城下弘前の変化

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弘前城下は時代とともに変化・拡大をしていくが、以下各時期の城下絵図を参考に記述していく。最初に大きな変化がみられるのは慶安三年(一六五〇)のことである。前年五月三日に横町から火災が起き、寺町の五ヵ寺等が焼失した。このため、翌年三月に南溜池の南側に新寺町が形成されたのである。新寺町には寺町にあった天台宗浄土真宗日蓮宗浄土宗寺院が移転した。このため、寺町は以後本寺町(元寺町)と呼ばれるようになる。この、五ヵ寺等が焼失したころに描かれたのが、慶安二年ころの成立とみられる「弘前古御絵図」(弘図津、以下「慶安の絵図」と略記)である。この絵図では寺町寺院街が空白になっており、新寺町町割りがなされていないので慶安二年(一六四九)成立とみなしてよいものである。この絵図の最大の特徴は、各ごとに屋敷割りがなされ、居住者すべてに氏名・屋号が記入されていることである。これによれば、家業として木綿(もめん)屋・小間物屋・菓子屋そば屋そうめん屋青物屋などの商家があり、この内居鯖(いさば)五一・煙草(たばこ)屋五四・煙草作り二三が目立つ。なぜか煙草屋茂森町に集中していた。一方、職人集団として鍛冶(かじ)九一・銅屋(どうや)二一・大工三九・馬屋および馬喰(ばくろう)一八・鞘師一一・鷹師二九・紺屋一二九がいた。商家では地名・国名を屋号とするものが多く、江戸屋京屋大坂屋兵庫屋堺屋尾張屋・丹波(たんば)屋・広島屋・備前(びぜん)屋・大和屋若狭(わかさ)屋・越前屋越中屋越後屋輪島屋秋田屋などがあった。西日本の国名が多いのが目立つ。湯屋と記さずに風呂屋と記したり、大坂屋が多いことからわかるように、上方との交流が深いことが判する。武士は、姓名のあるものが三七一軒、その他鷹匠小人小知行等が一八五軒がみえ、約五六〇軒の侍が住んでいた。また、南溜池の近くに大円坊という記載がみえ、真言宗大圓寺の存在が確かめられるほか、現在の茂森新町の町並みが形成されていることがわかる。

図69.慶安の絵図(寺町寺院街が空白になっている)
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 万治二年(一六五九)十一月の「津軽弘前古絵図」(弘図津)をみると、慶安の絵図といくつか違いが判する。第一は新寺町報恩寺円明寺(えんみょうじ)などの八ヵ寺と四〇軒余りの町屋が取り立てられたこと。第二は元寺町に新たな町割りがされ、本寺(もとてら)町一丁目(現一番町)・白銀(しろがね)町(現鉄砲町)・鞘師町が二町(現上・下鞘師町)・本寺町五丁目(現元寺町小路)ができたこと。第三に土手町南西側(現山道町)と北東側(現瓦ヶ町)に新たな侍町ができたこと。第四に新土手町の延長がみられ、南西・北東の両側に足軽町の取り立てがなされたこと。第五に大圓坊の南(現青森県立弘前学校の付近)に銅屋町銅屋派町(どうやはだちまち)の取り立てがみられること等が挙げられる。

図70.万治の絵図(新寺町が形成されている)
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 さらに、万治の絵図から一四年後の、寛文十三年(一六七三)に絵図が作成され、四月二十一日に幕府に提出された。その控図が「弘前中惣屋敷絵図」(弘図津、以下「寛文の絵図」と略記)である。この絵図にも万治の絵図とのいくつかの違いがみられる。第一は新銅屋町(現銅屋町)と新派(しんはだち)町(現桶屋町・新鍛冶町)ができ、万治の絵図にあった銅屋町銅屋派町がなくなったこと。第二は新派町(現平岡町)と派町(現西大工町)ができたこと。第三は駒越川(現岩木川)沿い(現浜の町)に、町屋が一四軒できたこと。第四は新派屋敷(現徳田町)の取り立てがみえること。その他として、茂森山時鐘堂(じしょうどう)・新寺町遍照寺(へんしょうじ)・現山道町(やまみちちょう)の南に五智如来堂と御鷹部屋が新たにみえている。しかし、万治の絵図にみえていた新土手町の南西・北東側にあった足軽町はこの絵図にはみえない。

図71.寛文の絵図(長勝寺構の部分)
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 この後、延宝年間から元禄年間にかけて大きな変化として挙げられるものに、掘替工事による岩木川の一本化がある。岩木川は鳥井野(とりいの)(現岩木町鳥井野)付近で二筋に分かれ、一筋は駒越川、もう一筋は岩木川もしくは樋の口(ひのくち)川と呼ばれ、長勝寺下から本丸の西を流れて紺屋町に入り、その北で駒越川と合流していた。延宝二年(一六七四)樋の口川の水量を減らし駒越川の水量を多くする掘替工事が行われた(『記類』上)。その後、天和二年(一六八二)に再び掘替工事が行われ(「国日記」天和二年八月十二日条)、岩木川駒越川一筋になり、樋の口川西濠(にしぼり)となった。駒越町西大工町平岡町などの城西地区の町割りが拡大した。延宝の絵図と呼ばれる「弘前惣御絵図」(弘図郷)には、延宝五年(一六七七)から元禄十五年(一七〇二)までの変化が貼り紙で示されており、様子が判する。

図72.延宝の絵図(掘替工事後の樋の口川の変更の様子)
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 次いで元禄八年(一六九五)の飢饉によって、弘前藩では「減少」と呼ばれる、藩士足軽小人・中間や藩から扶持米をもらっていた職人町扶持人召し放ちを大量に行った。一〇六〇人が城下を離れたといわれており、そのため城下の侍町などに大量の空屋敷が生じ、城内に屋敷をもらっていた家臣たちはこれらの町に移転をした。元禄十年から屋敷替えが開始され、同十二年には家老用人などの重役にも屋敷替えの命が下った。その後、宝永二年(一七〇五)三月から、残っていた三の丸武家屋敷移転が開始され、同四年に本格的移転が行われた。この結果、城の周りの町人屋敷は移転を命じられ、大浦町白銀町上級武士の屋敷町となった。同六年にも屋敷替えが行われ、城内は主に政務機関のみが所在する場所となったのである。