一 古代における北奥の宗教世界

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 現在の弘前市内における中世寺社を語ることは、必ずしも中世の弘前宗教界を語ることを意味しない。中世寺社と称される多くが、政治的に、弘前近隣の諸地域から移転されたからである。しかも、弘前の宗教史も、周知のように、古代の安倍氏の系譜を引く「蝦夷管領(えぞかんれい)」安藤氏に象徴される如く、その営みは古代との連続のなかに捉えなくてはならない。
 それゆえ、私たちはどうしても弘前の中世宗教史とはいえ、現在の弘前市域を広く越えて、北奥津軽における古代~中世の宗教的営為から筆を起こさなければならない。
 奈良朝を経過した古代律令国家が「攘災殖福」「誘善利生」のスローガンのもと、仏教による鎮護国家政策を九世紀の世に推し進めようとしたとき、その主たる担い手を天台・真言の両宗に求めなければならなかった。事実、その両宗は鎮護国家の期待に応えるべく、地方における仏教行政官たる講師(こうじ)および仏事・法会を勤める読師(とくし)(講読師)の補任(ぶにん)を承和年間に上奏し、その補任許可が出されたのは天台宗の場合が承和(じょうわ)二年(八三五)であり、一方の真言宗はそれから二年後のことであった。この一点をみる限り、天台宗の方が真言宗よりも明らかに一歩先んじている。天台宗はこの上げ潮ムードに乗ってか、地方布教の拠点ともいうべき天台別院を、東国にも設置し始める。たとえば、嘉祥(かしょう)三年(八五〇)に上野国聖隆寺、元慶(がんぎょう)五年(八八一)に信濃国伊那(いな)郡観音寺、同じく陸奥国安積(あさか)郡弘隆寺などがその例である。
 この天台寺院の東国建立も、たしかに同宗の東国布教線の拡大を意味するものであるが、実はこれにも増して、天台宗と東国との結び付きの強さを証明してくれる興味深いことがある。それはほかでもなく、『天台座主記(てんだいざすき)』が物語る次のような座主補任の事実である。
 すなわち、歴代天台座主の出身地を九世紀に限定してみると、初代座主の義真(七八一~八三三)は相模国、二代の円澄(えんちょう)(七七二~八三七)は武蔵国埼玉(さいたま)郡、三代の円仁(えんにん)(七九四~八六四)は下野国都賀(つが)郡の出身。四代の安慧(あんえ)(七九四~八六八)は河内国で円仁に師事している。また七代の猷憲は下野国塩屋(しおや)郡出身、というように天台座主のポストを、初代~七代の間に東国出身者ないしはその関係者で七名中五名も占めているのである。この天台座主のポストをほぼ東国出身者が独占したという意味は決して小さくはなく、陰に陽に東国仏教の世界と天台宗との関わりの深さを実現しているものと思われる。
 この異常ともいえる東国仏教と天台宗の関係は、では一体どのような歴史的背景から生じたものであろうか。それを考える上で一つの手がかりを与えてくれるのが、次の『叡山大師伝(えいざんたいしでん)』の史料である。
(一)有東国化主道忠禅師者、是此大唐鑑真和上持戒第一弟子也、伝法利生常自為事、

(二)上野国浄土院一乗仏子教興、道応、真静、下野国大慈院一乗仏子広智、基徳、鸞鏡、徳念寺本是故道忠禅師弟子也、

 この二つの史料から、鑑真(がんじん)の高足に東国化主(けしゅ)=伝導者たる道忠禅師がおり、その道忠の下に上野国浄土院の教興・道応・真静、下野国大慈院の広智・基徳・鸞鏡・徳念ら七名が相承していたことがわかる。
 道忠の伝記は生没年とともに、多分に不透明な部分を残している。しかし、右の東国化主という事実およびその化主としての布教年時(七三四~七九七年)から推して、前の九世紀における東国講読師の補任・東国天台別院・東国出身者による天台座主の独占という東国と天台宗との不離不即の関係も、八世紀末葉のこの道忠禅師による東国化導を下敷きにしていることが推察される。つまり、道忠こそが古代東国に天台宗の宗教土壌を作り出した魁(さきがけ)であったのである。
 このように、東国仏教界は八~九世紀のころ、天台宗を基調とする宗教圏を形成していたのであるが、果たしてそれを立証する、より具体的根拠は存在するのであろうか。そのようすを詳しく検証してみることにしよう。
 まず、「蝦夷管領津軽安藤氏の祖たる「東夷の酋長」「六箇郡之司」の安倍氏は、その政治的拠点の十三湊に広く諸宗を網羅集合した津軽山王坊という宗教施設を営んだが、それは宗派的には天台宗系であったという。また、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「俘囚之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営の中尊寺は、東北の諸政治・諸信仰・諸文化、もろもろの祈りと願いとを一まとめにし、法華経を根本所依とする。つまり法華経の功徳によって、その中央に地上仏国土を実現するところの此土浄土という性質のもので、そのよるべき基本的な宗派はやはり天台法華円宗であった。しかも、ともに天台宗を基調とする津軽安藤氏の山王坊と平泉藤原氏の中尊寺の建造物には、建築学的に一定のかかわりも推定されるという(図42)。

図42 山王坊跡遺構配置図

 また、下野都賀郡出身の第三代天台座主円仁の入定伝説を蔵し、かつ円仁(慈覚(じかく)大師)の高弟安恵の開創とも伝えられる出羽山寺もまた、紛れもない天台宗寺院であり、平泉藤原氏が中尊寺を営んでいた一二世初頭の頃、この山寺=立石寺(りっしゃくじ)には「僧入阿が同法五人と共に精進加行して、法華経一部八巻を如法に書写し、(慈覚)大師の護持を仰いで弥勒の下生を期し、これをこの霊窟のいただきに納め奉る」旨の碑文を刻んだという。
 そして今ひとつ看過してならないのは、正嘉(しょうか)元年(一二五七)に勧進聖住信が常陸国で編んだ『私聚百因縁集(しじゅうひゃくいんねんしゅう)』に慈覚大師円仁の事例として、「只非山上洛下畿内近(ママ)国耳、他導遙過東夷、利生遠及北狄境。所謂出羽立石寺奥州松島寺等ナリ」が挙げられている点である。『百因縁集』によれば、円仁は出羽立石寺のみならず、奥州松島寺をも開創していたのである。
 こうしてみれば、古代東国の仏教界は、八世紀に道忠禅師の蒔いた天台宗の種が、九世紀における慈覚大師や道忠の高弟を通して、東国天台別院をはじめ、津軽山王坊平泉中尊寺、出羽立石寺、そして奥州松島寺という天台宗の大きな華をつけていた、といっても大過ないであろう。それは見方を変えれば、弘法大師空海の教線が西国方面に伸張していったのに対する、東国=天台宗という仏教文化圏の成立を予測させるに十分な歴史的営みであった。
 こうした古代の東国仏教史を彩る天台宗の圧倒的な宗勢ぶりを、より具体的に『津軽一統志』にみることにしよう。
 まず、はじめに、古代はもとより中世期の特質を逆に浮き彫りにするために『津軽一統志』首巻の「神社 仏閣」の項目に施して、図表化して示せば、次の表のようになる。
表1〈『津軽一統志』に見る神社〉
 寺社名創建年次・創建者別当(宗派名)備考
(1)岩木山三所大権現延暦十五年真言宗百沢寺坂上田村麻呂の奉祭
(2)八幡太神宮不詳最勝院(真言宗)鼻和庄八幡村は坂上田村麻呂の陣所
(3)大聖不動明王円智上人、阿闍羅山を開基国上寺(真言宗)付近に田村麻呂建立の森山毘沙堂あり
(4)勝軍地蔵堂慶長六年 為信公橋雲寺(真言宗)
(5)聖観音不詳久渡寺(真言宗)僧円智の創立とも伝える
(6)深沙大権現大同二年 坂上田村麻呂猿賀山長命院
神宮寺(天台宗)
(7)熊野三所大所大権現不詳飛龍山東福院
(天台宗)
元亀四年の建立ともいう
(8)八幡太神宮不詳那智山袋宮寺
(天台宗)
同右
(9)神明社為信公神職
(10)八幡太神宮(浪岡)延暦十二年 坂上田村麻呂同右退転前の別当は如意山妙宝院
(11)加茂大明神(浪岡)同右同右
(12)横内妙見堂(青森)延暦十一年 坂上田村麻呂孫九郎
(13)藤崎毘沙門天延暦十二年 坂上田村麻呂
(14)森山毘沙門堂同右
(15)熊野本宮大権現大同二年 坂上田村麻呂
(16)山王大権現同右
(17)今淵八幡太神宮同右
(18)浪岡牛頭天王同右
(19)外浜十二所権現同右
(20)田舎館大日如来堂同右修験
大蔵院
(21)広船千手観音堂同右修験
広住院
本尊は恵心作と伝える
(22)桜庭千手観音堂未詳斎藤大和守本尊は弘法大師作と伝える
堂は田村麻呂の建立とも伝える
(23)桜庭地主八幡宮大同二年 坂上田村麻呂
 
 寺社名創建年次・創建者別当(宗派名)備考
(24)深浦間口観音堂大同二年 坂上田村麻呂修験
善光院
本尊は聖徳太子作と伝える
(25)深浦薬師堂同右本尊は智証大師作と伝える
(26)赤石毘沙門堂同右神職
(27)藤崎熊野大権現未詳 坂上田村麻呂修験
常福院
「往古真言宗寺院退転シテ今号城館
(28)乳井毘沙門堂承暦二年福王寺坂上田村麻呂の創建で承暦二年の再興とも伝える
(29)日照田薬師如来堂同右本尊は行基菩薩作と伝える
(30)追良瀬如意輪観音康永三年藤原氏家
(31)入内観世音堂未詳慶長年間の創立と伝える
(32)地主白山大権現未詳神職同右
(33)十腰内観世音未詳百沢寺(真言宗)岩木山三所権現を参考
(34)十腰内大石大明神同右同右同右
(35)沖館貴峯山十一面観音文亀三年修験
貴峯院
(36)鯵ケ沢八幡太神宮未詳 北条時頼
(37)堀越熊野大権現宮未詳

 右表が端的に示すように、北奥津軽において古代~中世に創建された神社数は、三七社を数える。それを別当別ないし宗派別にみると、最初の岩木山三所大権現八幡太神宮大聖不動明王・勝軍地蔵堂聖観音真言宗に属し、続く深沙大権現熊野三所大所大権現八幡太神宮天台宗、それ以外は不詳か神職・修験に属している。
 このように、神社の別当が各々、真言宗天台宗および神職や修験に所属していたこと自体、北奥地域の神仏習合を余すところなく示すものであるが、実はこうした習合的事実以上に、右の表は重要な史実を秘めているように思われる。
 すなわち、浪岡の八幡太神宮から日照田薬師如来堂に至る二〇社は、ほとんど延暦十一・十二・大同二年の期間(七九二年~八〇七年)に、かの坂上田村麻呂によって建立されているのである。田村麻呂が延暦十年(七九一)、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の下に征東副使として蝦夷征討に向かい(史料二一七)、同十六年に自ら征夷大将軍に補任されたこと(史料二四二)、さらには大同二年(八〇七)、胆沢の地に築城してここに鎮守府を移した一連の蝦夷平定の事績に徴すれば、延暦十一年から大同二年に集中しているその神社建立年時も首肯(しゅこう)されよう。この坂上田村麻呂による神社造立ないしは田村に仮託した神社建立は、年代的にもまったく符合している。
 だがしかし、一方の真言宗寺院が別当を勤仕する岩木山三所大権現八幡太神宮大聖不動明王聖観音に眼を転ずるとき、『津軽一統志』の「神社 仏閣」項に多少の疑念を抱かざるを得なくなる。
 つまり岩木山三所大権現の創建時である延暦十五年(七九六)は、空海の入唐と真言宗請来が延暦二十四~二十五年であることから、明らかにこの創建年時と別当名は事実誤認であるとしなければならない。
 さらに、大聖不動明王聖観音の創建者について、『津軽一統志』は前者に関し「此山往昔円智上人唐僧開基阿遮羅山」(写真138)と伝え、後者に関し『新撰陸奥国誌』は、その別当寺の久渡寺を僧円智の創立として、ともに僧円智を創立者と見なしている。この僧円智が紛れもなく真言僧であれば、少しも疑義を呈する余地はないのであるが、実はこの僧円智を語る部分の『津軽一統志』はかなり流動的で曖昧模糊としているのである。すなわち、一方の大聖不動明王を伝える項では、怘(古)懸山のことを「此山往昔円智上人唐僧開基阿遮羅山俗呼而為阿婆羅古へ置三千房開辟年月于考不詳」と、円智上人の仏教的立場を大聖不動明王の別当たる国上寺真言宗ととらえて、開辟年時のことを不詳としながらも、さも円智上人=真言僧のように記述している。

写真138 『津軽一統志国上寺

 また一方の深沙(じんじゃ)大権現=天台宗を伝える項では、
当国ハ者中ル日本ノ艮ニ之間往古移シ比叡山ヲ而置ク三千坊ヲ所ル謂阿遮羅千坊十三(トサ)千坊東ノ嶽千坊者南部迄有ト云神宮寺阿遮羅千坊之一也ト云延暦年中田村麻呂請テ東夷征伐之勅ヲ而卒シ五万八千之宮-兵ヲ征スル凶徒ヲ之時戦ヒ不ス利アラ依テ之ニ所ニ仰ク仏神ノ之威力ヲ則チ有感応此ノ御神現シテ夜刃ヲ護-衛ス将軍麻呂ヲ是レ当社、

と、前の円智上人の開基と伝える阿遮羅の三千坊のことを、天台宗の根本道場たる比叡山とのかかわりで捉え、しかも深沙大権現の建立を坂上田村麻呂に関連づけて伝えている。
 ここに至っては、私たちは『津軽一統志』が円智上人の描写をめぐって、ある種の史料的錯誤を犯していると認めざるをえない。
 つまり、坂上田村麻呂を媒体として、蝦夷平定事業に血道をあげる桓武天皇、官僧かつ天台僧である最澄をこの上なく重用し続けた桓武天皇、この桓武天皇を中心軸とした坂上田村麻呂と最澄の三者が思い描く政教関係の構図では、『津軽一統志』が前述の如く時代誤認する真言宗がその中核となることはまったくありえない。平安前期における北奥宗教界に君臨していたのは、やはり天台宗であったと考えられる。推測に推測を重ねていえば、古代北奥の宗教界は、天台宗の一色に塗りつぶされるほどであり、その教勢は坂上田村麻呂と相乗することにより、日に日に不動のものとなっていった。
 なかでも、旧名大浦八幡宮と伝える八幡太神宮の旧在所たる鼻和(はなわ)庄八幡村は、『津軽考』に田村麻呂将軍の陣所が定められた場所であるという。そうしてみれば、右表の真言宗神社の別当と伝える岩木山三所大権現八幡太神宮大聖不動明王聖観音の四社は、原初的には、決して真言宗などではなく、その好敵手たる天台宗に属していたと考えるのが、理の当然ではないだろうか。
 そういう意味からも、天台宗が別当を勤めたとされる深沙大権現熊野三所大所大権現八幡太神宮の三社は、平安前期の桓武天皇坂上田村麻呂-最澄という三社一体的な政教構図から推しても、容易に推定できる。この時代的にも矛盾なく整合する三社のうち、とりわけ深沙大権現の縁起を伝える前掲の、「当国者中日本艮之間、往古移比叡山」に始まり、天台宗比叡山と坂上田村麻呂との政教一如を説く一文は、当該地域における古代宗教界を見事に活写したものであるとともに、当該宗教界の最古層を描写した古態図であるといってもよいだろう。
 それゆえ、弘法大師と関係づけられる桜庭千手観音堂、いつの日か真言宗に転じたとされる藤崎熊野大権現、ともに真言宗寺院を別当に持つと伝えられる十腰内観世音・大石明神なども、その建立当初から真言宗に属していたのではない。前の岩木山三所大権現八幡太神宮大聖不動明王聖観音と同様の理由で、当初は天台宗の神社に始まり、それがある時期に真言宗に改宗したものと解される。この改宗については後述する。
 そのなかにあって、北条時頼を開創とする鯵ヶ沢八幡太神宮は、時頼廻国伝説とかかわるだけに、一際異彩を放っていて注目される。
 以上、北奥津軽における古代~中世の神社の建立事情をめぐって、その古代神社の建立には坂上田村麻呂が深くかかわっていたこと、『津軽一統志』が真言宗系と伝える神社も、当時の歴史的背景を考慮するとき、それは真言宗系に端を発したのではなく、天台宗系に属する神社として始まったこと、したがって、その意味では古代北奥の宗教界は、桓武天皇坂上田村麻呂-最澄の三者が切り結ぶ天台宗の主導する宗教地平にあったことなどが想定されるのである。
 さて、次に古代~中世における北奥津軽の寺院造立について、『津軽一統志』「神社 仏閣」によりながら復原してみることにしよう。
表2〈『津軽一統志』「神社 仏閣」に見る寺院〉
 寺院名宗教名本寺創立年次備考
(1)百沢寺真言宗不詳真言五山寺 初め、十腰内村にあり
(2)最勝院同右天文元年 弘信僧都真言五山寺 初め、大浦種里村にあり
(3)国上寺同右不詳 僧円智の創立とも真言五山寺
(4)橋雲寺同右慶長六年真言五山寺
(5)久渡寺同右不詳 僧円智の創立真言五山寺 初め、小沢村にあり
(6)大円寺真言宗別行派不詳初め、大浦種里村にあり
(7)高伯寺同右大円寺後白河院の治世蔵館村にあり。東夷調伏のため
(8)神宮寺同右大同二年天正十五年に真言宗に改宗、元和期旧に復す
(9)東福院天台宗不詳頽廃後、袋宮寺として再興
(10)袋宮寺同右天正年中
(11)報恩寺同右江戸輪王寺明暦三年
(12)長勝寺曹洞宗加賀宗徳寺大永年中藤崎満蔵寺と合考すべし
(13)亨(ママ)徳寺同右長勝寺
(14)全昌寺同右同右
(15)海蔵寺同右同右明応年中
 
 寺院名宗教名本寺創立年次備考
(16)清安寺曹洞宗長勝寺清安寺の末寺に、赤石村の松源庵、中野目の村庵あり
(17)革秀寺同右同右慶長年中
(18)梅林寺同右革秀寺
(19)龍淵寺同右梅林寺板屋野木村
(20)寿昌院同右長勝寺
(21)常光寺同右同右
(22)月峰院同右同右
(23)長円寺同右同右飯詰村
(24)正光寺同右同右
(25)雲祥寺同右同右金木村
(26)正法院同右同右蓬田村
(27)宗禅寺同右同右荒川村
(28)全龍寺曹洞宗長勝寺蓮川村
(29)耕春院同右賀州宗徳寺天正年中
(30)常源寺同右耕春院永禄六年
(31)天津院同右常源寺
(32)恵林寺同右同右
(33)宝泉寺同右同右深浦町ヵ
(34)東福寺同右同右小湊
(35)藤先寺同右耕春院天正年中
(36)泉光院同右藤先寺
(37)安盛寺同右耕春院
(38)盛雲院同右同右
(39)川竜院同右同右
(40)万蔵寺同右同右
(41)梅田村庵同右万蔵寺
(42)鳳松院同右耕春院
(43)嶺松院同右同右
(44)正伝寺同右同右
(45)永泉寺同右同右
(46)松源寺同右同右
(47)高沢寺同右同右鯵ケ沢町ヵ
(48)隣松寺同右長勝寺亨禄年中
(49)宝積院同右隣松寺
 
 寺院名宗教名本寺創立年次備考
(50)誓願寺曹洞宗岩城専称寺慶長元年
(51)専求院同右誓願寺
(52)法立寺日蓮宗洛陽本国寺天文二年開基は日尋に始まる
(53)本行寺同右同右為信公の世
(54)真教寺浄土真宗洛陽東本願寺天文十九年
(55)専徳寺同右真教寺天文元年
(56)法源寺同右同右文明十三年初め、外浜油川にあり
(57)円明寺浄土真宗洛陽東本願寺明応八年初め、外浜油川にあり
(58)長栄寺修験未詳

 一瞥(いちべつ)して理解されるように、古代~中世に建立された寺院の総数は五八にも及び、そのうちの百沢寺最勝院国上寺久渡寺、大円寺、高伯寺は古代・中世における真言宗寺院であり、神宮寺東福院および袋宮寺は同期の天台宗寺院である。
 まず、国上寺であるが、これは前述した『津軽一統志』の「此山往昔円智上人唐僧開-基阿遮羅山」にみるように、円智上人に縁が深い。また久渡寺も、『新撰陸奥国誌』の伝にしたがえば、僧円智が小沢山救度寺(くどじ)と称して創立したという。一方、百沢寺最勝院、大円寺、そして高伯寺はいずれも移転を繰り返した寺院である。具体的にいえば、百沢寺は『津軽一統志』が「往日有山東腰内村」(写真139)と伝えるように、もともとは十腰内村に開基されたものであり、最勝院・大円寺・高伯寺も、その初めは大浦種里村に所在していた。

写真139 『津軽一統志百沢寺

 変転を重ねたこれら真言寺院と伝えられる寺院も、国上寺および久渡寺と同じく、円智上人=天台宗僧に陰に陽にかかわることがあったと想定するなら、これらと同じように、当初は天台宗寺院として開基され、しかるのちに真言宗へと改宗したのではなかろうか。
 次いで、天台寺院と伝える神宮寺東福院および袋宮寺についてであるが、まず神宮寺についていえば、同寺は大同二年の創建になり、そのよるべき史料は前に「深沙大権現」に引いた『津軽一統志』の「当国者中日本艮之間往古移比叡山」(写真140)に始まる一文である。前述したように、この一文は桓武天皇坂上田村麻呂-最澄の三位一体的な政教一如の態を窺見して余りあるものであり、この点からも神宮寺は、最も古態をとどめる天台寺院であるといえよう。

写真140 『津軽一統志神宮寺

 したがって、北奥の古代仏教界はこの天台宗の名刹たる「猿賀山長命院神宮寺」を中心に、中世のある時期以後に、真言寺院と伝えられてきた百沢寺最勝院国上寺久渡寺・大円寺・高伯寺なども、天台宗系寺院として開基され存在していたのではなかろうか。
 以上、『津軽一統志』により古代~中世の北奥津軽の寺社建立を眺めてきたが、約百の神社と寺院とが、混然一体となった存在自体、当該地域も本州の他地域と同様、神仏習合の思潮下にあったことを今一度ここで確認しておきたい。
 また、古態を示すであろう古代の神社や寺院のいくつかは、先に触れたように、時の政治拠点の移動とともに移転を余儀なくされており、その点、『津軽一統志』に描く寺社像が原初そのものを伝えているものでないことは、留意すべきである。具体例を挙げると、「神社」の項でみた岩木山三所大権現の別当寺院である百沢寺
別当寺院ハ者往日有山ノ東十腰内村ニ此ノ時詣ル於山ニ道俗有逢コト怪異之難ニ故ニ奉祈-誓大権現ニ仰ク神詫ヲ之処勅シテ曰従リ是南ノ腰超ヘテ一百之渓澗ヲ而建テ寺院ヲ須クヘシ登山ス云々因而移シ-来ル寺坊ヲ於今マ之所ニ寺ニ呼フ邑ニ于考年月不詳、

 というように、その当初は十腰内村にあった。同じく、八幡太神宮も『津軽志留遍(つがるのしるべ)』によれば、もとは鼻和庄八幡村にあったのを、天正元年(一五七三)、津軽為信の世に堀越城の北に遷座し、さらに慶長十七年(一六一二)、信牧が現在地に勧請して、弘前の鎮守に定められたという。一方の「寺院」の項の最勝院も、「初め大浦種里村の一森に在り、文禄中、堀越村に移り、正保四年、今の南溜池の上に移された」という。
 このように、北奥の宗教世界の古層を形成する寺社群の存在地点を通して、当該地域の原風景を推察すると、ほぼこのような風景描写を粗描できるのではなかろうか。
 すなわち、当初天台宗に始まったと考えられる国上寺の立地する碇ヶ関(いかりがせき)、その昔、阿闍羅山とその山中に三千坊の僧舎を有したとされる早瀬野(はやせの)や宿川原(しゅくがわら)、さらには、当初天台宗であったと思われる大円寺・高伯寺の現存する蔵館(くらだて)・大鰐(おおわに)地域(写真141)。これに隣接する石川(いしかわ)村には坂上田村麻呂将軍が建立したと伝える森山毘沙門堂が存する。この碇ヶ関-大鰐地域は、桓武天皇坂上田村麻呂-最澄という三者一体の政教一如の態が顕現した北奥における古代仏教界の巨大なメッカであったのではないか。

写真141 阿闍羅山と大鰐町

 それでは、碇ヶ関-大鰐地域がこのように北奥仏教界の巨大メッカであるとするなら、これを除いて当該地域の宗教拠点は存在しなかったのであろうか。おそらく、そうではないだろう。
 『津軽一統志』が「古跡」として「十三湊 当城北小泊崎並其中間者山也。要スルニ此ノ地ヲ湖水謂フ十三ノ潟(カタ)ト当郡大小十三之河水于此所落テ而入ル於海ニ(中略)是ノ境ノ之佳景(カケイ)三王坊ト云フ人所ノ著ワス之十三往来ニ詳カニ見ヘタリ(下略)」と紹介した十三湊の宗教施設たる津軽山王坊については、その『津軽一統志』もその『十三往来』(写真142)に譲って多くの筆を割(さ)こうとはしなかったが、この山王坊も中世安藤氏の祖たる古代安倍氏の世において、他の寺院と同様に天台宗寺院として十三湊の地に建立されていたのではなかろうか。安倍-安藤氏という当該蝦夷社会の雄が、後日、日蓮が「安藤五郎は因果の道理を弁(わきま)へて堂塔多く造りし善人也」と評したように、中世の『宇都宮家武条』に見る宇都宮氏に比しても決して遜色のない相当大規模な宗教施設を構えたことは、いとも容易に推定される。

写真142 『津軽一統志附巻』十三往来
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 とするならば、古代における北奥の宗教界は推測を重ねると、藤崎・碇ヶ関・大鰐地域が宗教的拠点として存在していた。この地域は、坂上田村麻呂将軍の蝦夷征討という名の古代律令国家にとっての支配の北限を示す場でもあり、その周辺には、いうまでもなく、前述の数多の神社が造営されていた。
 同時に、この界隈は視点を変えて見れば、蝦夷社会の中枢を担う安倍-安東氏にとっての支配版図の南限を示す境界でもあり、その支配版図のなかに、藤崎・碇ヶ関・大鰐地域という一大拠点とともに、いま一つ十三湊津軽山王坊という宗教拠点もあわせ持っていたのである。前者が政教一如の形としての宗教メッカとするなら、後者は北奥と道南との円滑なる人的のみならず物的交流を図る、航海安全と豊漁を祈願する祈禱メッカであったのではあるまいか。古代北奥の仏教界は、このように天台宗に色濃く彩られた二つの宗教拠点を有していたと考えられる。