藩では山林の種類を、本山(もとやま)・田山(たやま)・見継山(みつぎやま)・仕立見継山(したてみつぎやま)・立山(たてやま)・抱山(かかえやま)などに分類した。本山は樹木の伐採が可能な山で、上山通り(碇ヶ関の山林から目屋の沢山林までの九山)、中山通り(前田の目山林から小泊山林まで二二山)、外浜通り(鶴ヶ坂山林から宇鉄山林まで四二山)、西浜通り(中村山林から大間越山林まで一八山)、抱合山(かかえあいやま)(浅瀬石山林。黒石津軽家との共同管理)の五つの地域区分に分けられていた。田山は水源涵養を目的として禁伐林となっている。見継山は、本山のうちで樹木を切り尽くしてしまった後に山下の村民に若木を育成させ、ある一定の大きさとなった際に初めて伐採を認めて杣役(そまやく)銭を徴収するものである。仕立見継山は、本山の内、またはその他の空き地において栽培の許可を得て樹木を育成し、成木の際に伐採を認めるもので、役銭が免除されている。立山は藩の直接経営する山で、伐採を禁じている。抱山は村民の所有する山で、納税が本則であるが、伐採・補植等に制限が加えられている。さらに、良材の産地では、伐採を一切認めず、不時の事態や重要な建築用に用いる御囲山や、濫伐防止のため数年間立ち入りを禁じた留山というものもあった。これらからわかるように、山の種別によって樹木の伐採・育成・補植などに藩からの制限があり、また伐採時に杣役銭の徴収がなされるように、山林が藩の財政収入源として重要視されていたことがうかがえよう。これらの山林を管轄する藩の役所として山方役所があった。
山林の伐採方法はいわゆる輪伐法が採られ、奥山から漸次近山へとなされていった。藩では毎年ある一定の伐採定数を定め、非常時以外はそれ以外の伐採を認めなかった。さらに木の種別によってもみだりに伐採することを禁じた。樹木の種類には変遷があるが、杉・檜のほか、桂・槻(つき)・椹(さわら)・栗・桑・漆・松・朴(ほお)・栃・栴檀(せんだん)・桐・柏・槐(えんじゅ)などである。さらに伐採ののち空山となったところには植林が行われた(植林については表23参照)。
表23 信政時代の林政 |
年 月 日 | 事 項 |
延宝3(1675) | 小栗山(現小栗山)に松山数十ヵ所を仕立てる。 |
貞享元(1684) | 松の育成方などについて定める。 |
貞享2(1685) | 松・はん・檜の種を国元に下す。はんの種は広須新田に植林。 |
貞享3(1686) | 石川村(現石川)長者森から桔梗長根までの地域ほか数ヵ所に松山を仕立てる。 |
元禄2(1689) | 千歳山(現小栗山)付近に松・杉1万本を5年間にわたり植える。浪岡組本郷村・浪岡村・五本松村(現浪岡町)に松植林。 |
元禄5(1692).4.19 | 和徳組小沢村(現小沢など)への松杉苗植林計画の申し立て。100万本以上を見込む。 |
元禄5(1692) | 上檜木・榎・櫟・樫・椋・椎の種・苗木の取り寄せを命じる。 |
元禄6(1693).正 | 郡奉行,荒地野山への松・杉植林を申し立て、許可される。 |
元禄7(1694).正.24 | 郡奉行の申し立てにより,松・杉・檜・楢の実の採取と松・杉・桐・檜・槻その他の雑木仕立てを命じ,惣山奉行を郡奉行支配とする。 |
元禄10(1697).3 | 五本松村(現浪岡町五本松)の野山から大釈迦山にかけて松苗20~30万本植林。 |
元禄10(1697).6 | 高杉組大森村(現大森)の大森・せうか森に松1万4000本植林。 |
元禄13(1700).3~8 | 唐牛村(現大鰐町唐牛)大野に小松3万本を植林,その後にわたり植え継ぎを命じる。 |
元禄15(1702).5 | 城下近在の山々に雑木の植林を命じる。 |
元禄15(1702).5 | 黒石円覚寺(黒石市乙徳兵衛町)より杉苗3万本献上,外浜駒込山(現青森市駒込)に植林を命じる。 |
元禄16(1703).4 | 浪岡組本郷(現浪岡町本郷)・吉田(吉野田村ヵ,現浪岡町吉野田)・中野(現浪岡町中野)各村に松・杉植林。(3ヵ村にはこの年まで松67万9000本余,杉1500本を植える。) |
宝永元(1704) | 高杉組鬼沢村(現鬼沢)の野山に松・杉等の植林を命じる。杉・松等を和徳組小沢村へ年2500本ずつ,久渡寺(現坂元)境に年1700本植樹を命じる。 |
宝永2(1705).3 | 津軽坂村(現青森市鶴ヶ坂)・岩渡村(現青森市岩渡)・孫内村(現青森市孫内)・大谷村(現青森市大谷)に植えられた柏の保護成木を命じる。 |
宝永4(1707) | 漆奉行対馬万右衛門,諸木植立について上申。 |
宝永4(1707).3 | 檜・桐の植樹を奨励するとともに,領内各所に松・杉の植え立てを命じる。 |
宝永5(1708).2 | 外浜・西海岸の防風林植林に着手。 |
宝永5(1708).3 | 碇ヶ関村(現碇ヶ関村碇ヶ関)・島田村(現大鰐町島田)・早瀬野村(現大鰐町早瀬野)・虹貝村(現大鰐町虹貝)でこれまで植えられた杉の本数を調査,合計13万4284本(木回り4尺から1丈までのもの)。 |
注) | 『東北産業経済史 5 津軽藩』(1937年 東北振興会刊)より作成。 |
植林と同様に漆木の植え付けも盛んに行われた。津軽領で本格的に漆の栽培が始まったのは、「成田家記」によると、成田宗全(なりたそうぜん)が藩に栽培を説き、自費によって一年に一万本、五年間に五万本の漆を植え付けるために弘前城郭内惣構(そうがまえ)の草地の借用を願い出て許可された寛永元年(一六二四)のこととされている。七年後の領内における漆の移植地は、領内一三地域に及び、全体で五万四七〇〇本余りが植えられたという。現弘前市域内でも、堀越城跡、石川村(いしかわむら)(現石川)、一渡村(いちのわたりむら)(現一野渡)、乳井村(にゅういむら)(現乳井)が含まれている(『津軽の伝統工芸 津軽塗』一九八一年 弘前市立博物館刊、表24参照)。さらに正保年間に漆木は八万本以上に増加する。貞享検地の検地水帳に記載された漆の本数の総計は三二万七一五八本に達し、漆林の総計は五六町五反七畝二七歩、漆畑の面積総計は四三町三反一畝二七歩に及ぶ。これを各組ごとにみると、横内組・大鰐組・駒越組など、比較的面積が広い山間部に多く、広田・広須・柏木・金木新田・俵元新田・和徳・大光寺・猿賀組など岩木川・平川流域の水田地帯には栽培が少ない(前掲『津軽の伝統工芸 津軽塗』)。漆が藩にとって領内の産物として重要視されていくのは、漆が塗物の原料として、また漆の実が蝋燭(ろうそく)の原料として用いられたためである。藩は当初蝋燭の原材料としての漆を重要視したが、貞享から元禄年間にかけて、藩の御抱塗師である池田源兵衛・源太郎(青海源兵衛)親子が二代にわたる修業の末、「変塗(かわりぬり)」技術を藩に導入したこともあいまって、徐々に水漆を用いた塗物の生産にも積極的になっていった。
表24 寛永7年の漆木植え付け場所と本数 |
漆木植え付け場所(現地名) | 本数(本) |
大浦城跡(岩木町賀田 大浦) | 5,850 |
藤崎城跡(藤崎町藤崎) | 3,900 |
堀越城跡(弘前市堀越 川合・柏田) | 4,050 |
一渡村(弘前市一野渡) | 2,500 |
横内村(青森市横内) | 8,100 |
浪岡村(浪岡町浪岡) | 5,000 |
桑ノ木田村(柏村桑野木田) | 6,000 |
赤石村(鰺ヶ沢町赤石町) | 3,000 |
尾崎村(平賀町尾崎) | 5,050 |
唐竹村(平賀町唐竹) | 1,000 |
乳井村(弘前市乳井) | 3,050 |
館野越村(板柳町館野越) | 4,100 |
計 | 54,700 |
注) | 『津軽の伝統工芸 津軽塗』による。 |
寛文五年(一六六五)の「御蔵百姓諸役之定」(『津軽家御定書』)によると、定書が出されるこの段階以前から、漆掻きや山漆の実取りを給人が百姓を動員して行っていたことがわかる。さらに寛文六年と翌年に定められた領外への移出禁止の物品の中に漆と漆の実がある。また在方に藩士を奉行として派遣し、漆の実を採取させたりするなど、この時期には漆が藩にとっての重要な産物として認識されていたことが明らかである。
延宝五年(一六七七)には、初めて漆奉行という役職が「国日記」に表れる。漆奉行は用人支配であり、定員は八人前後で、足軽隊の古参組頭クラスが命じられていたようである。主たる仕事は春秋二回の領内見回り、漆木栽培可能な場所の見分、各村に専属で置かれた漆守の支配、および漆掻き・漆栽培者の監督が挙げられる。さらに漆掻きが行われるときには、漆奉行の他に足軽目付や足軽組頭から命じられた漆掻き立ち会い目付が領内を廻って不正の防止に努めている。一方漆の実の採取は最初は足軽組頭などが農民を使役して採取していたとみられるが、その後漆実取奉行には手廻組や馬廻組の藩士の下に属する与力達が命じられるようになり、農民を使役して採取する形へと変わっていった。漆掻き立ち会い目付の任命の場合にも徐々にこの傾向がみられるようになっていく。採取された生漆は漆奉行の管理のもとに置かれたが、漆の実は蝋燭にするため城下の蝋燭問屋へと払い下げられ、管轄も蝋燭奉行のもとに属していた(福井敏隆「『漆木家伝書』解題」『日本農書全集 四七 特産三』一九九四年 農山漁村文化協会刊)。
このように漆栽培に対して積極的な関与を示す一方、藩では技術者を上方から招いて漆掻きの技術を取り入れることも行っている。天和三年(一六八三)には、技術者を大和国吉野から呼び寄せ漆掻きを行わせるとともに、漆採取の方法について書き上げるよう命じてもいる(同前)。
このような藩の奨励もあり、漆の生産量は徐々に伸び、寛文十年(一六七〇)に生産された生漆の量は八三貫二七〇匁であったが、延宝六年(一六七八)には八六貫九六匁、元禄六年(一六九三)には一四六貫五五〇匁と伸びている。
元禄飢饉後の復興策においても、荒畑での育苗・植林が重要視された。「国日記」宝永元年(一七〇四)三月十二日条の漆奉行「口上書」によれば、元禄飢饉以来の凶作・不作によって村々に残された数十町歩の荒畑を、高無(たかなし)百姓の成り立ちのために一町五反歩ずつ無年貢で分け、そこに一〇年間で「松・杉・諸木数拾万本」の植林・栽培をもくろんでいた。そして年貢が徴収できるようになったら、一反歩に付き五分なり三分なりで銭納を命じることを申し立て、裁可されている。この政策は、高無百姓に対する飢饉後遺症からの救済措置と併せて、新たな形式をとった年貢の確保策と考えられている(浪川健治「中期農政と農業技術」長谷川成一編『北奥地域史の研究―北からの視点―』一九八八年 名著出版刊)。
このような植林政策の結果、江戸中期の末には、米に次ぐ重要な産物として木材が位置づけられるようになった。なかんずくヒバは良材を産出していた。文化・文政期には伐採が進み、江戸などに大量輸出されていたことが知られている(浅野源吾『東北産業経済史 五 津軽藩』一九三七年 東北振興会刊)。
一方、元禄期以降の漆栽培についてみると、享保七年(一七二二)の漆の実生産量は三二四石一斗一升、生漆生産量は二四八貫三八〇匁であり、翌年には漆の実生産量が八一七石三斗五升、生漆生産量が二二二貫八九〇匁となっている。このように漆の実生産量には格段の開きがあるが、これは漆が隔年で豊凶を繰り返すためである。ただ、元禄期と比較すれば生産が拡大していることは明らかである。しかし、延享年間には拡大成長が止まった。延享四年(一七四七)、藩ではさらなる漆の生産拡大を目指して、一〇〇〇本以上の栽培者への手当て支給や漆畑の年貢免除、栽培者への褒美などを含む漆栽培の奨励策をとった。さらに、藩では宝暦年間から明和年間にかけて生産増強策・奨励策をとったが、天明の大飢饉が漆栽培の衰退に拍車をかけたと推測される。その影響が薄らいだ時期に、再び漆栽培が殖産興業策の一環として採用されるようになる(福井前掲「『漆木家伝書』解題」)。