図69.慶安の絵図(寺町の寺院街が空白になっている)
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万治二年(一六五九)十一月の「津軽弘前古絵図」(弘図津)をみると、慶安の絵図といくつか違いが判明する。第一は新寺町に報恩寺・円明寺(えんみょうじ)などの八ヵ寺と四〇軒余りの町屋が取り立てられたこと。第二は元寺町に新たな町割りがされ、本寺(もとてら)町一丁目(現一番町)・白銀(しろがね)町(現鉄砲町)・鞘師町が二町(現上・下鞘師町)・本寺町五丁目(現元寺町小路)ができたこと。第三に土手町南西側(現山道町)と北東側(現瓦ヶ町)に新たな侍町ができたこと。第四に新土手町の延長がみられ、南西・北東の両側に足軽町の取り立てがなされたこと。第五に大圓坊の南(現青森県立弘前高等学校の付近)に銅屋町と銅屋派町(どうやはだちまち)の取り立てがみられること等が挙げられる。
図70.万治の絵図(新寺町が形成されている)
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さらに、万治の絵図から一四年後の、寛文十三年(一六七三)に絵図が作成され、四月二十一日に幕府に提出された。その控図が「弘前中惣屋敷絵図」(弘図津、以下「寛文の絵図」と略記)である。この絵図にも万治の絵図とのいくつかの違いがみられる。第一は新銅屋町(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新鍛冶町)ができ、万治の絵図にあった銅屋町と銅屋派町がなくなったこと。第二は新派町(現平岡町)と派町(現西大工町)ができたこと。第三は駒越川(現岩木川)沿い(現浜の町)に、町屋が一四軒できたこと。第四は新派屋敷(現徳田町)の取り立てがみえること。その他として、茂森山に時鐘堂(じしょうどう)・新寺町に遍照寺(へんしょうじ)・現山道町(やまみちちょう)の南に五智如来堂と御鷹部屋が新たにみえている。しかし、万治の絵図にみえていた新土手町の南西・北東側にあった足軽町はこの絵図にはみえない。
図71.寛文の絵図(長勝寺構の部分)
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この後、延宝年間から元禄年間にかけて大きな変化として挙げられるものに、掘替工事による岩木川の一本化がある。岩木川は鳥井野(とりいの)(現岩木町鳥井野)付近で二筋に分かれ、一筋は駒越川、もう一筋は岩木川もしくは樋の口(ひのくち)川と呼ばれ、長勝寺下から本丸の西を流れて紺屋町に入り、その北で駒越川と合流していた。延宝二年(一六七四)樋の口川の水量を減らし駒越川の水量を多くする掘替工事が行われた(『記類』上)。その後、天和二年(一六八二)に再び掘替工事が行われ(「国日記」天和二年八月十二日条)、岩木川は駒越川一筋になり、樋の口川は西濠(にしぼり)となった。駒越町や西大工町・平岡町などの城西地区の町割りが拡大した。延宝の絵図と呼ばれる「弘前惣御絵図」(弘図郷)には、延宝五年(一六七七)から元禄十五年(一七〇二)までの変化が貼り紙で示されており、様子が判明する。
図72.延宝の絵図(掘替工事後の樋の口川の変更の様子)
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次いで元禄八年(一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士・足軽・小人・中間や藩から扶持米をもらっていた職人・町扶持人の召し放ちを大量に行った。一〇六〇人が城下を離れたといわれており、そのため城下の侍町などに大量の空屋敷が生じ、城内に屋敷をもらっていた家臣たちはこれらの町に移転をした。元禄十年から屋敷替えが開始され、同十二年には家老・用人などの重役にも屋敷替えの命が下った。その後、宝永二年(一七〇五)三月から、残っていた三の丸の武家屋敷移転が開始され、同四年に本格的移転が行われた。この結果、城の周りの町人屋敷は移転を命じられ、大浦町・白銀町が上級武士の屋敷町となった。同六年にも屋敷替えが行われ、城内は主に政務機関のみが所在する場所となったのである。