)の村立(同前No.六六九・六七〇)、慶安四年(一六五一)に広須古川袋(ひろすこがわぶくろ)の掘替工事をし鶴田村(現鶴田町鶴田)の開村(同前No.七三五)が挙げられる。また、成就はしなかったが、同二年(一六四九)には十三湊湊口切替工事に着手している(同前No.七二一)。
 一方、寛永十五年(一六三八)に竹森六之丞森山内蔵助(くらのすけ)に命じて、南部牧司(まきし)倉内図書(ずしょ)を招き、津軽坂(現青森市鶴ヶ坂)に牧場を開かせた(資料近世1No.六〇二)ほか、承応二年(一六五三)には近江国(現滋賀県)の浪人三上茂兵衛に命じて、枯木平(かれきたい)(現岩木町常盤野)にも牧場を取り立てている(『記類』上)。寒沢の尾太鉱山の開発も慶安三年(一六五〇)に始められた(同前No.七二七・七二八)。
 神社仏閣の再建等に関しては、父信枚の死後間もない寛永八年(一六三一)二月二十一日に、高野山遍照尊院(へんじょうそんいん)と契約を結び、以後、野山における津軽家菩提寺(ぼだいじ)としている(同前No.五〇八)。同十一年(一六三四)三月二十二日には、長勝寺禅宗法度(はっと)を下しており(同前No.五五八)、宗教政策の面での統制がみられる。同十五年(一六三八)九月二十七日には浪岡八幡宮の再建をしており(同前No.六〇三)、棟札(むなふだ)には信義という表記がみえる。信吉から信義に名乗りを改めたのはこのころと推定できる。同十七年(一六四〇)六月には百沢寺大堂の再建をし(同前No.六一四)、翌十八年(一六四一)正月には古懸(こがけ)不動尊(碇ヶ関古懸)の建立(同前No.六二七)、四月には青森安方町に善知鳥(うとう)宮を再興している(同前No.六三六)。また、正保元年(一六四四)には大円寺を種里村(現鰺ヶ沢町種里町)から銅屋町に移した(『記類』上)。

図74.浪岡八幡宮鳥居棟札

 幕府との関係では、寛永十八年(一六四一)に津軽家にとっての重大事である系図の問題が起こる。「寛永諸家系図伝」の編纂に当たって幕府から出された近衛家津軽家の関係に対する疑惑を、前関白近衛信尋(のぶひろ)の書状によって、津軽系図の筆跡は近衛前久(さきひさ)の手であること、政信は近衛尚通(ひさみち)の猶子(ゆうし)であることは疑いないという内容でしのいだ(資料近世1No.六三四)。
 弘前城下の問題としては、慶安二年(一六四九)五月三日に横町よりの火災寺町の大寺五ヵ寺等が焼失し、翌年三月に南溜池の南側に新寺町の派立がなった(同前No.七一三・七一四)。寺町に新しい屋敷割ができ、本寺町(現元寺町)となるのは承応元年(一六五二)のことである(同前No.七四三)。
 信義時代にも天災がいくつか起きている。寛永十七年(一六四〇)から十九年まで続いた大凶作により、領内は飢饉(ききん)となり、十九年には越後(現新潟県)から米穀を移入して、弘前で救米を一人当たり四升五合給付した。(同前No.六二一・六二二・六四三・六四四、六四八・六四九)。一方、水害は寛永十六年の下の切地方洪水(同前No.六一〇・六一一)、慶安元年(一六四八)の三世寺(さんぜじ)から下通りの洪水(同前No.六九九)が起こり、大凶作をも併発した。承応二年(一六五三)には弘前城下洪水土手町の大橋が落ちている(同前No.七五一)。これら天災よりも、大きな家中騒動があったのが信義時代の大きな特徴であろう。以下、それについて記述する。