築城当時の城下高岡がどのような状況であったのかは、資料がなく不明である。しかし、正保元年(一六四四)十二月二十五日、幕府が諸藩に国絵図と城絵図の調製を命じたことにより、幕府に提出された「津軽弘前城之絵図」(内閣文庫蔵 図68 資料近世1口絵)が残っている。この絵図は、江戸屋敷において、狩野内膳重良(かのうないぜんしげよし)に描かせ、慶安元年(一六四八)に幕府に提出したものである。一方、寛永末年の絵図と命名されている、同じ様式で描かれた「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)も存在する。しかし、この絵図は、記載内容に若干の相違はあるものの正保城絵図の下書きもしくは控えとしてほぼ同時期に作成されたものと思われる。よって両絵図を参考に城下の様子を見ていくことにする。
図68.正保2年津軽弘前城之絵図
基本的には、両絵図は弘前城を中心に、城下の町割りの様子、台地や石垣、土手、川、堀などを描いている。立地を概観すると、城の西には駒越川(こまごしがわ)(岩木川)が流れ、本丸の西下を岩木川(西堀)が流れ、ともに堀の役割をしている。その内側、城に近い所を和徳堰につながる堀川が流れ、さらにその内側本丸の真西にかつての岩木川の河跡湖である溜池がある。城下の東端を土淵川(つちぶちがわ)が流れ、これも堀の役割をしている。城下の南には南溜池(みなみためいけ)があるが、これは慶長十七年(一六一二)から同十九年(一六一四)にかけて開鑿(かいさく)され(『南溜池―史資料と考察―』一九八九年 弘前市教育委員会刊)、やはり堀としての機能を持っている。城下は東・南・西を水によって防御する構想の下に形成されたものといえよう。北には水の防御はないが、足軽町・歩者(かち)町(若党町)・小人町があって防御を固めている。
次いで、弘前城そのものをみると、本丸にはすでに天守閣はなく、本丸の南西隅に「天主ノ跡」という記載がみえる。これは、寛永四年(一六二七)九月五日に落雷によって焼失したためで(資料近世1No.四五七)、このとき武具や多くの記録類も焼失した。本丸には七棟の建物が描かれ、本丸御殿を示している。その他、現天守の部分と北とに櫓の土台と思われる痕跡が描かれている。本丸の北には小丸があり、ここには三棟の建物がみえる。また北東端には子(ね)の櫓が描かれているが現存しない。二の丸には侍屋敷が六区画あり、重臣が居住していたものであろう。さらに丑寅(うしとら)櫓・辰巳(たつみ)櫓・未申(ひつじさる)櫓と東門・南門が描かれており、いずれも現存している。本丸西下にある西の郭には、南西端に未申櫓が描かれているが、これは現存しない。当時は二の丸と三の丸を結ぶ通路は東門(二の丸東門)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は二の丸の北、丑寅櫓の西側に堀を渡る土橋ができて通路は三つになっている。三の丸には六九軒の侍屋敷があり、侍町となっていた。門は東門(三の丸東門)・南門(三の丸追手門)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった北門(賀田門、現存しない)があった。四の郭も侍町で四九軒の侍屋敷があり、北門(北の郭北門、亀甲門)があった。なお、城の西坂下(馬屋町)にも三六軒の侍屋敷があった。
城外に目を転じると、城の西側を流れる岩木川の西側に五三軒の侍屋敷と家数三四軒からなる鷹匠町があり、東側の土淵川沿いには侍屋敷が七四軒あり、川とともに防御体制が敷かれている。いずれも中級武士の屋敷があったのであろう。足軽・小人といった下級武士も城下の南北端に配置され、南溜池のすぐ北に足軽町があった。北端の様子は前述したとおりである。
町人の屋敷である町屋は、城の北から東、さらに南と城を取り囲むように配置されていた。城の西は侍町の西側、岩木川沿いに配置されていた。例外として、現在の上・中土手町と代官町のところが町屋として土淵川を越えて伸びていた。寛永末年の絵図には町割りの中に、侍屋敷数並びに町屋敷数が記入されており、侍屋敷数は五二八軒、町屋敷数が一一二七軒で、ほぼ一対二の割合になっており、合わせて一六五五軒の屋敷があったことが判明する。この絵図の通りには町名が書かれており、それにより町名がわかるところは、袰(ほろ)町(現四の郭)、侍町(現三の丸)、大浦町、黒石町(現大浦町と蔵主町の間にもう一本通りがあった)、横町通、蔵人町通(くらんどまちとおり)、長町通、寺町通、侍町(現百石町と百石町小路)、新土手町通、さやし町(現上白銀町)、片原(かたはら)町(現下白銀町)、下片原町(現下白銀町東側堀端)、志(し)わく町、親方町、大工町、新かち町、志(し)けもり町通、足軽町(現在府町)である。
一方、町割りの中に町名が記されているところもある。足軽町(現若党町と在府町)、小人町(現小人町、笹森町、長坂町)、歩者(かち)町(現若党町)、侍町(現四の郭、三の丸、馬屋町、五十石町、笹森町、鷹匠町の一部、塩分町の南側)、鷹匠(たかじょう)町等である。
寺社の配置をみると、城下の東北から北にかけて八幡宮とその別当寺院の真言宗最勝院、熊野宮、および神職の住む禰宜町(ねぎまち)、伊勢大神宮(神明宮)、西には浄土宗の誓願寺、南西には長勝寺・耕春院をはじめとする曹洞宗寺院、東には浄土真宗(門徒宗)・天台宗・日蓮宗(法華宗)・浄土宗の各寺院と、東照宮とその別当寺院の薬王院(やくおういん)が配置されている。南西の曹洞宗寺院の集まる区域は台地になっており、北側は斜面で、南側は寺沢川が流れる。この寺院街の入り口は北から南にかけて土塁が築かれ、空堀が掘られ、東側への防御対策がとられており、長勝寺構(がまえ)という。