江戸時代の刑罰は種々の見地から分類されるが、生命刑・身体刑・身分刑・自由刑・財産刑・栄誉刑に分けることができる。なお、法制史上、正(せい)刑と閏(じゅん)刑に分けることがあり、正刑は一般的な刑罰で、閏刑は武士と僧侶にだけ科せられる刑罰である。当藩の三種の刑法から刑罰をみてゆくと次のようになる。
①生命刑――鋸挽(のこびき)・磔(はりつけ)・獄門(ごくもん)・火罪(かざい)・斬罪(ざんざい)・死罪・下手人(げしにん)の七種が規定されているが、鋸挽は「文化律」にみえない。これらの中で磔が最も重く、下手人が一番軽かった。鋸挽は死刑の中で特別なものとして、主殺し・親殺しに対して科され、一日引き廻しのうえ、首だけ出して地面に埋め、三日間さらし、肩を傷つけ竹鋸に血を塗って希望者に挽かせ、その後に磔に処するものである。しかし、江戸においては殺伐の気風がなくなった元禄期(一六八八~一七〇三)以後、進んで首を挽(ひ)こうという者がなかったといわれる。当藩でも「国日記」に判例が見当たらず、実際には行われなかった可能性が強い。
磔は受刑者を十字架に縛りつけて、槍で突き殺し、死体をそのまま三日間さらしておく凄惨な刑罰である。獄門は首を刎(は)ねた後に、その首を獄門台の上に三日間さらすのである。火罪は火(ひ)あぶりともいい、放火犯だけに科せられることになっている。斬罪は武士以上の閏刑で、死体は新刀の様(ためし)斬りにされない。当藩ではむしろ百姓・町人などに科されているのが多い。下手人(解死人とも書かれる)は首を刎ねてその死体を取り捨てるもので、死罪と異なるのは田畑家財の欠所(けっしょ)(没収)がなく、死体は様斬りにもされない点で、死罪より軽い刑である。これらの刑罰は原則として城下取上(とりあげ)の御仕置場(おしおきば)で執行されたが、村端で行われたこともあった。死罪は死刑の一種で刑名である。下手人と同じように斬首であるが、死体は様斬りに用いられ、欠所も付加され、牢屋の前で執行される。このほか、武士には閏刑として切腹があった。
②身体刑――鞭刑と入墨がある。鞭刑は明和九年(一七七二)十一月以降から行われたようである。「安永律」の規定と判例から、敲(たたき)の数は不明であるが追放刑を伴う二重仕置(にじゅうしおき)が多い。「寛政律」では鞭三から一五までの五段階に分かれているが、「文化律」では五・一〇・一五と三段階になっている。いずれも鞭刑と追放刑および鞭刑と徒(ず)刑(懲役刑)などの二重仕置が多く、敲の数の種類も増え、判例には敲の数も規定にない多くの種類がみえる。入墨は古くから行われていたが、主として盗犯に対して用いられ、人に警戒を与えるためのものであった。多くは額に入墨し、その形によって何藩の者かがすぐわかったといわれる。特殊な身体刑として、「文化律」によれば、縁談の決まった後で、他の男と通じた女に科せられる剃髪(ていはつ)刑があった。
③身分刑――社会的身分に影響を及ぼす刑の意味である。非人手下(ひにんてか)は「安永律」「寛政律」「文化律」にみえ、百姓・町人などに適用され、その身分を剥奪して非人頭(ひにんがしら)の支配に属させ非人とするものである。改易(かいえき)は武士の当主および嫡子に対し、その家を断絶して庶民に落とす閏刑である。一宗構(いっしゅうがまえ)はその宗旨より、一派(いっぱ)構は宗旨中の一派より、それぞれ僧尼を追放する閏刑である。
④自由刑――追放・戸〆(とじめ)・徒刑・預けなどがあった。閉門(へいもん)・蟄居(ちっきょ)・逼塞(ひっそく)・遠慮などは武士と僧侶の、阿房払(あほうばらい)・腰抜払(こしぬきばらい)は武士の、追院(ついいん)・退院(たいいん)・構(かまえ)などは僧尼の閏刑である。追放刑は「安永律」成立以前は、越山(こしやま)・他領へ追放・弘前追放(弘前払)・青森追放・村払(村追放・居村払・居村追放)・所払(所追放)・町払(町内追放・町内追払)・追放・組払(組追放)・領内追放(領分追放)などがあり、名称が統一されていない。距離がはっきり示されている追放刑は、一里・二里・三里・四里・五里・七里・一〇里四方追放の七種類である。鞭刑を伴う追放刑には、鞭刑三〇鞭五里四方追放、鞭刑一五鞭五里四方追放、鞭刑三鞭三里四方追放、鞭刑弘前一〇里四方追放、鞭刑三里四方追放、鞭刑五里四方追放、鞭刑青森追放がある。これらが整理されて、「安永律」に重追放・軽追放・中追放・追放・町内払・村払の六種類として規定されたのであろうが、どの程度のものが重・軽・中追放および追放なのかは不明である。
「寛政律」には、所払にはじまり、三里・五里・七里・一〇里追放と規定されていた。一〇里追放の場合に御構(おかまい)(立入禁止)の大場(おおば)と称された領内の主要他は、九浦(くうら)すなわち鰺ヶ沢・深浦・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)・碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)と、飯詰(いいづめ)・板屋野木(板柳)・木造(きづくり)・浅虫・黒石であったが、「文化律」では金木(かなぎ)・五所川原・油川・浪岡・藤崎が追加されている。「寛政律」では、追放刑は一八敲(たたき)以上の者に科せられたのであるが、実際の判例をみると、敲の数の種類が多く、またさまざまな距離の追放刑と組み合わされた二重仕置となっている。
徒(ず)刑は懲役刑のことで死刑に次ぐ重罪であった。「寛政律」によれば、三〇敲のうえ、徒半年・一年・一年半と三段階に分かれている。取上の御仕置場で敲(鞭刑)が執行されてから鉱山(尾太(おっぷ)鉱山・湯野沢(ゆのさわ)鉱山)へ流され、年限のとおり労役に従事した。しかし、文化八年(一八一一)、徒刑は鉱山での苦役から牢居を命じることに変わった(「国日記」文化八年十一月七日条)。すなわち、徒半年は牢居一〇〇日、一年は牢居二〇〇日、一年半は三〇〇日とし、二年は四〇〇日とせず五〇〇日とした。五〇〇日とした理由は、死罪に代わって命じられる重罪であるからと記されている。牢屋は元来未決拘置所のことであるが、右の牢居のほかに永牢(ながろう)があった。永牢といっても、牢屋の収容能力から考えて、いわゆる無期懲役は少なかったと思われる。
戸〆(とじめ)は武士の逼塞(ひっそく)に相当し、釘で門戸を打ち付けて閉ざした。「寛政律」に五・一〇・一五・二〇・三〇日の五種類がみられる。預けは未決・既決の者を特定の者に預託する刑で、町預け・村預け・親類預けなどがある。閉門は居宅の門を閉じ、昼夜ともに出入りを許されず、蟄居は閉門と同じく一室内に謹慎することであるが、家族は門の出入りが自由である。逼塞は門を閉じるが、夜には潜門(くぐりもん)からの出入りは許される。遠慮は門を閉じても、潜門は引き寄せておけばよく、夜間目立たぬ出入りは許された。
阿房払は武士の刀を取りあげて五里追放する刑、腰抜払は刀を取り上げて一〇里追放する刑で、両者の区別は距離の差によるものであった(同前宝暦十一年正月二十一日条)。追院は僧尼に対し刑の申し渡し後ただちに追放し、退院はいったん寺に帰した後に追放するものであった。
⑤財産刑――欠所(けっしょ)と過料(かりょう)の二種がある。欠所は武士・百姓・町人などを問わず付加刑として科せられる没収刑である。「寛政律」の総則的な規定の小項目第二〇では、鞭三〇以上の刑に処せられたもので、専ら利欲から行われた犯罪は、利欲の軽重により田畑あるいは家屋敷・家財などを没収すべきものとした。「文化律」の総則的な規定の第二二には、重罪であっても利欲に関係のないものは、主殺し、親殺しとか一家三人以上を殺した者のほかは、欠所を申し付けてはならないと定めた。
過料は「寛政律」の総則的な規定の第六では贖刑(あがないけい)と記されているが、今日の罰金刑に相当するものである。「寛政律」によれば、老人や幼年者・廃疾などで刑罰の執行が困難な者に、また過失で殺人を犯したとか傷つけた場合にも過料を出させている。「文化律」の総則的な規定の第六には、戸〆五日の代わりに過料六〇〇文(もん)、一〇日・一五日・二〇日と日数が増えるとともにそれらに代わる過料も高くなり、最高は戸〆三〇日に対して一貫八〇〇文と定められている。鞭(べん)刑以上の刑に対する過料は、五敲(たたき)の代わりに過料三貫六〇〇文とあり、一〇敲・一五敲・一八敲の上所払、二〇敲三里追放、二四敲五里追放、二七敲七里追放、三〇敲一〇里追放、三〇敲の土牢居一〇〇日、三〇敲の上牢居二〇〇日、三〇敲の上牢居三〇〇日と重くなるとともに、それらに代わる過料も高くなり、最高は死罪に対して四二貫文となっている。過料は貧困などの原因で納められない場合は、三貫文までは日数三〇日の夫役(ぶやく)(労働課役)を賦課された。それ以上の金高を滞納すれば、鉱山へ送って一日六〇文の割合で夫役に従事させた。しかし、それにも服しえない事情の者には、一日に六〇文の割合で入牢(じゅろう)が命じられた。
⑥栄誉刑(名誉刑)――役儀取上(やくぎとりあげ)・叱(しかり)・隠居である。役儀取上は、罪人の帯びる役儀、たとえば村役人の庄屋の役職を取り上げることである。叱は百姓・町人などに対してなされる官よりの叱責をいう。隠居には自発的なものがあるが、武士が刑罰として強制的に隠居を命じられる閏刑を意味する。
図183.弘前藩の刑名
右に挙げた諸刑は、いずれも罪人の生前に科せられるものであった。罪人が刑の執行前に死亡した場合には、次のような方法で行われた。すなわち、牢屋の前(御用場(ごようば))で斬罪とする。取上の御仕置場や出身地の村端で獄門にかけたり、塩漬けの後に磔にする。火罪は頭巾(ずきん)をかぶせて生きているような姿につくり、持籠(もっこ)に乗せて弘前城下を引き廻し、取上の御仕置場で執行する。諸刑が組み合わされる二重仕置については、鞭刑と追放、徒刑と鞭刑、入墨と鞭刑などいろいろある。
刑の加重理由としては再犯があった。ある犯罪によって刑を科せられ、その執行中、または執行後に、さらに他の犯罪を犯すのを再犯と呼んだが、この場合には刑を加重するのが通例である。刑の軽減としては、自訴すなわち、自首と自白があった。自首した場合は刑が減軽される。自白は共犯者の中のある者が、犯行について早く自白し、それによって、他の者の犯行が明白になったとき、本罪の刑に比較して罪一等を減軽するのである。